第一話 一章
雨月は怒らなかった。
実は、雨月は俺よりも二つも年上で、そんなことはいざ知らず堂々と下の名前を呼び捨てにした俺を、雨月は怒らなかった。
それどころか、『今のままでいい』とまで言った。敬語もいらないのだと。
変わった人だと思いつつも、俺はその言葉に甘えて雨月とほぼ対等の立場で事務の仕事をこなした。
しかし一つだけ、気がついたことがある。
雨月の事務仕事の効率が、非常に悪いのだ。下手とか不得手とかいうものではなく、不慣れといった感じだ。
雨月が以前何をしていたのかを、俺は聞いたことがない。もしかしたら、事務仕事はあまりしたことがない、もしくは関係がなかったのかもしれない。
「雨月はさ……」
少し暇になってきたので、手際のよくない雨月を手伝いつつ話しかける。ん、とやる気のなさそうな返事は気にせず、話を続けた。
「ここに来る前は、何してたんだ?」
世間話と同じように言ったつもりだが、何か不自然だっただろうか? ――雨月は、手を止め、幾らか考え込む。
俺は資料の束を、たんっ、と揃えて机の端にまとめる。それとほぼ同時に、雨月は口を開いた。
「自宅警備員?」
語尾が疑問形になっている理由は気にしないこととして、とりあえず答えは聞くことができた。先程までの間が何だったのか気になるが。
気になることしかない事実には蓋をして、それとなく笑う。
「自宅警備員って……ニートじゃねえか」
呆れてみせるようなことも言ってみる。しかし、次いで現れた疑問は、素直に口にした。
「けど、何で今更就職を?」
何となく、今の自分の言動は面接官みたいだな、と思う。尋問にも似た雰囲気の問い。それは、ほとんどの場合で答えることを強いられる。しかし、今の場合では違うだろう。俺は答えを強いてはいないのだから……そうだと、思いたい。
また、先程と同じように間を置いた雨月は、ゆっくりと話す。
「……家にこもってるのも、暇になってな。面白いところでもあるかと思って探したら、ここが一番面白そうだったんだ」
就職の理由に加えて、ここを選んだ理由までつけるとは。馬鹿ではないことはそれとなく分かっていたが、存外しっかりしたタイプかもしれない。
まさかの自宅警備員に驚きは覚えたが、このようなタイプならすぐに仕事を覚えてもらえそうだ。仕事といっても資料の整理がほとんどで、時々は大量の個人情報を分析して色々……とするのだが、今は説明を省こうと思う。
「それに……」
雨月は、先程の説明に加えて何か言おうとする。少しの間を空けて、
「あのお偉方……高尾さんだったか、が暖かい人で……魅力を感じた、とでも言えばいいか」
どこか懐かしそうな目で語る雨月。俺は居心地の悪さを覚えつつも、その場では何も言わなかった。
雨月は何かを隠している。そう分かっていても、問うことのできない環境というものが、世の中には存在するのだ。ましてや、仲のいい訳でもない人の隠し事なんて。
「……まあ、気にするな。天野さんが気にするほどのことでもない」
俺の心境を察したのか、それとも全部顔に出ていたのか。どちらかは分からないが、雨月は俺の疑問を先回りしたかのように言った。
「自宅警備員に、大した思い出はないのさ」
雨月は茶化したようにそう言って、しかもウィンクまでしてくる始末だ。ノリはいいらしく、何とも楽しそうであった。
しかし――やはり、雨月の作業効率は悪かった。
***
――もうお前に会うことは、ないだろう。
懐かしさを覚えるような声を、神田雨月はゆっくりと思い出した。そして思い出した言葉を、なぞっていく。
雨月は、嘘をついている。そしてそれを、天野晴は分かっている。きっとその上で、知らないふりをしている。
雨月は深く溜息をついた。
***
雨月もだいぶ雑用に慣れてきたところで、今度は雨月に接客を教えなければならなくなった。
なぜ接客、とは思うが、よく考えてみてほしい。特殊部隊というのは、今のところは仕事がなくほとんど機能していないのだ。結果、社長の高尾さんにはいいように使われている。俺は度々社長に呼ばれては、
「これからお客様が来るから、相手をしていてほしいんだ」
とか、
「僕はこれから出かけてくるから、お留守番を頼んでもいいかな?」
とか、
「今度、新採用の面接があるから、その準備を……」
とか。雑用を越えて、何でも屋状態だ。お留守番に関しては、小学生に戻ったような気分になる。
そういった雑用係的な役職に、雨月が不満を持たないかとか、仕事の多さからストレスに押し潰されてしまわないかとか、心配ごとは数え切れないほどある。それに、仕事としては俺が先輩だが年齢は雨月のほうが上という微妙な立場を考えることが、既に嫌になっていた。
もう二十六にもなる男が何を悩んでいるんだ――とも思う。それでも、仕事上の後輩というものには相当に気を遣った。
しかし、この場では雑用の数々を教えなければならない。俺は気を取り直す。
「接客は……とりあえず丁寧にしていれば大丈夫かな。経験はあるか?」
雨月にそう問うと、
「ああ……、幾らかは」
と自信なさげな返答をした。
俺のように全て感覚で切り抜けてきた人間から教えられることは、一切ない。同じように感覚を身に着けてもらうほかは、何も思いつかない。
経験を積んでいくしかないなあと思いつつも、何か練習できれば、とも思い部屋にある使えそうなものを見回していた時だった。
「天野さん。来客です」
設楽の声がしたかと思うと、普段使っている狭苦しい部屋に顔を出してきた。短く切られたさらさらの黒髪が揺れている。
「ああ。すぐ行くから、茶の用意を頼んでもいいか?」
「分かりました」
設楽と短いやり取りをしてから、雨月を振り返る。身長の高い雨月は、今のやり取りを見下ろしていた。
「早速、実演だな。今回は見るだけ見て、感覚をつかんでおいてくれ」
頷いた雨月を尻目に、俺と雨月は談話室へ足を向けた。
「こんにちは」
談話室に入るなり、そう声をかけて微笑んでみせる。談話室で心細げに椅子に座っていたのは、まだ小さな少女だった。
「……こんにちは」
しかし、とても声が小さく聞き取りにくい。それに関しては頑張って聞き取るとして。
「どういったご用件ですか?」
できる限り優しく、と意識しつつ問うが、少女は言いにくそうにしている。微妙な空気と間を埋めるために俺が茶に口をつけると、少女も同じように少しだけ茶を口に含んだようだった。そのまま、少女が話し出すまで静かに待つ。
「……あの……最近、知らない人がよく家の前にいて……怖くて、相談しに来ました」
幾らか待ったところで、ようやく聞き出せたのはこの情報だった。知らない人が家の前にいて恐怖心があるということだが、疑問が残る。
「……相談を頂いたところ、申し訳ないのですが……なぜ私たちに?」
もし“家の前にいる人”がストーカーだとしたら、警察に相談するのが妥当だろう。というか、警察に相談してほしい。俺たちの手に負えない可能性だって、充分にあるのだ。
すると、少女はポケットから一枚のメモを取り出して俺に差し出した。
「……もし困ったことがあったら、この番号に連絡するといいって……わたしの叔父さんが言っていたので……連絡しました」
確かに、番号は弊社のものだ。だが、この字は恐らく少女のものではない。かなり癖があり、子供が書く字ではないような印象を受ける。
それにしても、何だか珍しい相談だと思う。主に“特殊部隊”そのものが受けるものは、大抵が不穏な依頼だ。殺人の気配を感じたり、粘着質なストーカーが危険行為に出たりなどの警察沙汰がほとんどなのだ。
しかし、警察に連絡しないのにも理由がある。使い物にならないのだ。“使い物にならない”ことにも更に理由があるのだが、確証はないのでまだ考えないことにしている。
今考えるべきなのは、目の前の“相談”についてだ。この少女の叔父さんとやらが、この特殊部隊に繋がりがあるのかということ。そうでなければ、存在は知らないはず。――特別な状況を除いて。
とりあえず、この件は頭の隅に置いておこう。
「……分かりました、対策を検討してみます。一応、名前を聞いてもいいですか?」
「あ、はい。えっと……浅賀メイと、いいます」
それから、少女は礼を言ってきた。念のため、住んでいる地域も教えてもらい、他の情報も聞き出しつつ話を終わらせた。
浅賀メイ。よくあるような名前だ。
「……浅賀、か……」
だが、雨月にとってはそうでなかったのだろうか――隣のつぶやきの真意は、まだ分からない。
***
「ねえ、渡辺チャン。……この件がどうしても片付かなくてさぁ、どうしよう」
パソコンを前にして、男――上原は、隣に立っている渡辺と呼んだ男に問いかけた。
一応、組織の中では高い位に就いている上原だが、中卒であるためか知識がなく、幹部である渡辺に頼ることが多い。その渡辺は、そんな上原には協力的だった。
「……この件は、浅賀を派遣することにしましょう」
渡辺の出した答えに、上原は「そうするよ、ありがとう!」と笑顔で頷いた。
***
浅賀メイ。
雨月は、その少女の名前を知っていた。
よく、昔の知り合いが言っていたのだ。『自分の姪が可愛い』のだと。
とは言いながら、本名が“メイ”なものだから、ずっと姪の名前を言いふらしているような気分になる、とも言っていた。
その少女のことを話す時の彼は、とても楽しそうで。あの表情は今でも、鮮明に記憶に焼き付いている。
雨月は、もし覚悟のいる時になっても動けなかったらどうしよう、なんてくだらないことを考えていた。
***
翌日になって、俺と雨月はあの少女が住んでいるらしい地域を訪ねることにした。
雨月は何だか上の空で、しかも乗り気でない様子だったが、一応研修のようなものだから、と一緒についてくるように促した。
少女が言っていた情報を基に、それらしい人を探す。服装は、和装だと言っていた。ちょうど、雨月のような。
その雨月は、今は帽子を目深に被っている。少しだけ疑問に思ったが、その点に関しては気にせずに道を歩いていく。
「なぁ、雨月」
声をかけると、雨月が反応を示したのが何となく分かった。
「雨月のその帽子は、気に入ってるのか?」
帽子は特徴的な形をしている。その形状からチロリアンハットだとは思うが、今まで“自宅警備員だった”雨月が持っているようなものだとは到底思えなかったのだ。
「……ああ、気に入っている」
俺の問いを、雨月は肯定した。その表情に、笑顔にも似た懐かしさが宿るのを見て、俺は内心驚いていた。
まるで、大切なものを抱えているような表情だったためだ。俺は雨月について何も知らないから、少し引っかかってしまったのかもしれない。
雨月の表情を暖かく思いながらも、辺りに視線を巡らせた。
今のところ、まだ怪しげな人物は見えてこない。それどころか、人影一つ見当たらないことが不気味だった。
「特に何もないみたいだな。――雨月?」
雨月は、何もない物陰を見ているようだ。何もないはずの一点を、じっと見つめている。その雨月は、「……悪い、少し離れてもいいかい」と言って、俺の返事を待たずに去ってしまった。
完全に取り残される。
研修のつもりで来たのに、その対象者がいなくなってどうするというのだ。どうしろというのだ。
待つしかないだろうとは思うが、とても暇な時間だった。
***
無関係な人間だけは、巻き込んではならない。それだけは絶対に、貫くべきだ。
そう教わった。他でもない“彼”に、教わったのだ。
無関係な人間に危害が及ぶようなことがあれば、自分たちがしていることは公になってしまうだろうと。
だから、いいや、そうでなくとも、晴を巻き込んではならない。
雨月はその一心で、晴から距離を取った。
“彼”が何を狙っているのかは、いざ知らず。
***
十五分以上経っても、雨月は戻ってこなかった。
一体、どこで何をしているのか……どうしたらこんなに人を待たせられるのか、その神経は俺には理解できない。
仕方なく、辺りをうろついて探し始める。すると、
「……天野さん」
背後から、声が聞こえた。
「雨月……、どこ行ってたんだよ」
和装の彼は、すまない、と言う。勝手に離れてすまない、と。
そのまま、辺りの散策は続ける。相変わらず、怪しい人影は見当たらない。
「あの子が言ってた“知らない人”って、何だったんだろうな。もしかしたら、もういないかもしれないな」
そうつぶやいてみる。言葉の通り、俺は怪しい人物が立ち去った後だと思っていた。
特殊部隊が所有している部屋に戻ろうかと、その方向へ足を向ける。雨月は何も言わずについてきた。
途中で、ひと気のない公園に立ち入る。見事に誰もいない公園だった。
「……それでさ、雨月」
ふと、足を止めた。
振り返り、後ろに立つ彼の姿を見つめる。
「――お前、誰だ?」
俺のその一言で、彼の動きは完全に止まった。ぴくりとも動かない。まるで奇妙な彫刻か何かのように、全く動かない。
着ている服は、雨月と同じものだった。被っている帽子も。歩き方さえ雨月に似ていた、しかし――“特殊部隊”を、名だけだといって舐められては困る。
他人の変化や違いを見極められるよう、特別な訓練を受けているのだ。
「……何を、言ってるんだ」
俺にそう言う声は、とても似ている。違いといえば、こちらのほうが少しだけ掠れているくらいのものだ。
「その帽子の被り方が、不自然なんだよ。顔を隠してるみたいでさ」
わざとらしいのだ。行動を“似せようとして”。雨月の帽子の被り方は、もう少し浅かった。
その後の相手の動きを、俺は見逃さなかった。
彼は、懐に手を伸ばす。何か細長いものを取り出し――あれは、ナイフではなく脇差しだ。
予想は的中した。
俺を攻撃しようとするこの人物は、神田雨月ではない。
俺はあるものを懐から取り出す。それを目の前の男へ向けるとすぐに、男は動きを止めた。
既に安全装置を外され、俺の手に握られたそれは、小型拳銃だ。
互いに動きを止めたまま、互いの動きを探り合う。
その相手も相当の訓練を受けているようで、いつ攻撃を繰り出してくるのか行動が読めない。
一瞬の間を置くと、後ろへ飛び退き発砲する。その弾は的中しなかったが、充分な威嚇にはなったはずだ。
相手が口を開くか、動きを見せるかのどちらかが来るのを待つ。何か情報が聞き取れないかと、探りを入れるのはまだ早い。まずは、どう動くか……。
動きを観察する。分析し、次にどのような行動に出るのか考える。
しばらく、誰も動かなかった。ただじっと、互いを伺い続ける時間。――しかし、今度は相手のほうが間合いを詰めてきた。
とっさに拳銃を構えるが、間に合わなかった。相手の脇差しに拳銃を弾かれ、手の届かない距離まで転がっていってしまう。
手持ちの拳銃がなくなってしまった。今日は特に何も起こらないだろうと思って、一丁しか持っていなかったからだ。そんな日に限って、人は襲ってくる。俺は舌打ちをして、打開策をただ考え始めた。
逃げるのは、恐らく無理だ。今の男の動きを見ると、瞬発的にスピードを出せるタイプだ。俺が走っても、即座に追いつかれて終わりだろう。ならば攻撃する方法は? ――ない。たった今、弾かれてしまったばかりなのだ。
どうすればいい――。
相手は迫ってくる。当然だ、丸腰の敵を殺そうと思わない人はいないだろう。
再度、舌打ちをしそうになった時だった。
目の前の男の後ろに、一つの影が音もなく現れる。
ほぼ同時に、男の被っていた帽子が地面に落ちた。
「あの少女を使って俺たちを誘い出して、何をするつもりだったんだ?」
払われて落ちた帽子を見下ろしながら、つぶやくように言ったのは雨月だった。
本当に、どこに行っていたんだ。心配していたのが無意味だったかのように、雨月は当たり前に俺の前に現れた。
雨月に問われてもなお、更に攻撃をしようとする男に、雨月は冷たく言い放った。
「俺たちを殺すつもりなんだろう? ――浅賀宗介」
アクション描写に慣れることができません