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朱塗りの竜安国の後宮とは打って変わって、白大理石の円天井と四本の鋭い尖塔を持つラージャムの本宮から夕刻の鐘が響いた。
その本宮と後宮を繋ぐ回廊を渡り、西の朱門を潜った先には女達が国王を迎えるための大広間がある。
扉が無数にあるラージャム風建築の白い広間であり、国王ダリウスが見合いをするたび使われた部屋でもあった。
今またそこに多くの女達が集められており、総勢三百名ほど。
立候補してきた百人の花嫁候補だけでなく、娘を送り出した貴族達が選りすぐった侍女も含めての数だ。
侍女達は娘が気に入られなかったときの保険であり、ラージャム王に選ばれる確率を高めるための手駒である。
それぞれが自国の美しい衣装に身を包み、クッションにもたれ楽しげに笑いさざめく中、壁際に腰を下ろしていた葵は一人焦燥と不安に苛まれていた。
(あの子、どこに行ってしまいましたの……!?)
強引に同室の宿命を負わされたとはいえ、後宮内で唯一会話ができる少女、ニーナの姿が消えてしまったのだ。
ニーナは先刻後宮に到着したばかりであったし、他の花嫁候補に存在を知られていない。
国王との謁見の時刻も迫っているし、危害など加えられないだろうと葵も完全に油断して一人で湯殿に行かせたのだ。
だが甘かった。
あまりに風呂が長く心配になって迎えに行ったが、そこはすでに無人となっていたのだ。
(なんて怖ろしいこと……! 絶対に他の候補者に何かをされたのだわ)
しょっぱなから女達に狙われたらしい。
自分ですら後宮に入った初日から嫌がらせを受けたのだ。ニーナほどの絶世の美少女に対し他の女達が脅威を感じないはずがない。
下手をすれば、この大広間で国王がニーナを見るだけで勝負がついてしまうかもしれないのだ。
誰かに危機を知らせようにも、葵は身一つでこの繚乱後宮に入っている。
手を貸してくれる供の者などおらず、勇気を出して他の花嫁候補に聞いてみたが当然のごとく知らぬ存ぜぬだった。
(どうしたらいいのかしら。わたくしがおすがりできるのは九天様しかいらっしゃらない)
九天の方から訪ねてきてくれれば苦労はないが、生粋のお嬢様である葵からはどう行動を起こせばいいのか分からない。
だがこのままニーナを放っておいて、万が一命の危険があればどうすればいいのか。
とにかく国王との謁見が終わり次第、なんとか九天に連絡をして────。
「皆様、お待たせいたしました」
爽やかな九天の声が響き、考えに没頭していた葵はハッと顔を上げた。
女達も一斉に居住まいを正し、緊張と、それ以上の期待に満ちた空気が辺りを包む。
興奮にうっすらと微笑みを浮かべた花嫁候補達を見渡し、大広間に現れた九天は恭しく頭を垂れた。
「皆様には公正を期して陛下への挨拶を禁止とさせて頂いておりましたが、本日ようやく候補者がそろいましたので謁見を始めさせて頂きます」
そろってはいない。
一人足りないと言いたかったが葵には声を上げる勇気がない。
なすすべもなく唇を噛む葵が見つめる前で、九天がゆっくりとひざまずく。
「ラージャム国王、ダリウス陛下のお出ましにございます」
九天に倣い、全ての女が床へと顔を伏せた。
立って挨拶をするのが礼儀というザザ連合王国から来た女達もそれに合わせ、すでにラージャムの文化を学んできたことをアピールする。
花嫁候補の並々ならぬ気合いを感じたはずだが、女達の前を通るラージャム国王の足音はそんなものに怯むことなく堂々としていた。
(かなり大柄な方だわ……)
面を伏せながら、葵は気配だけで目星をつけた。
大柄といっても肥満体質ではなく、上背があり、鍛えられた厚い肉体を持つ男だと分かる。
この身体つきでもしも傲慢な王だとすれば怖ろしい──と思いかけとっさ打ち消したとき、低い声が響いた。
「────顔を上げろ」
大きな声ではない。
どちらかというと密やかな声だったが、しんとした広間ではよく通る。三百人の女達は待ってましたとばかりに華やかな笑顔で身を起こし────。
「────!」
その表情のまま凍りついた。
先ほどまでの静けさ以上の不自然な沈黙が広間に落ち、誰もが慄然と動きを止める。
大広間の奥に設えられた黄金の玉座の前に、一人の背の高い男が立っていた。
襟ぐりの開いた白絹の長衣に、左肩から斜めに掛けられているのは高価な染料で染め上げた見事な帝王紫のアンタリ。
極彩色の太帯が巻かれた腰はがっしりとしていて、服の上からでも、長く伸びた脚や腕が戦士のように強靭な筋肉に包まれていると分かる。
厚みのある胸は黄金の瓔珞で飾られ、腕や指、足首に嵌められた装飾品は目を奪われるほどの細工だ。
一国の王として申し分ない堂々とした装いに、だが、葵は全身から血の気が引いていくのを感じた。
身を起こした姿勢のまま固まり、指一本も動かせない。
目の前に立つものがなんなのか理解できず、呼吸が止まる。
驚異的な美貌を持つニーナを見たときとは真逆の恐怖に襲われ、瞬きすらできなかった。
ラージャム国王の髪が、白い。
銀ではない。そんな輝きもなく、耳にかかるほどの髪は年経た老人のような白さだった。
肌も真っ白だが病的なものとはまた違う。青白いとかではなく、ただ粉のように白いのだ。
だが、驚嘆すべきは髪や肌の白さではない。
(目が、────!)
全身に震えが走り、信じられない思いで葵は息を呑んだ。
眼球の、白目の部分が血のように赤いのだ。
今にも鮮血が噴き出そうなほど赤く、その中心に位置する虹彩が黄金。
獣のような金色の瞳の中で、瞳孔だけが黒々としている。
今や国王との謁見の場は、大きな一つの疑問に満たされていた。
これは、人間なのか────?
誰もが混乱と恐怖に襲われ、我に返った一人の女が悲鳴を上げて頭を垂れた。
それを皮切りに次々と女達が目を伏せ、葵もせめてもの礼儀として悲鳴を呑み込み床に額を押し付けた。
視線が合えば殺される。
見るだけで禍々しい何かに憑りつかれそうで、とてもではないが直視することはできなかった。
三百人の女がそろって、顔を上げる者は一人としていない。
広間には不気味な静寂が広がり、誰もが必死に気配を殺そうとしているかのようだった。
「──ダリウスだ」
ようやく聞こえたのは、低く重々しい声だ。
こんな茶番は早く終わりにしたいとでも言うように、凍りつく女達に「楽にしろ」と言ってくれることもない。
黄金に光る鋭い眼で女たちを睥睨するだけだ。
名乗ったきり長い沈黙に入り、見かねた九天が間に入った。
「えー、はるばる異国からお集まり頂き感謝いたします。花嫁候補の皆様方にはこの後宮で今日から三日間を過ごして頂きます」
空気を変えようとする明るい声が空々しく響き、女達はますます身を強張らせる。
「その間とあるテストを行いますが、それに合格した方、またはこの三日の間に陛下のお心を奪った方を妃もしくは側室としてお迎えいたします。そのテストとは……」
ごくり、と広間に集まった全員が息を詰める。
「ズバリ、掃除です!」
は? ……と言いたかっただろうに声を発する者はいない。
掃除? 掃除ってどういうこと? と頭を垂れる女達の頭上に「?」が浮かんだが、それを言葉にすることもできない。
反論がないことに満足したのか、九天は得意気に胸を張る。
「掃除の場所はこの繚乱後宮です。ここをいかに美しく整えることができるか、それを皆様に競って頂きます。判定は後宮長である僕、胡九天が行いますので!」
他に何か質問はありますか? と尋ねられたが挙手できる者などいるはずがない。
再び重い沈黙が流れ、しんとした空間にかすかなため息が落ちた。
「……一つ言っておくが」
ダリウスが口を開いたとたん誰かが「ヒッ」と悲鳴を上げる。
それには目もくれず、ダリウスは言葉を続けた。
「私は妃となる者に権力や金を与えるつもりはないし国政に関わらせる気もない、妻を迎えろと母に言われたから選考会を開いただけでとくに進んで結婚したいわけでもない」
聞かせるつもりもないのか、独り言のように声は小さく異様なほど早口だ。
一息ついて、今度は少しはっきりした声で言った。
「これから三日間自由に過ごしてくれ。残るも消えるも自由だし、出ていく際の挨拶も不要だ。帰る場所がない者には勤め先を斡旋しよう。遠慮せず申し出てくれ」
いったいどんな勤め先へ送られるというのか。勤め先を斡旋してやると言われても、怖ろしくてそんな申し出はできそうもない。
返事もなく身動きもしない女達に閉口したのか、ダリウスは話は終わりとばかりに玉座の前から歩き出す。
だが、その足が突然ピタリと止まった。
怖い物見たさでおそるおそる目を上げた女達の前で、ダリウスは背後の壁の一点を見つめたままおもむろに片足を上げる。
前触れも、理由も何もなかった。
ダンッ!! と凄まじい音がして、ダリウスが無言のまま壁を蹴り飛ばしたのだ。
「キャアアアア──────────────────ッ!」
これまで耐えに耐えていた女達の口から凄まじい悲鳴が迸り、誰かが転がるように広間から走り出る。
一人が逃げれば止めることなどできない。雪崩を打つように皆が逃げだし、辺りは一気に騒然となった。
まるでダリウスの蹴りによって広間が倒壊したかのような騒ぎになり、恐怖に立ち上がることもできなかった葵は床についた手をカタカタと震わせた。
当の本人であるダリウスは狂騒を一瞥することすらなく、さっさと広間を出てしまっている。
歓迎どころか、追い出そうとしているとしか思えない。
なぜ壁を蹴ったのか。花嫁候補達の態度が気に入らなかったのか、自分の力を誇示し、結婚後は絶対服従を誓わせるぞと言いたかったのか。
(嫌だ、選ばれたくない──…………!)
とっさに葵の心に浮かんだ気持ちは正直なものだった。
すぐさまそんなことではよくないと打ち消したが、一度胸に根付いた恐怖は簡単に消えそうもない。
自分はあの男の関心を得るために努力できるのだろうか?
もう帰る場所などない。さりとて、あの男の花嫁となる自分が想像できなくて、気づいたときには頬を涙が滑り落ちていた。
──────────────── ※ ────────────────
未だに悲鳴の収まらない大広間から出て、ダリウスは黙って歩を進め続ける。
朱塗りの西門を抜け、緑の木々に囲まれた白い回廊を渡り、本宮へと入り、いつもの執務室目指して黙々と早足で歩く。
歩いて歩いて、歩きに歩いて。
ようやく執務室の扉を開いた瞬間スパ────ンッと何かに後頭部をぶん殴られた。
ぎょっとして振り返ったダリウスの目に、丸めた紙束を握る九天の姿が映る。
「アホですかあなたは!? 誰が女性の前で壁を蹴れと言いましたか!? な~ぁにが『──ダリウスだ』ですかっ! あれほど愛想よくしてくださいとお願いしたのにカッコつけてんじゃないですよ!?」
アタック! とばかりにジャンプして殴られたが、それよりも訴えことがありダリウスは負けじと反論した。
「カッコつけてるわけではない、驚いただけだ! お前はいったい何人女を集めたんだ!? 明らかにその名簿に載ってる人数を大幅に超えてるだろうがっ!」
「こっちだって予想外で部屋が足りないんですよっ、黙らっしゃい! あれは名簿の花嫁候補のお付きの方々ですよ! 主の姫君を差し置いてラージャム王妃になれると聞いて参戦した、どうにかして玉の輿に乗り込みたい自尊心の強い方々ですよ!」
「さ、蔑みしか感じない……!」
「邪魔だっつってんですよ、呼んでもないのに来るなっつーの! 部屋がない!」
「お前さっきからそればっかりだな!?」
「自分の住む場所は自分で掃除しろ! 後宮の管理は僕の仕事じゃない!」
「お前の仕事だろう、後宮長!!」
お互い言いたいことを罵り合い、ぜーはーぜーはーと一息つく。
ダリウスに仕える小姓や近衛兵はいつものことなので相手にもしない。テキパキとダリウスの勝負アンタリを脱がせたり、お茶を用意したり、仕事の続きを準備する。
いつもの服装にいつもの空間、周囲には見知った顔だけになり、極度の緊張から解き放たれたダリウスはようやく脱力して椅子に座り込んだ。
「とにかく疲れた……。あんな大勢の前に出たのは生まれて初めてだ。今までは一対一の見合いだったのになぜ急にこんなことになったんだ?」
「あなたのご両親が『うちの息子の花嫁大募集☆』って大々的に宣伝しながら各国を練り歩くからこうなったんですよ。それよりなんですかあの暴挙は! 女性の前で壁を蹴るなんて、こいつはとんでもない暴力男だと思われても仕方ないですよ!?」
九天に叱りつけられ、ダリウスはハッと真顔に戻った。
「違う、Gだ。ゴキブリだ。久しぶりにあいつが出た。蹴り潰したら花瓶の後ろに落ちたから後で片づけておけ」
例の害虫が登場したときの女たちの狂乱ぶりは体験済みだ。
事件を未然に防いだと達成感を覚えたのに、鬼のような形相の九天は丸めた名簿でバシバシと執務机を叩く。
「Gの方がマシです! 蹴り潰すなんてドン引きだ、放っときゃいいんですよ!」
「何を言う。あのままGが女達の方へ行ってみろ、とんでもない騒ぎになるぞ? 母上がGを嫌うあまり家出したのは記憶に新しいだろう」
「太后様が家出なさったのは、陛下がG対策にアシダカグモを導入なさったからです!」
Gを捕食してくれる益虫だが、辞典などに「姿が不快なので一般に嫌われる」などと記載される不幸な虫だ。
でもGの減少と共にアシダカグモも移動してしまったので、結果的には大成功だとダリウスは今でも思っている。
「そんなことよりあの選考基準はなんだ? 集まった姫君に掃除などさせてどうする」
緊張のあまり口を挟むことができなかったダリウスに対し、九天はふんぞり返って腕を組む。
「花嫁を選ぶにはお誂え向きの課題でしょう? 自分の暮らす場所くらい自分で掃除すればいい」
「お前は本当にさっきからそればっかりだな。母上に『私が帰るまでにキレイにしといてね~、ヨロシク!』と言われたのがよほど重荷なのか?」
「あなたが後宮の整備に人員を使わないからこうさせて頂きました。花嫁候補の皆様が掃除が嫌だと言うならどうぞお国へ帰ればいい」
「お前は私に結婚してもらいたいのか、他国と問題を起こしたいのかどっちだ?」
「あなた選考内容は僕に任せるって言ったじゃないですか。大丈夫ですよ、他国に文句言われたらうちの伝統だって答えといてください」
「………………」
そんな伝統はラージャム国民でも知らない、と思ったが文句を言うのはあきらめた。
九天に発言撤回の意思がないなら何を言っても無駄だ。口の回る相手と討論しても負けることは目に見えている。
(……まあいいか)
もともと母である太后に言われて無理やり開いた花嫁選考会だ。
太后の発案に乗った臣下達から必ず一人は側室を選ぶよう言われているが、掃除というものは人となりを見るのにちょうどいいかもしれない。
そう思って自分を納得させたが、九天はまだイライラが治まらないのか貧乏ゆすりのようにぱたぱたと靴を鳴らす。
「もう、陛下のせいで第一印象が最悪ですよ。僕の一押し、ニーナ様がいなかったからよかったようなものの! なんで一日ぐらい待ってくれなかったんですか?」
「だから最初から言っているだろう。十五歳など論外だ。その少女が挨拶に参加しようがしまいが結果は変わらん」
「世界最高の美少女ですよ? 見たくないんですか!?」
あまりにも大げさに言われ、ダリウスは呆れ返ってげんなりした。
「世界最高などお前が決めることではないだろう。人の好みは十人十色だぞ?」
「だーかーらー! そんなもの吹っ飛ばすほど綺麗なんですってば! あの美しさは世界を滅ぼせますよ! 神の領域です!」
「何を言ってるんだ、そんな人間が存在するわけない。美しさで世界が滅びるってどんなのだ」
「だからそれがニーナ様なんです! 一回見てもらえれば分かりますから!」
「ああもう分かった分かった、機会があれば会うから」
「機会があったらじゃ困ります。今夜ニーナ様のお部屋に行ってください!」
「…………いや、選考日は明日からの三日間だろう。今日会いに行くのはフライング」
「ゲットですよ!」
「こら、世に浸透してる言葉は使うな!」
「ゲットだぜ! の方がよかったですか?」
「どっちもダメだっ!」
「よーしっニーナ、君に決めたぁ! ってやればいい」
「やめろおおおおおお────────っっ!」
ネタの波状攻撃を繰り出す九天を止めつつ、ダリウスは頭を抱え執務机に突っ伏した。




