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風は、強くない。
視界は良好で目測を過たず射られる好条件にありながら、牡丹の宮の瓦屋根に膝をつく射手は滴り落ちる冷や汗を拭った。
手がわななき、落ち着かせるために一度弓を下ろす。
「信じられん……! あの娘、身動き一つせんとは……!」
右耳の横、頭上、左肩と三本打って、そのどれもがニーナの身体ギリギリを通り椅子の背に刺さっている。おそらく指一本ほどの差しかない。
それなのに椅子に腰かけるニーナはぴくりとも動かないのだ。
本物の人形を見ているのではないかと身震いするほどの静止状態だった。
「気味が悪い……! 本当に生きているのか?」
鼓動が乱れ、汗が目に入り、このまま打てば目測を誤りあの人形を打ち抜いてしまいそうで大きく息を吐いたとき。
「ッ!!」
首筋に鈍い衝撃が走り、声を上げることもできず射手は瓦の上に音を立てて倒れ伏した。
そのまま転がり落ちそうになった男を足で踏んづけて止め、背後から襲いかかった蛍は口の端を吊り上げ笑う。
「おっと、まだ死ぬなよ。お前は証人として生かしとかないと駄目だからな」
大事な大事な生き証人だ。
ニーナを狙ったのは瑞国の者であり、ラージャムはこの件に全く関与していないという証拠。
全ては瑞国人の揉め事によって起こったことという証拠だ。
「それだけ守りゃあ、あの女殺してもいいっつーんだから安いもんだぜ」
ラージャム王国や自分を受け入れてくれたダリウスに迷惑をかける気はない。
全ては薫子が葵に嫉妬してその髪を切り、激怒した自分が薫子を殺しただけ。
そう、瑞の王に説明して自分が処刑されれば全てが終わる。
射手から奪い取った矢をつがえ、蛍は牡丹の宮の屋根から舞台を見下ろした。
千人を超える群衆はもはや薫子など見ていない。矢に囲まれたニーナを見るばかりだ。
引き絞った的の中心に薫子の頭蓋を置き、蛍は静かに呼吸を整え集中する。
弓の腕前は残念なことに超一流だ。的を外すことなど万が一にもありえない。
葵のことは信頼できるダリウスに託し、後顧の憂いもない。
葵のために自分ができることは全てやり、残すは薫子を殺すことだけ。
無残に髪を切られた葵を想い、憎悪を込めて薫子に向けてゆっくりと弓を引き絞り──────。
「死んで詫びろや──────────!」
吐き捨てた瞬間、甲高い声が蛍の鼓膜を打った。
「兄様ッ!」
鋭いその声と同時、震えた蛍の手から矢が放たれる。
蛍の手を離れた矢は勢いよく空を切って進み、凄まじい音を立てて突き刺さった。
中庭から狂気のような悲鳴が轟き、それらが消えぬ間に薫子が黄金の椅子から転がり落ちる。
その姿を最後まで見届け、蛍は胸がすくような心地で静かに弓を下ろした。
中庭では千人の人々が恐れ戦き叫んでおり、眼下の混乱を見下ろした蛍は大きく息をついて振り返る。
「──ったく」
こんな高い場所まで梯子を上り、不安定な瓦の上に立つのは青いアンタリを腰に巻いた美しい少女だ。
短い黒髪をなびかせ、青ざめたままの少女に向けて蛍は苦笑した。
「手元が狂うだろ。いきなりお前みたいな大陸一可愛い女に呼ばれたら」
「兄様……!」
先ほどまで薫子が座っていた場所。
その背後の白い書き割りには、右側に大きく外れた矢が一本突き刺さって振動している。
「兄様! 兄様、兄様……!」
薫子が生きていると分かった瞬間、瓦の上をよろめき駆け寄った葵をなんなく抱き止め、蛍は晴れやかに笑った。
「その呼び方は好きじゃないって言ってるだろ? 俺はお前を愛してるんだぞ」
「蛍……!」
悲しみではなく安堵で泣きだした葵の涙を拭ってやり、蛍は切り落とされたその髪をそっと撫でた。
「似合ってるよ。短い髪もラージャムの服も。お前は本当に最高の女だ!」




