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それはただのダリウスの優しさだった。
葵が蛍を嫌っているのではなく、心配しているだけだと知ったダリウスは、ニーナや葵以外の花嫁候補と会うときすでに蛍を伴ってきていたのだ。
二人きりはよくないので女官を同席させるが、少し葵と話をしてこい。
そう言って蛍を葵の部屋へ送り出していた。
「蛍ッ!」
「葵ちゃん!」
ダリウスに続き飛び込んだ葵の部屋は、先ほどと寸分違わず無残に切られた黒髪が散らばっている。
その奥に立つ抜身の剣を手にした巨漢と、装束の袖で顔を隠す少女の姿に誰もが身を竦ませた。
剣は兵士から奪ったのだろう。床には白目を剥いた兵士が二人、どちらも泡を吹いてぐったりと倒れ伏している。
短くなった髪の葵を瞬きもせず見下ろし、蛍は聞き取れないほど低い声で詰問した。
「誰に切られた?」
蛍の手の中にある剣がかすかな音を立て、ニーナは慄きながら息を詰める。
一歩でも動けば最後、蛍が標的を変えてこちらに襲いかかってくるような気がして身動きが取れない。
張りつめた緊張感の中で、葵は震えながらも頑なに訴える。
「……わたくし自身、ですわ……!」
「葵ちゃん!」
恐怖も忘れ駆け寄ろうとしたニーナだが、一歩部屋に入ったとたん足を止めざるを得なくなってしまった。
ゆらりと蛍の首が動き、視線でニーナを突き刺したからだ。
「なあ、ニーナ。お前は知ってんのか? 葵は誰かに髪を切られたんだよな? それ以外に考えられねぇ切られ方だ。なあそうだよな、ニーナ?」
「──!」
足が、動かない。
葵のためには「葵ちゃんが自分で切ったんだよ」と証言するべきなのに、口が全く動いてくれない。
蛍がニーナに向けて一歩を踏み出す。
「教えてくれよ、ニーナ。俺の葵を傷つけたのはどこのどいつだ?」
「ひッ!」
蛍の圧力に耐え切れず悲鳴を上げかけたとき、ニーナを庇うように前へ出る大きな影があった。
「私だ」
「陛下!」
九天の悲鳴のような声が響いたが、ダリウスは臆することなく進み出て、数歩を置いて蛍と対峙する。
だらりと剣を提げた蛍を油断なく見据え、はっきりと言葉にした。
「私が、葵の髪を切った」
え、と思う間もなくニーナの耳から音が消えた。
九天の声にならない叫び、葵の「逃げて!」という悲鳴。
全てを聞き終る前にダリウスと蛍の両者が動いたからだ。
「だったら死んで詫びろやああああああああ──────────ッッ!!」
獣のような咆哮で壁が振動し、気づいたときには素手のダリウスと剣を持って突進する蛍がぶつかり合っていた。
ニーナは危険を察した九天によって壁際に突き飛ばされ、床を転がりながら必死に身を起こす。
「王様ッ!」
悲鳴を上げることしかできない。
床に伏せたまま顔を上げたニーナの前で、ダリウスが蛍の手をめがけ蹴りを放つ。
折る勢いで蹴ったせいか蛍の手から剣が吹っ飛び、だがそれでも蛍は勢いを止めずダリウスに殴りかかってきた。
狂気のような怒りで迫る蛍は完全に冷静さを失くしており、それゆえに本物の獣のように俊敏で命懸けだ。
重い拳や蹴りを身体中に浴び、ダリウスはそれでも言葉で蛍を説得しようとはしなかった。
蛍の動きは人とは思えない。どうしようもなく全身が震え、ニーナは呼吸すら忘れダリウスを見つめる。
葵から「蛍は薫子を殺す」と聞いてもどこか他人事だった。
怒りに駆られて殺すのだろうと漠然と思っていても、こんな獰猛な野生の獣に八つ裂きにされるとは想像もしていなかったのだ。
おそらくダリウスも人を相手にしているとは思っていない。
最初から持てる力の全てを出して戦っていたであろうダリウスは、蛍の腹を貫く勢いで鳩尾に肘を突きいれた。
蛍の口から低い呻きが漏れ、目玉がぐるりと回る。
白目を剥いたまま動きが止まり、ドウッ、と大型の獣が倒れるような音がして蛍が床に倒れ伏した。
それでもまだ意識を保とうと必死に目蓋を震わせる蛍を見下ろし、ダリウスは息を荒らげながらささやく。
「──葵の気持ちを考えろ」
言葉が届いたかどうかは分からない。
完全に動かなくなった蛍の姿を見届けてから全身の力を抜き、ダリウスはいつの間にか集まっていた自身の兵達を振り返った。
「大事ない。いいか、ただの気晴らしの喧嘩だ。私が勝ったからにはこれ以上の詮索は許さん」
毅然とした声だったが、その額には汗が浮かび呼吸は乱れている。
拳を受けたときに胸骨を痛めたのかもしれない。飛びつくわけにもいかず、だがじっとしていることもできずニーナは震えながらダリウスに駆け寄った。
「王様! 王様、怪我は……!」
痛むのではないかと思うと身体に触れることができない。
もどかしく腕を伸ばせば、ダリウスは安心させるように微笑んでくれた。
「心配するな、私は大丈夫だ。ニーナは葵についていてやってくれ」
そう言われても、動揺しすぎてダリウスを見ればいいのか葵を見ればいいのかさえも分からない。
おろおろするニーナと同じく青ざめていた九天がやっと我に返り、ダリウスに駆け寄った。
「陛下、早く手当を……!」
「たいしたことはない。それより蛍を運んでくれ」
「は、はい!」
命じられ、九天が兵士達と共に蛍を縛り上げ運び出していく。
「王様……!」
言葉が出てこず、呼び止めるしかできないニーナに去ろうとしていたダリウスは足を止めた。
少し驚いたようにニーナを見下ろし、落ち着いた所作で髪を撫でてくれる。
「そんなに泣かなくてもいい。私は大丈夫だし、蛍についても悪いようにはしないから。葵を励ましてやってくれ」
涙が出ていたのだろうか。
優しく指で目許や頬を拭われ、ニーナは驚きのあまり恐怖も不安も忘れてしまった。
びっくり顔で涙を引っ込めたニーナに安堵し、ダリウスは倒れた蛍や九天を伴って部屋を去って行く。
呆然とそれらを見送り、頬に触れてみると確かに濡れていた。
(ほんとだ、泣いてる……)
いつぶりだろう。最後に泣いた日の記憶がない。
だがそんな記憶よりもするべきことがあり、困惑を振り払ったニーナは部屋の奥で放心している葵に駆け寄った。
「葵ちゃん、大丈夫?」
娼館では喧嘩などよくあることだったが、これは単なる酔っぱらいの喧嘩ではない。
完全に、命を懸けた決闘だった。
傍らに膝をつき、ニーナは葵の細い身体を抱きしめる。
「葵ちゃん、大丈夫。もう大丈夫だよ。蛍さんは王様が止めてくれたから」
葵が怖れていた、薫子が殺されるようなことは起こらない。
ダリウスは必ず手元で蛍を見張ってくれるはずだ。
血の気の引いた冷たい身体を一生懸命抱きしめれば、葵は声を震わせニーナの肩に涙をこぼした。
「わたくし、もう兄様に人を傷つけさせたくないの……!」
「うん」
「自分で切ったのって、笑おうと思ったのに笑えなくて……!」
「いいの。そんなことしなくていい。葵ちゃんはなんにも悪くないから」
葵は絶対に悪くない。蛍だって悪くない。
「大丈夫だよ。葵ちゃんは何も心配しないで」
もう悲しむ必要などないのだ。
頬を濡らす涙を何度もぬぐってやり、葵の短くなった黒髪に頬を寄せたニーナは決意を込めてささやいた。
「原因は、私が明日消し去ってあげる──────!」




