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また失敗してしまった。
後宮の廊下を早足で進みながら、ニーナは深く反省する。
他人の心情を慮らず、無神経な言動をしてしまうのは自分の悪いところだ。
葵の神経を逆撫でして傷つけ、さらには彼女に謝らせてしまうなど最低にもほどがある。
(葵ちゃんは悪くない)
葵が謝る必要など一切ないのだ。
牡丹の宮から本宮に続く回廊。そのすぐ側にあるこの宮最大の広間までたどり着き、ニーナは大きな扉を押し開いた。
いくつもの天窓が設けられた明るい広間は、木造建築の繚乱後宮の中でもラージャム風に造られた白大理石の部屋だ。
ダリウスが昼に訪れると聞いていたがまだのようで、中は色とりどりの絨毯が敷かれ昼食の準備が整えられていた。
ニーナと葵以外の花嫁候補全員がそろっているらしく、好き好きにお喋りをしていた女性達が驚いたようにニーナに視線を向ける。
その女達の群れの中央。
「あら、ニーナさん。ごきげんよう」
瑞の侍女に取り巻かれた薫子を見つけ、ニーナは大股で広間を進んだ。
肌や髪の色が違う各国の花嫁候補達が不安そうに見つめる中、ニーナはのんきに笑みを浮かべる薫子を見下ろし口を開いた。
「薫子さん。ここから出ていって」
単刀直入すぎて何を言われたのか分からなかったらしい。
薫子はしばらくぽかんとしていたが、やがて華麗な扇で口許を覆って笑い出した。
「馬鹿な娘ね。なぜこの私がお前に命令されないといけないの? 身分というものをわきまえなさい」
「身分は王様の花嫁候補でしょう? 私も薫子さんも同じだ」
繚乱後宮において元の身分など何も関係がない。
幾重にも重ねた臙脂の瑞の装束をまとい、ラージャムの色鮮やかな絨毯に座るアンバランスな女を見下ろし、ニーナは怒りを押し殺した声で言い放った。
「私、人のことを簡単に嫌っちゃいけないって思ってるけどあなただけは本当に嫌いだ。あなたにここから出て行ってもらうため、何をどうすればいいのか今一生懸命考えてる」
葵の部屋を出た瞬間から、こうしてこの場に立っている間もずっと考えている。
何をすれば薫子は花嫁に選ばれず去ってくれるのだろう。
葵が薫子に髪を切られたことを黙ったまま、どうやってダリウスや薫子を推す臣下達を動かせばいいのだろうか。
険しい目で見つめるニーナを真っ向からにらみ返し、薫子は眉を上げた。
「見世物小屋育ち、娼館上がりの汚らわしい娘が何を言う。お前こそ早く出ておいき。後宮はお前のような子供の来るところではなくてよ」
「私は子供かもしれないけどあなたは人でなしだ。隠れてこそこそ他人の足を引っ張って誰かを泣かせて。あなたみたいな最低な人は初めて見」
「無礼者ッ!」
投げつけられた扇が目許をかすめ、ニーナはとっさに払いのける。
幸いにも扇がニーナの肌を傷つけることはなかったが、確実に顔を狙ったものだ。
にらみ合う薫子とニーナの間に言いようのない緊張感が走ったとき、低い男の声が響いた。
「何をしている」
広場にいた誰もがその声に振り返り、一斉に衣擦れの音を立てて平伏する。
現れたのは執務室で寛ぐときとは違い、帝王紫のアンタリを纏い宝飾品で身を飾った国王ダリウスだ。
ニーナの表情を見てただ事ではないと察したのか、背後に控えていた九天が二人の女の間に進み出た。
「喧嘩ですか? 仲睦まじくしろとは申しませんが、陛下の御前で醜くいがみ合われても困りますね。せめて見ていないところで片を付けてください」
「九天」
微妙に論点がずれた九天をダリウスが軽く諌めるが、白髪と金紅眼の王の前に女達は一人たりとも顔を上げようとしない。
異形のダリウスに恐れをなしたのか言葉も発さず、一瞬にして静まった広間で九天は足元に落ちた扇を拾い上げた。
「何をなさっていたのですか? お二人とも」
やや厳しい声で詰問され、平伏したまま事情を説明したのは薫子だ。
「見てのとおり、私がこの娘に一方的に罵られていたのですわ。いきなり後宮から出ていけと怒鳴られ」
「──ほう。薫子様の言うことで合っていますか、ニーナ様?」
九天の声にはかすかな驚きが含まれている。
違う、と答えたかったが怒りのあまり声が詰まった。
この場で葵の髪のことをぶちまけたくなり、ニーナは固く拳を握りしめたまま唇を噛む。
突っ立ったまま動かず、声も発しないニーナを無視して、異形への怖れを抑え込んだ薫子は楚々とダリウスを上座へと案内した。
「さあ、陛下。まずはこちらへお座りくださいませ。嬉しゅうございますわ、このような機会を設けて頂いて」
「……ああ。あなたには会っておくべきだと思ったのでな」
薫子を無視せず言葉を返したダリウスの姿に、ニーナの中で何かがカッと火を噴いた。
ダリウスは事情を知らないのだから薫子と会話をするのは当然だ。
だが分かっていても言いようのない怒りにかられ、「その人は葵ちゃんの髪を切ったんです!」とわめいてしまいそうだった。
言いたい。全てぶちまけ、その人を追い出してくださいと叫んでしまいたい。
全てを堪えていると涙まで滲んできて、さすがに気になったのかダリウスがうつむくニーナに手を差し伸べた。
「ニーナ、君もよければ隣に……」
「陛下! あなた様に初めてお会いした日はご挨拶もできず、本当に申し訳ありませんでした。私、なんの用意もなくこちらへ来てしまい後悔しておりますわ」
大仰に薫子が歎息し、胡坐をかいて座ったダリウスに向け心を痛めたように綺麗な眉を寄せる。
「事前に陛下のおいたわしい目や髪のことを存じ上げていましたら、瑞から種々の薬や染粉をお持ちいたしましたのに……。己の至らなさに恥じ入るばかりですし、今からでも陛下のお役に立ちたい思いでいっぱいですわ」
(──!?)
とっさに怒りが吹き飛び、ニーナは驚愕して薫子を見下ろした。
驚いたのはニーナだけではない。周りを取り囲む女達が大きく息を呑み、中には怯えたように後ずさる者もいる。
だが薫子は自信に満ちた様子で面を上げ、悲しそうに瞳を潤ませた。
「陛下のお顔を拝するにつれ、本当にお可哀想で、哀れで涙が出ます……。陛下、瑞国には古くから希少な薬草が伝わり、薬に詳しい学者もたくさんおります。私はどうにかしてその奇怪な目や髪、肌を人並みに戻してさしあげたい。そのように恐ろしい赤目ではさぞお困りでしょうし、何よりお気の毒で見ていられませんわ。瑞には髪を黒くする染粉もございますし、ぜひ私からこれらを献上させて頂き──」
「薫子さ──ッ」
ニーナが薫子を止めるより速く。
「黙れ」
地を這うような低い声が大広間に響き、ダリウスの背後に控えていた九天が凄まじい目で薫子を見下ろした。
激怒と憎悪。
その二つで薫子の心臓を突き刺すかの如く睨め付け、憤怒に震える薄い唇が静かに開く。
「──殺すぞ」
「九天ッ!」
焦ったようにダリウスが九天を止めたが、ニーナは九天が間違っているとは思えない。
ニーナも九天と全く同じ言葉を薫子に投げそうになったからだ。
燃え上がるような強い怒りが身体中を駆け巡り、ニーナはその勢いに押されるようにどかっとダリウスの膝の上に腰を下ろした。
「ニーナ!?」
まさかこんな場面で膝に乗られると思わなかったらしく、ダリウスがぎょっと声を上げる。
かなり予想外だったらしく怒りに包まれていた九天からも殺気が消え、怯んでいた薫子もあんぐりと口を開けた。
緊張に凍りついていた広間もざわめきだし、侍女に声をかけられ我に返った薫子がすかさずニーナに指を突きつける。
「お、おどきなさい、無礼者が!」
「どうしてですか? 今は花嫁候補が王様とお話しする時間でしょ? 私がいても問題ないと思います」
何も無礼なことはない。
騒ぐ薫子に目を眇め、ニーナは傲然と顎を上げた。
「私、王様の膝に座ってもいいって言われてます。だから座っただけですけど?」
周囲に動揺が走り、ダリウスが困ったようにニーナの腰に手を添える。
「ニーナ」
膝から降ろされそうになるのを制し、ニーナは渾身の目力で薫子をにらみつけた。
「薫子さん、私あなたのことがすごく嫌いです。あなたも私のことが嫌いですか?」
率直で直球すぎる言葉に、ダリウスを含めた全員が目を見開く。
だが薫子はニーナを視線を真っ向から受け止め、鼻で笑った。
「ええ、嫌いだわ。礼儀も作法もわきまえない、生まれ育ちも卑しい娼館上がりの小娘が後宮に来るなど言語道断。視界に入るのも汚らわしい」
「わあ、気が合いますね。私も薫子さんのこと生まれの良さに見合わない下劣さを兼ね備えた、無神経で冷酷な人でなしだと思ってます」
「なんですって!? この無礼者!」
「無礼ですか? えーい、じゃあ薫子さんも私に〝無礼者!〟です」
にっこりと最高の笑顔で指を突きつけ返せば、美貌に圧倒されたように薫子どころか周囲の者までたじろぐ。
「ぶ、無礼なのはお前だけよ! ここから出ておいき!」
「いいですよ」
え!? と九天が身を乗り出し、ダリウスの身体がぴくりと震えた。
皆が見つめる中で、ニーナはダリウスの膝に乗ったまま堂々と言い放った。
「薫子さんと私で勝負しましょう。お互いにお互いが目障りなら、勝った方が残って負けた方が出ていく。それでいいんじゃないでしょうか」
結果発表を待たずに出ていくのだから、当然ダリウスの花嫁となる資格は失われる。
薫子は側室に内定しており、こんな勝負に乗るのは馬鹿馬鹿しいことだ。大人しく待っていれば、味方してくれるラージャムの臣下や故国の瑞が妃に担ぎ上げてくれるだろう。
────だが、ダリウスへの侮辱に対する九天の怒りを見たニーナには確信があった。
最終的に花嫁を選ぶ権利を持つのは国王ダリウス唯一人。
薫子は先ほどの発言がなぜ九天の怒りを買ったか分からずとも、九天とダリウスの心証を害したことぐらいは分かったに違いない。
臣下の推薦に胡坐をかいていてはニーナに足元を掬われる────。
九天の怒りによってそう感じてくれればいいと願ったニーナの前で、膝立ちになっていた薫子がしばし黙考した。
真意を測るようにニーナをねめつけるが、ニーナはこれ見よがしにダリウスの胸に頬を寄せて流し目を返す。
(来い──!)
薫子が選ばれる可能性を一縷たりとも残してはいけない。完膚なきまでに叩き潰すのだ。
しばらく黙っていた薫子は侍女達とかすかに目配せを交わし、心を決めたのか腰を下ろす。
「いいわ、お前の勝負に乗りましょう。何をする気なの?」
(……! 乗ってきた!)
ほっとした表情を出さないよう、ニーナはひょうひょうと答えた。
「うーん。後宮だし、普通に美人コンテストでいいと思いますよ。後宮内でやると組織票入りそうだし、九ちゃん適当に外部から人集めといて~」
「かしこまりました。ではニーナ様と薫子様でどちらが美しいかを競うということで……」
「ちょッ、ちょちょちょっとお待ちなさい!! 待ちなさい! それは駄目よッ!」
動揺のあまり腰を浮かせた薫子に、ニーナは可愛らしく小首を傾げる。
「どうしてですか? 私は全然困らないですよ?」
「薫子様、ご安心を。あなたはとってもお美しいですから」
「いいえ駄目! 駄目よ!!」
先ほどの殺気はどこへ隠したのか、にこやかな九天におだてられても薫子は焦りを隠せない。
「ひ、一口に美人といってもラージャムと瑞では価値観が違いすぎるわ! 美は大陸共通ではないのよ!?」
「うーん。じゃあ九ちゃん、ラージャムの都にいる瑞出身者集められる? 私は観客全員瑞国人でもいいよ」
「了解しました。では招集をかけますのでコンテスト開催は明日で」
「今日がよかったけど仕方ないね。じゃあ薫子さん、勝負は明日で」
「待てええええええええええええええええええッッ!!」
あまりのことにのけ反って絶叫した薫子を執り成すように、展開に呑まれていたダリウスが慌てて間に入る。
「ニーナ、九天、ちょっと落ち着け。薫子姫の言い分ももっともだろう。もう少し彼女にも勝ち目のある勝負を、──あっ!!」
「わあ、王様は薫子さんの敗北前提なんですね。嬉しいです!」
「もお~、なんですか陛下。こんなところでさっきの仕返しですか~? まったく根に持つ人なんですから」
「ち、違う違う違う! 違うんだ、ちょっと話を聞いてくれ!」
「ハイハイ聞きますよ。違う言い方ができるんならどうぞ」
ニヤニヤした九天に促されたが、ダリウスは冷や汗をかきながら目を泳がせた。
「そ、その、だな。えーと、そうだ、二人は何か特技などはないのか?」
「逃げましたね!」
美人コンテストではすでに勝負がついている、を言い直せず回避したダリウスだが、助け船とばかりに薫子が食いつく。
「私は琴と琵琶を得意としておりますわ。その勝負でしたら喜んで」
「楽器か……。初心者ではこれも差がつきすぎる勝負だな」
これでは美人コンテストと変わらない。ダリウスと九天の視線を受けて、楽器など触れたこともないニーナはしゅんと肩を落とす。
「どっちもやったことないです。私は綺麗すぎるから何もさせてもらえなかったし」
「いちいち腹の立つ娘ね!」
薫子の文句は無視し、ニーナはダリウスの胸の中で顔を上げた。
「できるとすれば人形のふりぐらいです」
「……人形、……?」
何を言われたのか分からなかったらしい。
薫子どころかダリウスや九天にもぽかんとされ、ニーナは皆に聞こえるように説明した。
「人間が、人形のふりをするんです。椅子でも床でもいいから、一つのポーズをとったまま身動きしない。何があってもじっとしておくだけです」
「そんなこと?」
薫子はあ然とし、次いで扇で顔を隠しながら爆笑した。
「おかしなこと! じっとしているだけで勝敗が決まるなんて!」
「はい。じっとしていれば人形か人間か見ている人には分かります。そんなに時間はかからないと思います」
「あらあらまあまあ!」
笑い出した薫子の隣で、ダリウスもふーむと考え込む。
「……たしかに、それならできない人間はいないな」
「いいんじゃないですか? 美しさではなくあくまで人形らしさで競うということで」
少々引っ掛かりを覚える言い方に薫子はムッと笑いをやめたが、とくに反論することなくニーナに向けて顎を上げた。
「その勝負でよろしくてよ。あなたがそうすると言うなら、私は何があってもじっとしておきますわ」
「ありがとう。私にはそれしかできないから」
「でも、その人形のふりはあなたの得意分野なのでしょう? 私は初めてなのだし不利ではなくて?」
いくら誰にでもできることとはいえ、慣れていなければ難しい。
薫子の指摘ももっともで、ニーナはすぐさま答えた。
「じゃあ私に触れない限りは何してもいいです。周りで音を立てて注意を引いても脅かしても、変な顔して笑わせても」
人形のふりで一番大切なのは集中力だ。
ぼんやり座るだけとは全く違う。何をされても動じない絶対の自信がニーナにはある。
「……そうね、私には妨害なしならいい条件だわ。それでよくてよ」
勝負内容がスムーズに決まり、ニーナは安堵して九天を見上げた。
「九ちゃん、人を集めて。勝敗は観客のみんなに決めてもらう。ちゃんとどっちの味方でもない人に見てもらって、お互いにズルはなしだ」
「もちろんです。では、負けた方が選考結果を待たず繚乱後宮を出ていくという勝負でよろしいですか?」
九天の声にうなずき、満足そうな薫子は声高に笑った。
「ええ、かまいませんわ。私が勝った暁にはラージャムの王妃の座を約束して頂きたいぐらいよ」
「かまいませんよ。ただし妃ではなく側室ですが」
「九天!」
ダリウスは鋭い声で制したが、九天は軽く肩をすくめる。
「いいじゃないですか。もともと臣下一同は薫子様を側室に推薦しています。必ず一人選ばないといけないなら薫子様でよろしいのでは?」
「まあまあまあ! 嬉しゅうございますわ、九天様!」
すかさず話に乗ったのは薫子だ。
負けじとニーナはダリウスの腕の中から身を乗り出す。
「それでいいよ。私は負けるつもりはないから」
「ニーナ!」
ダリウスの焦った声が頭上で響いたが、ニーナが人形役で誰かに負けるなどありえない。
そんなことは天地がひっくり返ってもあるはずがなく、薫子が勝った際の条件などどうでもいいことだった。
だが黙っていないのは誰であろう、妃を娶る側のダリウスである。
ニーナを膝から降ろし、これまで見せたことのない険しい表情で三人を見据えたのだ。
「三人とも少し頭を冷やせ。勝負をするのは自由だが、私が誰を選ぶかは──」
「陛下ッ! ダリウス陛下、大変でございます!」
突然慌ただしい足音が響き、開いたままの扉から一人の女官が駆けこんでくる。
皆が注目する中走り寄った女官は青ざめ、息を切らせながらダリウスの御前に膝をついた。
「陛下、蛍様が……!」




