5
ダリウスは日々執務室にこもり、めったに移動しないらしい。
食事も執務室で取るし、誰かが訪ねてきたら会うのもそこ。今は花嫁選考会が行われているので後宮に足を運ぶが、これまでは隣の寝室に行く以外執務室から出ることはなかったという。
けっきょく午後の草刈りに薫子は現れなかった。
あれだけ平等にしろと叫んでいたので期待したのだが、不平等のままでよかったらしい。
いつものように作業を終え、葵と一緒に夕食を取った後、ニーナはダリウスに会うため本宮へと向かった。
白い回廊を進み、執務室前に立つ兵士に挨拶して中へと入る。
「こんばんはー」
夜も遅いというのに、ダリウスは明かりをいくつも灯し書類に目を落としていた。
ニーナの声に兵士や文官、小姓達が笑顔で挨拶を返してくれ、大きな執務机の奥でダリウスが微笑みをくれる。
「ニーナ」
「王様! お話があってきました!」
「そうか。九天、ニーナに椅子を……」
「ニーナ様、この部屋の椅子は陛下の膝の上となっております。ご遠慮なくどうぞ」
「え、そうなの?」
「九天!?」
ダリウスにはぎょっと叫ばれたが、誰かの膝の上などニーナは慣れっこだ。
「じゃあ失礼します」
なんの躊躇もなく、ダリウスの膝にひょいと腰を下ろした。
「────!! ──!? ……っっ!」
横抱きの形でしっくりくる場所を見つけ、尻を落ち着けたニーナだが、ダリウスは声も出せず身振りで必死に何かを訴えている。
「重いですか?」
「お、おおっ重いわけがない! いや、そうではなくてニーナ! 重いとかいう以前に女性が簡単に男の膝に乗るというは……!」
「ダメなんですか? 私、昔は人形役をしていたのでいろんな人の膝に乗りました。おばあちゃんとか子供とか、私が乗ったら折れそうな人の膝にも乗りましたよ。ひやひやしました~」
役柄のせいで軽いと誤解されがちだが、ニーナは木でできているわけでも綿が詰められているわけでもない。人並みに体重というものがあるのだ。
全く動じない、本物の椅子のように安定したダリウスの膝が嬉しくなり、ニーナは満面の笑みで顔を上げた。
「やっぱり自分より小さかったり細い人には気を使いますよね。その点で王様は絶対安全! すっごく安心できます!」
「え!? あ、ううっ、うっ……!」
「ほらほら陛下、膝抱っこごときでごちゃごちゃ言うなんて男らしくないですよ。僕達はいったん下がらせて頂きますので、あとはお二人でごゆっくり~」
「こら待てっ、九天!」
ニーナが膝にいるせいで立ち上がれなかったらしい。「陛下がんばって!」「いっぱいお話してください!」と口々に言う側近達を引き止めることができず、部屋はあっという間に二人きりになってしまった。
扉に向けて腕を伸ばしたまま狼狽するダリウスだったが、ニーナにとっては人がいようがいまいが関係ない。さっそく本題を切り出す。
「それでですね、王様。今日は王様にお願いがあって」
「普通か! こんな状況でも普通に話せばいいんだな!?」
「え、普通じゃダメなんですか? あっ、じゃあすっごく楽しい感じで話します!? これなら私いくらでもできるしおもしろいかも万歳やったああああああぁ──────っ!!」
「……すまん、普通にしゃべろう」
「ええ~、残念」
ちょっとおもしろそうだったのに。
だがダリウスも緊張が解けたらしく、身体から強張りが消えたので良しとしよう。
「それでですね、王様。葵ちゃんが昨日のことを謝りたいそうなので、明日ここに連れてきてもいいですか?」
話のまともさに安心したのか、ダリウスはほっとした様子で優しくニーナを止めた。
「いや、その必要はない。君や葵以外の花嫁候補と会うため、明日の昼に後宮を訪れる予定だ」
「そうなんですか? じゃあそのときに葵ちゃんも」
「──いや。一緒に会うのは避けた方がいいだろう。葵に聞きたいこともあるし、彼女達とは別々に時間を設けよう」
ダリウスがそう言うのならそうした方がいい。
特に理由は聞かず、ニーナも同意した。
「分かりました。じゃあ王様、そのときに蛍さんも後宮に連れてきてもらえませんか?」
「蛍も? そのことを聞きたかったのだが、葵と蛍を同席させて大丈夫なのか?」
ダリウスも葵と蛍の関係を誤解しているらしく、ニーナは自信を持って答えた。
「大丈夫です。葵ちゃんは蛍さんのことを嫌ってるんじゃなくて、心配してるだけなんです」
孤独な葵を蛍が支えてきたこと。蛍が葵を愛するあまり危険なことをし、葵はそれが許せないだけだと話せばダリウスも納得したように肩の力を抜く。
「そうか。葵本人がそう言うならこちらとしても断る理由はない。蛍には九天から話を伝えておこう」
「わーい! ありがとうございます、王様!」
滞りなく任務を完了し、喜びのままに万歳をすればくすっと笑われてしまった。
「君は本当に無邪気だな」
目尻にくしゃっとしわが寄って、とても楽しそうで優しそうな笑顔に見惚れてしまう。
真面目な顔のときはとても大人でキリッとしていて格好いいが、笑った途端びっくりするほど優しくなる。今も絶世の美少女であるニーナを膝に置きながら、不埒な行為は一切しない。完璧な紳士だ。
(王様、本当に大人だぁ……)
こういう男性に出会ったのは初めてかもしれない。
年齢だけなら出会うのはたいてい大人だったが、ここまでニーナと接近して行動も大人な男はほぼ皆無だった。
九天は不快なことをしたりしないが、尊敬できる大人の男かと言われると少し違う。宦官であるせいか性差を感じさせず、少年のような容姿も相まって友達感覚だ。
だが、ダリウスは友達ではない。
じっと見つめれば、白目を覆い尽くす赤と太陽のような黄金の虹彩がニーナを見下ろす。
ふいに、今朝下働きの皆から聞いた昔の話を思い出した。
悪魔の子、と女官達から怯えられた赤子。「殺した方がいい」と進言された子。
(────王様が、生きててよかった)
女官達の妄言を退けたダリウスの両親に感謝したい。
その女官達に見せてやりたいぐらいだ。大人になったダリウスはこんなにも素敵で立派な男性に成長したぞと。
しばらく見つめ合っていると、突然ダリウスが申し訳なさそうに目を逸らした。
「すまない、気持ち悪い目だろう?」
「──! 違います!」
思った以上に強い声が出てしまい、ダリウスが驚いたようにびくりと身体を震わせる。
ニーナは急いでその広い胸にすがった。
「王様がとっても優しそうだから見惚れていただけです。私、王様の笑顔が大好き。もっともっと笑ってもらいたくて、笑顔が見たくてどうしたらいいか考えてたんです」
気持ち悪いから目を見ていたとか、そんな誤解だけは絶対にされたくない。
全身を寄り添わせ訴えると、ダリウスの白い肌が一気に赤く染まった。
ものすごい勢いだ。白い髪の先まで赤く染まりそうで、ダリウスは困ったように額に手を当て、しばし沈黙する。
「王様?」
「……いや、その、大丈夫、だ。ええと、その……、そういうアレではないんだな?」
「そういうアレ?」
そういうアレとはどういうアレだろう。
きょとんとすると、ダリウスはニーナを見つめ────。
そして、何かを悟ったように気を取り直し笑った。
「いいや。なんでもない。嬉しくて驚いてしまっただけだ。ありがとう」
「王様!」
この感情をどう表現すればいいのだろう。嬉しさのあまり、ニーナはダリウスの広い胸にぎゅっと抱きつく。
「──ちょっ、ちょっと待ちなさいニーナ!」
「ダメですか?」
「だ、駄目というか! その、君はいつも他の人にこんなことをしてるのか?」
これ以上ないほど困惑しきった顔で尋ねられ、ニーナはふるふると首を横に振った。
「したことはないです。見世物小屋にいたときは檻に入ってたから誰も私に近づけなかったし、人形として誰かの膝に乗るときは動けないので」
人形となっている間は客にすり寄ることなどできず、一方的に触られることはあっても自分から行動を起こすことは不可能だ。
「娼館では姐さん達が抱きしめてくれたけど、男の人は初めてです。ごめんなさい。王様が優しいからついやってしまいました」
心のままに行動してしまったが困らせてしまったらしい。
なんとなくしょんぼりして、ダリウスの胸から離れようとしたそのとき。
「すまなかった──!」
突然ニーナの背中に逞しい腕が回り、そっと抱き寄せられたのだ。
温かい胸に引き寄せられ、目を瞬いたニーナの頭上に震える声が落ちる。
「私が悪かった。そうか。そうだな。君の境遇を考えれば当たり前のことだ」
何が当たり前なのかはよく分からないが、ダリウスは潰さないよう気をつけながらニーナを抱きしめてくれた。
おっかなびっくりでかなり苦心しているのが分かるが、その分真綿でくるむように優しい。もっとぎゅっと強く力を入れてくれてもいいのに、と物足りなくなるほどだ。
がっしりとした腕や厚い胸は温かく、頬に触れる絹のアンタリがすべすべしていて気持ちいい。衣に焚き染められているのか、爽やかに甘い香の匂いがほのかに感じられる。
このまま眠ってしまいそうで、ニーナは目を閉じたままささやいた。
「気持ちいい……」
「はい!?」
「こんなこと、はじめてされました……」
うっとりとささやけば、離れようとしていたダリウスの腕がぴくりと止まる。
しばらく静かな時間が流れ、ややあって納得したような声が聞こえた。
「──そうか」
心なしか、先ほどよりも背中に回った腕に力がこもる。
「王様?」
「いや。私は自分の立ち位置が確認できた。了解だ」
何やらうなずきながら一人で合点し、ニーナの望みどおりぎゅっと腕に力を込めてくれた。
子供にするようにニーナの短い髪を撫で、優しく微笑んだ。
「こんなことでよければいつでも」
「本当ですか?」
「ああ。君なら好きに振る舞ってくれてかまわないよ。膝に乗ろうが抱きつこうが」
「いいんですか!? 嬉しい!」
やったぁ! と調子に乗って伸びあがり、ダリウスの首に腕を回して全身を寄せる。
ダリウスは一瞬驚いたようだが、突き放すこともなく苦笑しながら抱きしめ返してくれた。
「本当に可愛いな、君は」
はい、といつものように答えようとしたのに不思議と言葉が止まった。
そんなニーナに気づいたのか、ダリウスの方が慌てたように謝罪する。
「すまない、君はこういう言葉をかけられるのが好きではなかったな」
「ううん、大丈夫です」
────嫌ではない。
そんな言葉は聞き飽きて、言われるとうんざりしていたのに不思議と嫌ではなかった。
なぜなら、ダリウスが容姿を誉めたわけではないと思えたからだ。
「後宮の庭を掃除しているらしいな。広くて大変だろう?」
「広いです。でも後宮で働くいろんな人たちがたくさん手伝ってくれるんですよ。そしたら庭の真ん中に石の舞台を見つけて、今はそこを掃除してるんです」
「ああ、初代国王の……。もうそんなところまで整備したのか?」
「はい! 王様も見に来てください。ちゃんと残りも綺麗にしますから!」
元気よく返事をしたが、寄り添うダリウスの身体がかすかに揺れた。
それまでゆったりとくつろいでいた全身が強張り、怯んだ気がしたのだ。
「──ああ、そうだな。時間があれば」
「やっぱり外に出るのはダメですか?」
ニーナは身体を離し、正面からダリウスと向かい合った。
気持ちはとてもよく分かるし、無理やり引きずり出したいわけではない。
否定しようとしたのか、ダリウスは唇を開きかけて止める。
一心に見上げるニーナの視線とぶつかり、降参というようにかすかに笑った。
「……そうだな。明るい外では人の目が気になる。ここには私のことを知っている人間しかいないが、後宮や外ではそうじゃない。変な髪や目だと言われるだろう」
「王様は全然変なんかじゃありません」
嘘偽りのない本心だったが、ダリウスは穏やかに短く、一言だけをささやく。
「ありがとう」
それだけでニーナにも彼が何を考えているのかが分かった。
ニーナはダリウスの気持ちを理解しているが、ダリウスはおそらくニーナが理解してくれているということを理解している。
誰がなんと言ってくれても外に出る以上傷つくことは避けられない。いくら励まされても慰められても、ニーナやダリウスはやはり人とは違うのだ。
その事実だけは変えることができなくて、自身の有り様を顧みたニーナは押し黙る。
「……でも、王様が変だって言うならきっと私も変です」
「君は変ではないよ。特別な存在であることは確かだが」
同じことではないか。
〝特別〟と〝変〟に違いがあるように思えず、ニーナはダリウスのアンタリの胸元をきゅっと掴んだ。
「じゃあ私が王様の隣に立てばいい。そうしたらきっとみんな私を先に見る。それから王様の方を見て、両方変だって言うはずだから」
「ぶっ!」
何がおかしかったのか、ダリウスは急に噴き出し肩を震わせだす。
さっきまで悲しそうに笑っていたのに、あっという間に楽しそうな笑顔に変わった。笑いがおさまらないのか、金紅眼を細めながらうなずく。
「なるほど。それは面白いな。じゃあ私が外に出るときはニーナに隣に立ってもらうことにしよう」
「はい! 中庭が綺麗になったらこっそり見に来て下さいね? いろんな人が手伝ってくれたから王様にも見てもらいたいんです!」
嬉しい。
心が弾み、ダリウスを笑わせられたことが無性に嬉しかった。
「私が掃除してるといっぱい集まってくれて、ずっとずっと手伝ってくれたんです」
「ああ、九天から聞いているよ。この件が終わったら大げさではない褒賞を与えておこう。そんなことのために君を手伝ったわけじゃないと分かっているが、正当な労働の対価だ」
「わぁい! ありがとうございます!」
きっとみんな喜ぶだろう。ニーナも彼らに何かを返したいと思っていたが、あいにく金銭も権利も持たない身だ。
(あ、そうだ!)
褒賞と聞いて、ニーナはようやく自分の着る服がダリウスから贈られたものであることを思い出した。
「王様、私にたくさん服と物をありがとうございました。お礼を言おうと思ってたけど、昨日の夜はバタバタしちゃったから」
「バタバタというかドッタンバッタンだったがな……。いや、それより贈り主が私だと九天が言ったのか?」
「はい。私のことを可愛くないって言ったお詫びだって」
何気なく言えば、ダリウスは思い出したようにハッとする。
「違うっ、それについては本当に悪かった! 君のことを可愛くないなどと思ったことはないから、それだけは訂正したい! あれはそういう意味ではなくて、女性としてというか、いやそうでもないな!? その、君は最高に可愛いんだがなんというか……!」
「大丈夫です。私、ちゃんと分かります」
一生懸命弁解され、ニーナは緩む口許を隠すようにダリウスの胸に頬を寄せた。
そもそも気にしていなかったのだが、ダリウス本人の口から訂正され、さらに「最高に可愛い」などと言われ妙に心が浮き立つ。
くすぐったい気持ちになり、自然と笑みがこぼれてしまった。
可愛いと言われてこんな気持ちになったのは初めてで、途惑いながらも決していやな気分ではない。
(なんでだろう。すごく嬉しい)
つい先日まで「可愛くない」と言われて喜んでいたはずなのに。
「陛下。意外と楽しそうに続いてるお話し中すみません」
ノックの音が聞こえ、ダリウスが返事をする前に九天が顔を覗かせた。
仲良く抱き合った二人の姿に全く動じることなく、申し訳なさそうに一礼する。
「定例会議が終わる頃ですので、もうそろそろ宰相がお越しになるかと」
「九天、頼むから返事をしてからドアを開けてくれ……!」
「そんなに照れなくても僕がいたときから膝抱っこだったじゃないですか」
どうやら仕事の時間らしい。
羞恥に悶えるダリウスの腕が緩み、ニーナは名残惜しくその膝から滑り降りた。
もっと一緒にいたいし話をしたかったが仕方がない。
(王様、忙しいもんね……)
自分でも驚くほど沈んでしまい、気を取り直して別れの挨拶をしようと向き直る。
だが、それを制するようにダリウスがニーナの背に手を当て立ち上がった。
扉へと促され、早く出ていけという意味かと思ったがそうではない。
驚いて見上げたニーナと優しく目を合わせ、ダリウスは口許をほころばせたのだ。
「後宮まで送ろう」
「──!」
思わずぱっと顔が輝いてしまい、ニーナは急いで嬉しさを引っ込めた。
「でも王様、お仕事は……」
「宰相が来るのは会議が終わってからだ。君を送り届ける時間ぐらいはある。行くぞ九天」
九天が「お、おおおおお!?」と謎の声を上げながらも従い、ニーナは飛び跳ねたくなる気持ちそのままにダリウスの腕にしがみついた。
「ありがとうございます、王様! すごく嬉しい!」
「礼を言うのは私の方だ。君と話をするのはとても楽しい」
「私も! 私も楽しいです!」
「僕もですよ!!」
「なぜお前も!?」
片手でダリウス、もう片方で九天の腕を取り、ニーナは明るく声を上げて笑った。
誰かに強制された笑いでもなく、誰かに怒鳴られ制止されることもない。
こんなにも大きく、腹の底から自然に声が出るほど笑ったのは生まれて初めてのような気がした。




