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一番綺麗に着飾れ、と言われたがそんな必要性は微塵も感じない。
いつもどおり娼妓の衣装である紅色の単衣を纏い、黄金の帯を締めて行くと女将に満足そうにうなずかれてしまった。結局なんでもよかったらしい。
女将に連れられ、店で一番の上客が通される部屋へと入る。
朱色に塗られた異国情緒溢れる部屋でひざまずけば、薄い帳の向こうで人が座しているのが分かった。
「お客様、お待たせいたしました。〝月下亭〟の看板娘、ニーナをお連れしましたよ」
女将の媚を含んだ猫撫で声が響き、ニーナは行儀よく手をついたまま顔を床に伏せる。
(どんなお客さんなんだろう)
営業時間前の娼館に押しかけ、相場の十倍という法外な値段で法律違反の十五歳の娘を買う男。
女将がいそいそと帳を開く音がして、身を伏せたまま第一声を待つニーナの鼓膜を──────。
「ありがとうございます、女将さん。営業時間前なのに無理を言って申し訳ありません」
予想外に高く、涼やかで礼儀正しい声が打った。
(──若い……!)
顔を伏せたまま耳をそばだてていたニーナは、その爽やかな声に少なからず驚いた。
女将を動かすほど金を持っているなら、確実に壮年か老年の男性だと思っていたのだ。
だが声を聞く限り青年、いや、まだ少年と言ってもいいかもしれない。
「いえいえ、とんでもございませんよ。せっかく都から御足労頂いてるんですから、このぐらいのことはお安い御用ですよ」
「ありがとうございます。ではニーナさん、お顔を拝見してもよろしいですか?」
全く人物像が掴めないが、ニーナは「はい」と返事をしてゆっくりと顔を上げた。
見世物小屋で培った優雅な仕草で身を起こし、背すじをまっすぐに伸ばして目の前の人物を見つめる。
ニーナを買いに来た男は、襟足にかかるほどの癖のない黒髪に黒い瞳、ほっそりとした肢体に旅装を纏った青年だった。
一重の細い目と薄い唇。白磁のような肌と彫りの浅い顔立ちから、彼がラージャム王国ではなく北の竜安国の生まれだと分かる。
錦を真似た安っぽい座椅子で胡坐をかく姿は十五、六歳の少年のようだが、よくよく見れば二十代半ばにも見える。とにもかくにも年齢が読みづらい男だった。
何歳なんだろうと凝視したニーナに、だが男も瞠目する。
切れ長の目が真ん丸になり、瞬きすらしない。ゴクリと白い喉が上下し、やがて、唇から震える声がもれた。
「これは、驚いた……! あなたは人間ですか?」
称賛ではなく純粋な驚愕として言われ、ニーナはひょいと頭を下げる。
「人間です。普通に」
答えたニーナに、男はあからさまに「しゃべれるのか!」という顔でのけ反った。
ニーナは正真正銘、命をもった普通の十五歳の少女だ。
ラージャムでは一般的な、腰まである薄茶色のまっすぐな髪に瑠璃色の瞳。
目、鼻、口、耳──。人間として、ついていないとおかしい器官は全てそろっているし、数だって他人と変わらない。
それなのに、ニーナを見る者が口をそろえて「これは人間か?」と尋ねるには理由があった。
染みどころかほくろ一つない白百合色の肌に、見る人によって青にも緑にも見えるという不思議な瞳。
ぱっちりとした二重の目蓋に、瞬きすれば音がしそうな長い睫毛。小さく、ほど良く高い鼻と形のよい薄紅の唇。
ニーナの顔面にはそれらが完璧なバランスで配置され、絶妙に整っている。
あまりにも狂いなく整いすぎて、無表情になると人としての個性を見いだせない。
優しそうとも言えず、冷たそうとも言えず、ただ「美しい」としか表現できなくなるのだ。
身動きをやめ、口を閉ざしてしまえば誰もがニーナを精巧な人形と見て、人間と知った者は申し合わせたように身震いした。
────こんなにも美しい、人間らしさを感じさせない人間が存在するはずがない。
見世物小屋で長らく人形役を務めてきたニーナは、見る者の危機感に訴えかけ、不安を抱かせてしまうほど完成された美貌の持ち主だった。
男は何度も何度もニーナを眺め、驚嘆の声を上げる。
「この町の娼館に凄まじい美少女がいると聞いて来てみましたが、確かにこれはすごい……! なんという美しさだ!」
「あー、はぁどうも」
毎度繰り返されるやりとりに疲れ、言葉少なに礼を述べたニーナの脇腹にゴスッと女将の太い肘が食い込んだ。
「まあまあまあっ、お客様申し訳ございません~! 本当に初心な子で、こういった会話に慣れておりませんのでぇ」
「えぇー、慣れてないんじゃなくてむしろ慣れすぎ……」
言いかけたとたん再び肘鉄を食らい慌てて黙ったが、目の前でやりとりを見せられた男は呆気にとられたように絶句する。
夢から覚めたように感動を引っ込め、ニーナをまじまじと見返した。
「ニーナさん。あなた、ひょっとして自分が綺麗だという自覚がありますか?」
「はぁ、あります。大陸一だ奇跡だ神の娘だってみんなにさんざん言われますから。違うんですか?」
違うならなぜ言うのだ?
ニーナは自分を普通の人間だと思っている。
他人と自分の違いなどさっぱり分からないし、なぜそれほどに「美しい」と言われるのかも分からない。なぜ「人間とは思えない」などと酷いことを言われるのかも分からない。
分からないが、こんなに浴びるほど言われるからには自分は人と違うのだろう。
他に類を見ないほど美しく、人々が畏れを抱いてしまうほどに神々しいのだろう。
「私は綺麗の定義が全然分からないんですけど、とにかく会う人会う人みんな言います。初対面の人なんてそれしか言わないんで一回言ってもらったら十分ですよ。二回三回はさすがに面倒──」
「ニーナあああっ、ちょっとあんたは黙ってな! んもおおっ、申し訳ございませんお客様! この子は本当に世間知らずで、自分の美しさに過剰な誇りを持っておりますもので!! ニーナ、口を開くなって言ったの忘れたのかい!?」
「あ、忘れてました。黙ります」
さっそく失敗だ。美しさに過剰な誇りは持っていないが、訂正するとまた叱られるだろうから黙っておく。
今更ながら口をつぐめば、客の男は微妙な表情で呻いた。
「うーむ、これはまた何とも言えない性格ですね……! いえ、でも確かにあなた以上の美人など存在しないと言っても過言ではない。いいでしょう、多少性格に難があってもこれほどの美しさは才能の一つです」
自分は容姿が人間とは思えない上に性格に難ありらしい。
ひどい言い様だがショックを受けるほど繊細な性格ではないので、聞き流したニーナに男は漆黒の瞳を細めてにっこりと笑った。
「ニーナさん。あなた国王陛下の花嫁候補として後宮に入りませんか?」
「………………、……え」
コクオウヘイカノハナヨメコウホトシテコウキュウニハイリマセンカ?
…………どうしよう。
まったくもって意味が分からない。
脳は一生懸命処理しようと頑張ってくれたが、ただの音の羅列にしか聞こえず固まった女将とニーナに向けて男は丁寧に頭を下げた。
「改めて自己紹介させて頂きますね。はじめまして。僕はラージャム王国国王ダリウス陛下の側近で宦官の胡九天と申します。あ、これ証拠の印綬です。ラージャム王国に宦官制度はありませんので、名前のとおり竜安国の出身ですよ」
「……はあ、どうも。ニーナです。田舎者なので名字とかありません」
印綬だという銀製の印鑑と紫の組紐を眺めながら名乗り返したとたん、女将にスパ──ンッと後頭部を叩かれた。
「ニーナ、こここっこのお馬鹿! のんきに答えてる場合かいっ!? こっこここっ、こッ国王陛下の側近の宦官が来たんだよ!?」
「女将さん鶏みたい~」
「どーでもいいんだよ、そんなことはっ! ああもう冗談じゃないよ、お役人様!」
女将の取り乱しようについていけないが、とにかく大変なことらしい。
油断なくニーナを背中に隠し、女将は細く剃った眉をキッと吊り上げる。
「この子を引き抜きに来たんだね!? そんなことは許さないよ、この子はまだ自分の元値すら稼いでないんだ。十倍ぽっちの金で渡してたまるものか! この子は月下亭の大事な金ヅルなんだよ!」
「すっごいハッキリ言った!」
「黙ってな、ニーナ! 空気を読めっていつも言ってるだろ!?」
「今ちょっと読みづらい空気~」
「読めるだろ!! こんなに読みやすい空気ないよ!?」
「そうなんですか? 難しいですね、空気読むって」
口が酸っぱくなるほど言われているが、うまく読めた例がない。
真顔で答えたニーナを指差し、女将はここぞとばかりに九天に詰め寄る。
「見たかい、お役人様! こんなに馬鹿ですっとぼけた娘なんざ後宮に入れるわけがない! だいたい娼館上がりの女が妃になるなんて許されると思うかい!?」
前半には物申したいが後半は正論だ。だが九天は少しも怯まない。
少年のような無邪気さで爽やかに微笑み、堂々と女将を見返した。
「ニーナさんはお客を取ったことがないんでしょう? だったらなんの問題もありません。そもそも後宮に入ったからといってすぐ妃になるわけではなく、選考会を催す予定ですし」
「選考会?」
あ、そりゃちょっと面倒だなという雰囲気を醸し出したニーナに気づいたのか、九天がやや焦り気味に口を添える。
「我がラージャム国王ダリウス陛下は眉目秀麗、温厚篤実品行方正、優しすぎるほど優しく知的で常に笑顔を絶やさない最高のナイスガイなのですが、残念なことに女運が非常に悪くていらっしゃいます。おかげさまで二十七歳になった今も独身で……」
「んな阿呆な。おかしいだろ、なんでそんな最高の王様が結婚できないんだい? 何かとんでもない欠点があるに違いないよ」
鼻で笑った女将に九天はカッと黒い目を見開いた。
「失礼な、そんなものありませんよ! 陛下が最高の美男子でお身体も雄々しく性格も素晴らしい、まさしく非の打ち所なしなところがいけないんです! 現にお見合いした女性はことごとく気後れし、『わたくしにはもったいない方で』というお褒めの言葉で遠慮されてますからね!」
「お断りの常套句じゃないか! そんな盛りに盛った人物紹介されても、騙されるのは世間知らずの馬鹿しかいないよ!?」
「なんで見てないくせに盛りに盛ってるって分かるんですか!? あの人引きこもりで一回も国民の前に出たことないのにいい加減なこと言わないでもらえます!? だいたい婚活のプロフィールに嘘八百並べるのは当たり前のことでしょうが、こちとら必死なんですよっ!?」
「そんな必死こいて家来に結婚相手探される王様なんぞ聞いたことがない! ニーナ、こりゃよっぽどひどい男に違いないよ!」
「ちょっと黙っててください女将さん! 女将さんの話は聞かなくていいですから一緒に来てくれますよねニーナさん!?」
「あ、はい。行きます」
「ああそんなこと言わないで是非っ……!? え、行く!? 行くって言いましたかニーナさん!?」
熱弁を振るっていた九天だけでなく、勝利を確信してふんぞり返っていた女将までもがぎょっとする。
二人共に予想外という顔をされ、ニーナは瑠璃色の目を瞬いた。
「言いましたよ。私、王様の後宮に入ります」
「決断早っ! 大丈夫ですかニーナさん!? こんな説明で承諾されると僕の方が不安なんですが!?」
「ニーナ、お前はさっきの話を聞いてたのかい!? 国王のくせに相手の女から結婚を断られるような男なんだよ!?」
「はあ、大丈夫です。だって王様にどんな欠点があっても娼館に残るよりマシなので」
「超正論!! 僕の熱弁全て無意味!」
九天は役者のように大仰に掌で額を打ったが、喜びの方が強いらしくすぐさまニーナを促し立ち上がる。
「ではすぐに都に向かいましょう。あなたさえ来て下されば、もうこんなしょぼい町に用はありません!」
「ちょ、ちょいとお待ちよ、お役人様!」
展開の早さに驚いたのは女将の方だ。慌てて九天の腰に取りすがる。
「ニーナを連れて行かれちゃ困るよ! うちには身請け制度なんてものはないんだ、勝手なことはやめとくれ!」
「了解です、制度がないなら作りましょう。作れないならこの店ごとぶっ潰しましょう。どっちがいいですか?」
「どっちも御免だよ!」
「ではぶっ潰す方で。十五歳の少女に無理やり客を取らせようとした罪で役所に連絡入れときます」
「それを後宮に連れて行こうとしてるそっちはなんなんだい!?」
「国の最高権力者様ですよ! 結婚に年齢制限なんてありませんし、僕は全権を与ってきてるんですから邪魔する奴は問答無用で排除します!」
「ひいいぃっ、絵にかいたような悪代官じゃないか! ニーナ、お前はこんな男の主の元に行ってもいいのかい!?」
女将の悲鳴を思考の外で聞き流しながら、ニーナはこの先の未来に想いを馳せた。
自分が国王の後宮に入る。九天でさえもニーナを美しいと言ったのだから、きっと自分の美貌は都でも通用してしまうのだろう。
だが、選考会を開くほどたくさんの美女が集まればどうだろう?
(お妃様なら絶対顔だけで選ばれたりしないよね。王様は二十七歳だっていうし、十二歳も年上なら大丈夫……かな? 王様からしたら子供だよね?)
相手は大人の男だ。美女など見放題(であろう)一国の王で、知性と教養のかけらもない、顔が綺麗なだけの子供を選ぶだろうか?
いいや、選ばないに違いない────────!
(行こう! 行って、後のことなんて後で考えればいい!)
逃げられないことから逃げる労力は無駄だが、逃げられる可能性があるのに逃げないのは怠慢だ。チャンスを与えられたなら運を試す価値がある。
思いきりと順応力の高さなら誰にも負けない。自分はどこでだってやっていける!
(そうだ、集められた女の人の中からお妃様が決まるんなら、その人に取り入って小間使いとして後宮で働かせてもらえばいい。そうしよう! うん、なんていい計画!)
そうだ、そうだ、そうしよう!
「ああニーナ、お前からも言ってやっておくれ! この店ぶっ潰すなんて……!」
「いい計画すぎてワクワクする──! 私も気持ちが昂ってきました!」
「ではニーナさんも月下亭の解体に賛成ということで。はいじゃあ行動に移しますよ!」
「ニーナあああああああ──────っっ! この恩知らずがああああっ!」
「女将さん、今日までお世話になりました!」
なぜか大泣きしている女将に元気良く頭を下げ、ニーナは気持ちも晴れやかに立ち上がった。