3
午前中いっぱいで石舞台周りの草刈りを終え、ニーナはいつも最後まで手伝ってくれる庭番達と午後にまた集まる約束をして解散した。
広い庭も徐々に過去の形状を取り戻しており、達成感に満ちた気持ちで道具を片す。
(本当に三日で中庭全部を綺麗にできるかも!)
やはり人数がいるのはありがたい。手伝ってくれた皆に何か恩返しができればいいのだが……、と考えていると背後から声がかかった。
「お疲れ様です、ニーナ様。葵様がお昼ご飯を持ってきてくださいましたよ」
宮の扉口を振り返れば九天が立っており、隣には籐の手提げ籠を持った葵がいる。外出着なのか、いつもの裾の引きずる装束ではなく足首までのすっきりとした着物姿だ。
長い黒髪はすべて右肩に流され、地面につかないよう器用に折り返して飾り紐で結ばれている。
「葵ちゃん、来てくれたんだ!」
泣きながら眠ったせいで腫れぼったい目をしていたが、表情はさっぱりとした葵は手持ちの籠をそっとニーナに差し出した。
「昨夜のお詫びですわ。外で食べればあなたが喜ぶのではないかと九天様がおっしゃったので、軽食の肉饅頭をお持ちしましたの」
「肉饅頭? わーい、外で食べるのも嬉しい! さすが九ちゃん、私のこと分かってる!」
「まあ、私が分かっているというよりニーナ様が分かりやすいんですけどね。それでは私はこれで」
「え、九ちゃんは食べないの? 庭、けっこう綺麗になったんだよ」
せっかくなので九天にも見てもらいたい。
葵と並んで宮の階に腰を下ろせば、去ろうとしていた九天は足を止めて見下ろしてくる。
一緒に食べよう、と肉饅頭を差し出せば、しばし迷った末にやれやれと笑ってくれた。
「仕事中ですがあなたに誘われては仕方ありませんね。一つだけ頂きましょう」
天気もいいし、庭は広くて眺めもいいしで言うことなしだ。
ニーナを真ん中に三人横並びに座り、それぞれ肉饅頭にかぶりついた。
まだほかほかと温かい肉饅頭は具がたっぷりで、ふわふわとした外側の皮は肉汁を吸って香りよく、柔らかい肉やしゃきしゃきとした野菜の食感が楽しい。
「美味しい! 外で食べるといつもよりおいしく感じるね!」
初めての体験に感動して両隣を見れば、小動物のように小さく食べ進んでいた葵がほっと息をつく。
「とても美味しいですわ。まさか外で食事を頂くことになるとは思いもよりませんでしたけど」
「外というか、この庭を見ながら物を食べる日がくるとは……。本当にすごいですよ、ニーナ様」
雑草が取り払われ、ちゃんと石舞台が見えるようになった庭を九天は感嘆の表情で眺める。ニーナは筒に入った清水を飲みつつ首を振った。
「ううん、後宮で働くみんなが手伝ってくれたからだよ。私一人じゃ三日かけても舞台までたどり着けなかったと思う」
広げた小さな掌には潰れた肉刺がいくつもあり、じくじくとした痛みがとても新鮮でニーナはきゅっと拳を握る。
「私、本当に自由なんだって思えるよ。傷を作っても誰にも怒られない。髪だって自分で切れるしたくさんしゃべることもできる。走ることだってできる。息だって自由にしていいし、目をつぶるのも瞬きするのも自由なんだ」
誰にも制限されないし、じっとしていることを強要されたりもしない。
過去最高の開放感と感動に身震いしたのに、両隣で葵と九天が硬直した。
「…………い、息? 瞬きを自由にって、なんですの……?」
「すみません、ニーナ様。百歩譲って前半は分かるんですが、後半はどういう……?」
どちらも饅頭を食べることすら忘れたようで、ニーナは目を瞬く。
「そのままだよ。私、見世物小屋にいたときは生きた人形役だったから。ずっと檻に入って、身動きしないように訓練されてたんだ」
檻は美貌のニーナを守るためでもあったが、口を開いたり立って歩くなどもっての外。
ただ姿勢を変えずに美しく座り、表情も固め気が遠くなるような長時間を過ごす。
「それが私の与えられた仕事だったから。私は自分の身体に傷なんて作っちゃいけない。髪も自分で切っちゃいけないし、私の外見を変えるのは私じゃなかった。上手く人形になりきるために、日常からずっと動かないよう誰かが見張る。しゃべるとき、瞬きするとき、他人に分かるように息をしていいときは全部座長が決めるんだ」
ニーナの身体はニーナのものだが、動かせるのはニーナではない。
見世物小屋に売られた以上、ニーナは人間ではなく人形になりきらなければいけなかったのだ。
幼少期の懐かしい思い出に浸り、ニーナは嬉しさにえへへと笑う。
「だから娼館に買ってもらえた時はすごく嬉しかったよ~! 何もかも許されたわけじゃないけど、檻に入ったり鎖に繋がれたりしないから自由に歩けたし、しゃべることもできた。誰にも怒られなかったから娼館ではひたすらしゃべったよ。そしたら次はこんなに楽しい後宮に入れて、友達までできて私の人生うなぎ上りの右肩上がり! 今が最高―!」
自分は本当に運がいい。
周りの人々とチャンスに恵まれ、こうして自由に動けるまでになったのだ。
「私本当に幸せ者だよ! こんなに運がいい人間ってなかなかいないと思う。そうだよね? ね、九ちゃん! 葵ちゃん!」
友人二人に笑顔で迫ったが、どちらも凍りついたまま動かない。
しばらく肉饅頭を手に青ざめていたが、ややあって九天はごくりと息を呑んだ。
「そ、壮絶な過去を聞いたはずなんですけどそう聞こえないのが不思議ですよ……!」
「ニーナ、あなた予想以上におかしいですわよ……!?」
「なんで?」
何がどうおかしいのかさっぱり分からないが、そういえば娼館の女将や姐さん達も似たような反応をしていた気がする。
ともかく次なる野望のため、ニーナは葵に全開の笑顔を向けた。
「だから私、葵ちゃんにお妃様になってもらってここで働きたいんだ。王様はすっごくいい人だし、ここで働いてる人達も大好きだし」
だが、打ち明けたとたん固まっていた葵がふっと真顔になった。
「いいえ、ニーナ。わたくしはダリウス陛下の妃にはなれませんわ」
「え! なんで?」
昨夜はあんなに頑張っていたのに、と途惑うニーナに、葵は憑き物が落ちたように微笑んだ。
「わたくしは蛍から遠ざけるためここに送られたにすぎませんもの。ラージャムの王妃となればさすがの蛍もあきらめるのではと思いましたが、それも叶いませんでした。こうして蛍が陛下のお側に来てしまった以上、私が選ばれれば陛下や瑞に迷惑がかかります。薫子様もいらっしゃいますし」
「薫子さんってあのお妃様に内定してる人? でも……!」
葵にすがったニーナより早く、肉饅頭の最後の欠片を飲みこんだ九天が言葉を続けた。
「後宮では薫子様の噂が出回っているようですが、そのことは一切気にしないでください。確かに宰相達に推薦されていますし、陛下が誰もお選びにならない場合は自動的に薫子様が側室になります。ですが決定権を持つのはあくまで陛下。陛下が誰かを選びさえすれば簡単に覆るということを忘れないでください」
力のこもった真剣な声でいい、九天は籠の中に入っていた手巾で手を清める。
「この三日間の試験を提案したのは太后様なんですよ。試験内容なんてどうでもよくて、ただ出来うる限り大勢の女性と陛下を対面させたい。陛下が外に出て行かないならこっちに呼び寄せてやれという考えですね。三日の選考期間を設けて、その間に陛下が心動かされる女性を捜します」
「たった三日間で決めちゃうの?」
それではほぼ一目惚れではないか。
ニーナや葵は運よくダリウスと言葉を交わせているが、候補として集まった女性の中には一対一で会うことすらできていない者もいるはずだ。
「もう少し期間を長く取った方がよろしいのではありませんか? せっかく大勢の女性に集まって頂いても、深く知る前にお別れになってしまいますもの」
ニーナや葵の疑問を受け、九天はうなずく。
「短いという意見には僕も同意します。一緒に過ごすうちに育つ恋もあるでしょう。でも太后様は、『本当に運命の人なら絶対に逢った瞬間に分かる。この人だ! と思える何かがある。いいえ、むしろ会う前に分かるはず!』なんて滅茶苦茶なこと言うんですよ」
「会う前?」
「言ってみれば〝予兆〟ですね。直感でも胸騒ぎでも夢見でもなんでもいい。むしろ嫌な予感でもいい。普通とは違う何かを感じることができるはずだって」
容姿を主としたただの一目惚れではない。太后の求めるそれは本物の運命だ。
九天は雑草の刈られた庭を眺め、ぽつりと言った。
「陛下はあんな髪にあんな眼です。子どもの頃から引っ込み思案で内向的で、今はそうでもありませんけど対人恐怖症ぎみでした」
対人恐怖症となるからには、それ以前にさんざん嫌な思いをしたのだろう。
「ちゃんと話をすればみんな陛下の良さが分かるのに、自分が姿を見せれば人が不快がると思って隠れてしまっている。自分の望みよりも人のことを考えてしまう。僕は陛下のそういう遠慮がちなところを変えたいんです」
「──。でも、私は王様の気持ちも分かるよ」
友人として、九天の想いはとてもありがたいものだろう。
だが、似た境遇であるニーナはダリウスの心情に寄り添わずにいられない。
「王様が自分のことより人のことを考えるのは、秤にかけてるんだ。むやみやたらと人のこと考えて遠慮してるわけじゃないと思うよ。望みを叶えるために自分が傷つく価値があるかどうか、それを考えて動かないんだ」
九天はきっとダリウスが損ばかりしていると思っているのだろう。
もどかしく感じ、もっと欲しい物を手に入れ、やりたいことをしてほしいと思っている。
「九ちゃんは王様のことが本当に大好きなんだね」
いつも言い合いをしているが、あれも親愛の表れだ。
真顔のまま見つめる九天を見つめ返し、ニーナはぱっと微笑んだ。
「大丈夫だよ。王様が本当に心から何かをしたいと思ったらきっと自分から動く。九ちゃんみたいな人が側にいてくれるんだし、王様は何もかもを我慢して不幸せな生活をしているわけじゃないんだ」
自分が傷ついてもかまわない。
それ以上の何かを得られると確信できたなら、ダリウスは望みのために自ら行動を起こすだろう。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
ここまで案じてくれる九天の気持ちを、ダリウスも分かっているに違いない。
九天はしばらくニーナを見つめ続けていたが、ふいにうつむき、苦笑した。
「心配というか、うだうだ悩みがちでマイナス思考なところが面倒なだけですよ。いいところも多いんだから、しっかり国王としてみんなの前に出てもらいたいんです」
「なるほど。九ちゃんはみんなに王様の良さを自慢したいんだね」
「解釈おかしいですよ。とにもかくにも肉饅頭をご馳走様でした。僕は仕事に戻りますね」
「はーい。また一緒にご飯食べようね」
手を振れば、九天は見たこともないほど優しい顔で手を振り返してくれた。




