二日目 不幸と幸福 1
怒涛の一夜が明けた。
いつもどおり日の出前に起床したニーナは、ダリウスが贈ってくれた服の中から比較的動きやすい物を選ぶ。
今日は薄紅のアンタリを前掛けにし、隣で眠る葵を起こさないよう静かに着替えた。
葵の部屋は昨夜の大騒ぎのせいで窓が割れ、柱などの破損もあったためニーナが自分の部屋に誘ったのだ。
ラージャム国王への取り返しのつかない無礼と非礼に、「死ぬしかない」と打ちひしがれる葵を慰め励まし、泣き疲れ寝入るのを見守ったのがつい先ほど。
まだ葵が寝息を立てていることを確認し、ニーナは元気よく牡丹の宮を出た。
早朝の繚乱後宮は草花と露の香りに溢れ、霧が漂う中を歩けば都のただ中にいることを忘れるほどだ。
清々しい気持ちで中庭に到着すれば、すでに人々が道具を手に草刈りを始めていた。
「おっはよーございまーす!」
大きな声で挨拶すれば、集まっていた二十人ほどの下働きが一斉に振り返る。
「おはようございます、ニーナ様!」
「おはようございます! 今日もお美しいです、ニーナ様……!」
早朝から集まってくれるのは、主に朝食の仕込みを終えた炊夫や水などを運ぶ荷担ぎ達、庭番や厠掃除などの汚れ仕事をする掃除夫だ。
昼を過ぎれば洗濯女、風呂焚き、夜の灯の番をする火入れ女などが来てくれる。
後宮では驚くほどたくさんの人間が働いていて、ほぼ全員が空き時間を使って入れ替わり立ち代わりニーナを手伝ってくれていた。
無償で既定の仕事以外に参加してくれる人々に向け、ニーナは今日も笑顔で礼を言う。
「皆さん、いつも本当にありがとうございます。今日は石舞台周りを綺麗にしたいのでよろしくお願いします!」
「おお──っ!」
遠慮なく希望を述べるニーナだが、集まった皆は拳を上げて応じてくれた。
さっそく鎌を手に草刈りの列に入るが、当然のことながら一人で作業していた時とは圧倒的にスピードが違う。
たった三日しかない花嫁選考会だが、中庭全体の草が刈れそうな勢いだった。
鎌を振るうのも楽しく、ニーナは機嫌よく昨夜の出来事を思い返す。
(昨日は楽しかったな~。あの蛍さんって人、本当に葵ちゃんのお兄さんなのかな?)
泣きっぱなしの葵を慰めるのに忙しく、彼についてはまだ何も聞けていない。
とにかく大きな男だった。娼館の用心棒など目ではないほど強く、ダリウスがさらにその上をいって強かったことにも驚きだ。
(王様があんなに強いなんて知らなかった! 九ちゃんもやたらと素早かったし、やっぱり偉い人の周りにはすごい人が集まるんだ)
単純に仲がいいから九天を側に置いているのかと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
色々謎があって楽しい……と浮かれていると、ニーナの側で刈った草を台車に乗せていた掃除夫が感慨深げにつぶやいた。
「しかしこんな舞台があったなんて知らなかったなぁ。ここ数十年は後宮に人が少なかったし、人員を割いて草刈りなんかもしなかったから」
庭の中央にある石舞台はすでに全容が現れており、数百年前と変わらぬ姿を見せている。
上手と下手に続く階段があるだけの大きな方形の舞台で、屋根も柱もないがそのぶん汎用性があった。
牡丹、桂花、月季の三つの宮に人が溢れていた時代は、多くの宮女が妍を競い、さぞかし華やいでいたのだろう。
選考会のために雇われた下働きは、ほとんどが三年前まで後宮にいた再雇用者であり、懐かしい話題に厨房の女達が次々と声を上げた。
「そりゃそうだよ。太后様の時代なんて女官は二人だけだったんだよ?」
「先王陛下も無駄なお金を使う方じゃなかったからねぇ」
これだけの広さの庭や宮を修繕となると莫大な費用がかかり、誰も使っていない場所となると放置されるのも仕方がない。
それは分かるのだが、屈みこんで草を刈っていたニーナは腰を伸ばし目を瞬いた。
「太后様って今の王様のお母さんてことですよね? すごく身分が高いのに、どうしてたった二人しか女官がいなかったんですか?」
花嫁候補として呼ばれた姫君ですら、どっさりと侍女を連れてきている。
ラージャムは大陸一の豊かな国なのに、女官がいないとはおかしいではないか。
当然の疑問として尋ねたのだが、誰もが急に黙りこみ目配せを交わしだす。
口を開く者がおらず、周りの視線に押された庭番の老人がやむなく答えた。
「ニーナ様。国王ダリウス陛下は少し変わった容姿をお持ちだと伺っております。そのせいで陛下がお生まれになったときは勤めを辞める女官も多くいたとか」
いつのまにか草刈りの手を止めた人々が集まり、それぞれが昔のことを語り出す。
「たしかにバタバタと女官が辞めた時期があったねぇ。お仕えするのが怖いって」
「あたしも聞きましたよ。なんでも周りの女官が気味悪がって、陛下を〝悪魔の子だ〟と怖れ、殺してしまった方がいいと先王陛下に進言したとか」
「なにそれ!?」
思わず叫んでしまい、血相を変えたニーナに庭番が詳しく話をしてくれた。
「我々下働きの者には殿下──、今のダリウス陛下のお姿を拝見する機会なぞありませんでしたが、女官達に進言された先王陛下がたいそうお怒りになったと伝え聞いております。当時の女官は二人を残して全員解雇され、牡丹の宮の一室で王妃様ご自身が殿下をお育てになったそうで」
(そ、そんな……!)
あの優しく、中身はどう見ても普通の男であるダリウスが殺されていたかもしれないと聞き、ニーナは思った以上の衝撃を受けた。
多くの人間が異質な存在を攻撃し、排除しようとする性質を持つことはニーナも知っている。
負の要素ではないはずの「美」を持つニーナも異質とされ、人々から距離を置かれてきたからだ。
特異な容姿を持つ者は、その時点で何らかの壁を作られる。
異質さが大きければ大きいほどその壁は高く厚くなるが、生まれたばかりの赤子にすら適用されるとは思わなかったのだ。
「そんな……、まだどんな子に育つか分からないのに殺されるんですか? ちょっと髪や目の色が人と違うだけなのに」
ダリウスは悪魔などではない。
一人で夜の森までニーナを捜しに来てくれ、足が痛いと言えば抱いて運んでくれる。
昨夜の騒ぎだって、動揺する葵に「とりあえず君達を罰するつもりはないから。また落ち着いたら話を聞かせてくれ」と言い置いて去っていったのだ。
「王様はすっごくすっごく優しい人なんです……!」
この場にいる人々もダリウスについてよくない噂を聞いていると知り、ニーナは拳を握って訴えた。
「落ち着いてて、大人で、声も話し方も優しいし背も高くて全体的に大きくて、すっごくカッコいいんです! お願い事も聞いてくれるし無茶なことをしても怒らない。九ちゃんとも仲がいいし、周りの人達からも尊敬されてるすごい人なんです!」
「へええええ────!」
必死に力説すると、聞き入っていた全員の口から驚きの声がもれた。
「なんだい、噂されてる話と全然違うねぇ!」
「白髪で鬼みたいに怖くて見ただけで人を殺すって聞いたけど、優しいのか?」
「とんでもない不細工で、見たら目が潰れるって聞いたよ。あとは目が赤いとか」
目が赤いのは嘘ではなく、ニーナは慌てて言い添える。
「目が赤いのは本当です。周りが赤で真ん中が金色。髪の毛も白いけど全然不細工なんかじゃなくてすごくカッコいいです」
「え?」
周りが赤で真ん中が金色、の意味がよく分からなかったらしい。
全員にぽかんとされ、ニーナは分かりやすいよう繰り返した。
「白目の部分が赤くて虹彩が金色なんです。でも全然怖くないですよ。色は違っても王様は私達と同じ、本当に普通で、普通で、普通の人なんです」
外見が与える影響は極めて甚大だ。理解できない容姿は人に恐怖を与えてしまう。
「皆に王様と会って話をしてもらうのが一番だと思うんですけど……」
中身を知ってもらうのが一番手っ取り早いのだが、そう言いながらもニーナはダリウスが国民の前に姿を見せない理由が腑に落ちてしまった。
(そっか──)
ダリウスが身を隠すのは当然ではないか。
(王様は、自分を知ってもらうことより傷つかないことを選んでるんだ)
それを「いけない」と責めるつもりはない。
ベクトルは違えど第一印象で距離を置かれる者同士、ニーナにはダリウスの気持ちが痛いほどよく分かったからだ。
ニーナには分かる。
他人と違う自分達にとって、一番嫌なことがなんなのか。
それは怯える他者に向かって自分は怖くない、君達と同じ普通の人間だと訴え理解させていく面倒さではない。労力を使うことが嫌なわけではない。
(自分が普通だと分かってもらうまで、自分に怯える人達と向き合わないといけないのが辛いんだ)
大小はあれど、この痛みは避けて通ることができない。
気持ち悪い、怖いという正直で無神経な言葉を投げかけられ、過剰に避け、ときに無遠慮な視線にさらされなければならないことが苦痛なのだ。
なぜ自分を理解してもらうのに傷つかなければならないのだろう。
そうまでして他人に受け入れてもらう必要はあるのか?
それなら分かってくれる人々だけを側に置き、誤解されたままでも隠れて一生を終えた方が楽に決まっている。
だから、ダリウスは国民に姿を見せることを避けているのだ──────。
「ニーナ様、あまり悲しまないでくださいませ」
いつの間にかうつむいてしまっていたらしく、顔を上げれば穏やかな庭番の笑顔があった。
「ニーナ様から陛下のお話が聞けてようございました。なあ、みんな」
ニーナを励ますように、庭番は他の者達に微笑みかける。
「陛下が噂と違ってお優しく、素敵な方だということがニーナ様の話しぶりでよく伝わったじゃないか。もし誰かに陛下のことを尋ねられたなら、お姿は少し変わっているが素晴らしい方だと答えよう」
その言葉に、ダリウスの外見を話し合っていた人々が次々と眉を開いた。
「そうですよ、ニーナ様が優しいとおっしゃる方が怖いはずがない!」
「一度でいいからお姿を拝見してみたいわぁ。背が高くて強いなんて素敵!」
「世の中にはいろんな人間がいますからね。実際に拝見すればなんてことはないかもしれない」
そうだそうだと場が盛り上がり、ニーナもぱあっと顔を輝かせた。
たしかに皆の言うとおり、全く気にしない人間もいるかもしれない。
「そうですよね! いろんな人がいるんだから、みんながみんな王様のことを怖がるわけじゃない。私もそう思います! じゃあ引き続き草刈り頑張りましょう!」
お──っ! という威勢のいい声が響き、中庭に再び人が散っていった。




