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片方は扉から。
そしてもう片方は力任せにぶち破られた硝子窓から。
「陛下ッ!」
扉を開き現れた九天が一足飛びで床を蹴り、目にも留まらぬ速さで両腕を振るう。九天の手に握られた二本の怜悧な短刀が煌めき、熊をも拘束するという縄を断ち切った。
葵が信じられないと言わんばかりに目を見開き、自由になったダリウスはすぐさま九天の背後へと飛び退く。
「すまん、助かったぞ九天!」
「まさかの事態ですよ! 説明してください陛下!」
「なんにも説明できんっ!」
理解できることが一つもなくやけくそで怒鳴り返したが、硝子を踏みしだく音にハッと顔を上げた。
粉々に砕けた窓から葵の部屋に侵入してきたのは、大柄なダリウスに勝るとも劣らない筋肉質の巨漢だ。
闇にまぎれるための黒衣に包み、短く刈った髪も漆黒。鋭くつり上がった目も黒い。
男はカッと目を見開き、雷鳴のごとき怒号を上げた。
「貴様ァッ! 葵の寝所に忍び込むとは何者だ!?」
「そりゃ圧倒的にこっちのセリフだ!! 何者だお前は!? どこから来た!? 九天ッ、後宮の警備はどうなってる!?」
「おっかしいな~、男は入れないはずなんですけどね~」
「軽っ!! なんだその返事は!? 今はニーナ達がいるのに何をしているんだ!」
「門が壊れてるし仕方ないですよ。花嫁候補が来るから一部分は掃除しましたけど人が住まないせいで全体的に廃墟ですし」
「分かるよ九ちゃん、人が住まないと家ってすぐに荒れるよね」
「こらっ、今はそんな切ない常識を話しているときでは……って、ニーナ!?」
突然聞こえた可愛らしい少女の声に、驚愕のあまりダリウスの声がひっくり返った。
扉ではない。
窓からでもない。
奥にあった櫃の蓋が揺れ、ぷはぁっと息を吐きながら小さな生き物が姿を現した。
「ニーナ!?」
なぜ葵の部屋にニーナがいるのかと狼狽したが、驚いたのはダリウスだけではない。
黒づくめの巨漢は突然現れた世紀の美少女に驚愕し、愕然と動きを止めた。
「な、なんだこの凄まじい美人は!?」
戦慄しながら叫ばれたが、当のニーナは櫃をまたぎながら露骨に「えー?」と顔をしかめる。
「もういいですよ、この展開。私は綺麗なんでいちいち言わなくていいですから」
「おいなんだこの性格の残念さは!?」
最速で美の呪縛から解き放たれた男に向け、指を突きつけたのは葵だ。
「そうよ御覧なさい、蛍! 綺麗でしょう、この子!? 私より断然綺麗でしょう!?」
「わーい、部屋に忍び込んでたのに葵ちゃんが怒ってない~」
「これ以上ないほど怒ってますわよッ!! 今はそれどころじゃないから黙ってらっしゃい! ほら蛍、あなたが宇宙一可愛いと言っていたわたくしよりも可愛い女が現れましたわよ!?」
「葵、お前……!」
どうやら黒づくめの巨漢は蛍と言う名で葵の知り合いらしい。
葵にニーナを指し示された蛍は驚いたように絶句していたが、何を思ったか急に頬を赤らめはにかんだ。
「馬鹿だな、葵」
嬉しくてたまらないと言うように照れながら頭をかき、ぽんと大きな手を葵の肩に置く。
「どんな美人が現れても俺にとっての一番はお前に決まってるだろ? 変な心配すんな。愛してるぜ、葵」
「心配じゃありませんっ!! 実の妹であるわたくしのことはあきらめてさっさと別の女性に乗り換えてくださいと申し上げているんです!!」
「こぉら葵、言葉遣いが荒くなってるぞ~? 大好きな俺の前だからって気を許しすぎだろ?」
額をつん、と指先で押し、蛍は慈しみの眼差しで葵を見下ろす。
「愛してる、葵」
「帰れえええええぇぇぇぇっっ!!」
熊をも拘束する縄を一閃させ蛍を鞭打った葵だが、蛍はそれを片手で受け止めニヤリと口角を吊り上げる。
「効かねーなぁ!」
悪役のように薄ら笑いを浮かべ、自らを捕獲するため作られた縄を引き千切って見せたのだ。
ブチブチと無残な音を立てたそれに、恐怖のあまりダリウスの背すじに震えが走る。
(な、なんという怪力──!)
あの縄の強靭さは身をもって知っているが、蛍はそれをたいした苦も無くぶつ切りにし、盛り上がった筋肉を見せつけたのだ。
「葵の暴力に耐えるため鍛えたこの肉体で葵を手に入れてみせるぜ?」
「お前の話おかしくないか!?」
ようやくダリウスがツッコめた瞬間、全員が一斉に振り返った。
今初めてダリウスが存在していたことを知ったかのようにハッとし、怒涛のように騒ぎだしたのだ。
「蛍、お聞きなさいッ! わたくしこの方と結婚いたしますわ!」
「応援! 全力応援! ラージャムのお妃様葵ちゃん万歳!」
「よっしゃ死刑確定、そこの男は死んで詫びろやあああああああッ!」
「ニーナ様ややこしいから黙っててください! 陛下、危ないッ!」
ここにいる人間の中で一番素早いであろう九天が身を挺して前に出てくれたが、蛍の怪力の前にあっという間に投げ飛ばされる。
だが、ダリウスとてただ守られるだけの引きこもりではない。
表に出ない時間を熟練の武官や九天との訓練に当て、披露する場もないのに無駄に技を磨いてきたのだ。
葵が相手で完全に油断しきっていた先ほどとは違う。
九天の素早さに慣れた目は向かってくる蛍の動きを確実に捕らえ、考えるよりも速く身体が動いた。
カッと金紅眼を見開き、どう見ても殴り殺す気満々で突き出された蛍の拳を紙一重で避けたのだ。
勢いのままにつんのめりかけた蛍だが、間髪容れずに身体を捻り裏拳を繰り出してくる。
(っ! なんという反射神経!)
空振りでも体勢を崩さず、それどころかとっさに攻撃を仕掛けてきた蛍に舌を巻いたが、ダリウスはそれすらも躱し容赦なく頸椎に手刀を叩きこんだ。
死なない程度の力加減は心得ているが、相手が相手だけにいつもよりは強めに入れてやった。
とんでもなくタフな男だと思ったとおり、意識を失う寸前までしっかりとにらみつけられゾッとする。
落ちる瞬間までしぶとく掴みかかってきた手を振り払い、ようやく床に倒れ伏した蛍にダリウスはぜぇぜぇと荒い息をついた。
「な、なんなのだこの男は……!」
ただ者ではない。ダリウスはほぼ無意識、条件反射のように戦ったが運動量の少なさに反して息が切れる。
不測の事態に弱い引きこもりのため、けっこうな驚愕と恐怖を感じていたようだ。
呆然と床に転がる黒装束の男を見下ろしていると、盛大な拍手が響いた。
「すご────いっ! 王様強い、最高! 戦う男の人カッコいい!」
「やりましたよ陛下、ニーナ様が大絶賛です!!」
「そんな場合じゃないだろうっ、いろんなことが起こりすぎて心がついていかんぞ!?」
頬を紅潮させて賛辞を送ってくれるニーナは可愛いのだが、混乱がその上をいっている。
ニーナは両の拳を握り、キラキラと目を輝かせた。
「王様、とりあえずこの人は縛りましょう!」
とてもいい意見だが、はちゃめちゃなニーナの口から正論が出るとなんとも言えない気分になる。その意見を出していいのは唯一常識人の私だけじゃないか、という疑問が頭をもたげてしまう。
微妙に放心状態のダリウスに代わり九天が蛍を縛り上げたとき、同じく呆然としたような声が響いた。
「信じられませんわ……。蛍に勝てる男性がいるなんて……!」
「葵ちゃん!」
葵は床にへたり込み、目を瞠って拘束された蛍を見つめている。
ニーナに抱きつかれ我に返ったのか、怯えたようにダリウスの前にひれ伏した。
「陛下……! 数々の無礼はわたくしの命で贖わせて頂きます。この度のことは全てわたくしの一存で行ったことですので、どうか、どうか瑞国や父への罰はご容赦を……!」
「いや……」
窓の硝子は粉々、縄を用いた乱闘で調度品は倒れ、床も傷だらけで柱までひびが入っている。
巻き込まれた側のダリウスと九天はともかく、いきなり積極的にダリウスの貞操を奪いにきた葵と乱入してきた黒づくめの男、そして出歯亀のニーナ。
葵への罰とか瑞がどうの父親がどうのは後にして。
「とりあえず、今日は終わりにしよう………………」
室内の惨状を見渡し、とことん疲れ果てたダリウスはぐったりとつぶやいた。




