8話
光和七年九月。大興山で惨敗を喫した黄巾軍は散り散りとなり、干毒は五百人ほどの手勢を率いて北を目指した。張角が信徒数万と籠る広宗の本拠はすでに官軍に包囲され、必死の抵抗を続けているという。だが、そこへ駆けつけようにも、全ての街道は封鎖され、広宗も包囲されているとあっては、合流はおろか近付くのも危険であったため、冀、幽州の州境にある中山国を目指したのだ。そこにはやはり軍事蜂起した黄巾党が割拠しており、黄巾の道士達が寄り集まり一大勢力を形成していた。干毒の一行は彼らを頼るべく北進したのだが、その途上で別の黄巾の民と合流した。皆、同じように黄色の布を頭に巻いていたが、明らかに戦闘員ではなく、女、子供、老人の一群だったのだ。
彼らを保護した干毒の一行は大変なことを聞かされた。広宗で張角は黄巾軍を率いて官軍と戦っていたが、実は張角は以前から病を得ており、戦のさ中、病没し、それを弟の張宝、張梁は隠蔽し、張角に成り代わって戦を指揮しているのだという。だが、そんな事実はすぐに漏れる。張角の弟達は信仰を私し、自分達に都合の良い教団運営を行っていたため、信者の心象はあまり良くなかった。二人に見切りをつけた者達は隙を見て広宗からなんとか脱出。干毒と同様、中山国を目指していた途上、干毒に保護されたのだ。この話を聞かされた干毒の一行にも動揺が走る。張角の死は黄巾党の瓦解に繋がる重大事である。あるいは官軍はその事実をすでに掴んでおり、この情報を天下に広めるため、敢えて彼らを見逃したのかも知れず、いや、そうではなく、彼らは偽の情報を掴まされ、泳がされているに過ぎないと見る向きもあった。今後どうするべきか、干毒の判断に委ねられたが干毒は当初の予定通り、中山国を目指した。
無事、一行が中山国に到着し、割拠する黄巾党との合流を果たしたときには十一月になっていた。そこで彼らはやはり張角の死が事実であることを知らされた。それだけではない。徹底抗戦していた広宗の本拠も陥落。張宝、張梁も捕らえられ、斬首されたという。これを聞かされた干毒についてきた黄巾の民は皆、一斉に哀しみを露にした。ある者は地面を叩き、ある者は体を寄せ合い、また、ある者は干毒に縋りついて慟哭した。だが、干毒はその場に佇むだけで、何の反応も示さなかった。側にいた周平達もどこか冷めていた。兵士の中にはやはり同じように嘆き悲しむ者もいたが、周平にはその光景がどこか滑稽に見えた。張角の死よりも、信じるものを失ったわが身の憐れさを精一杯表現しているように見えたのだ。干禁、周平は特になにかを感じるでもなく、ただその光景を漠然と眺めるだけだった。
中山国に割拠する勢力に合流した干毒はその指導者達の末席に加えられた。彼らは雷公、干氐根、白雀、五鹿、李大目、呉病、左髭丈八など、およそ本名とも思われない名を名乗り、これに干毒を加え、黄巾八天帥などと名乗った。が、その面々の殆どは山賊あがりか軍人くずれのならず者で、お世辞にも組織の指導者たりえる連中とは言い難い。彼らは酷吏のごとく信者の男衆を使役し、女衆は手込めにした。幸い、干毒の支配下にあった信者は干毒が目を光らせていたので連中の毒牙にかかることはなかったが、干毒の元に信者が集まりだすと次第に八天帥の中で孤立してゆく。正直、連中は干毒を取り除きたいとさえ思いはじめていたのだ。が、近く官軍が中山国に攻め込んでくる動きがあったため安易に内ゲバを起こせぬ事情もあった。ちなみにこの年、黄巾鎮圧に一定の目処が立ったという訳でもないだろうが、元号が光和から中平に改元されている。明けて中平二年。中山国に予想どおり討伐軍が攻め込んできた。が、以前戦った皇甫嵩や公孫瓉が率いる大規模な官軍ではなく、民兵に毛が生えた程度のものであった。八天帥はこれを迎撃すべく軍を発したものの、彼らの士気は低く、足並みもバラバラ。規律もなければ統率もない。対する討伐軍も五十歩百歩ではあったが、黄巾討伐で功を挙げ、栄達を果たすという目標がある分、勢いがある。中山黄巾軍は苦戦を強いられたが、干毒軍は損害が少なかった。干毒は守りに徹し、負けない戦を心掛けた。敵の先発隊を撃退しても追撃など決してしない。干禁、周平ら若い兵士が血気に逸ろうとも、それを干毒が許さなかった。ならば手柄は頂きとばかりに他の八天帥が深追いすれば討伐軍の手痛い反撃を食らう体たらく。これには周平達の鬱憤は更に溜まった。干毒が攻撃さえ指揮してくれれば、自分達はもっと活躍できる。ひいては干毒の地位向上にも繋がるのに、と。本拠地に帰還を果たすも周平は勝った気がまるでしない。一方干毒は他の八天帥から叱責を受けるのが戦の後の恒例になっていた。一言も反論せず、平謝りの干毒を横目に周平も、
「臆病者」
と、心中で毒づいた。若かったからといえばそれまだろう。だが、この干毒の老獪な用兵が官軍に本腰を上げさせることとなる。実は中山黄巾軍の討伐に出てきたのは官軍とは名ばかりの、民兵あがりの義勇軍のかき集めに過ぎず、黄巾討伐の論功からあぶれた連中だった。が、時の朝廷には彼らに充分な恩賞を与える余裕はなく、いまだ各地で活動する残党軍や野盗の退治という仕事を与え、口減らしをしたかっただけなのだが、民兵軍を統括する首脳陣に危機感を抱かせたのだ。
「連中の守備隊を率いるのは何者だ」
「最近中山黄巾軍に加わった八天帥の末席。干毒なる道士だそうです」
「左様。今は序列の最下位ゆえ、発言力もなく、奴は全軍の指揮を執れないでいる」
「では、奴を総大将として担ぎ上げられれば厄介なことになる。一体何者だ」
「張角の後継者ではあるまいな」
「いや、あの如才ない戦い方は元軍人であろう」
「匈奴の戦士という噂もありますぞ」
「うむ、奴の軍は練度が高い。したたかな部隊長も何人かおるという報告もある」
「兎に角、これ以上奴らを調子付かせるのは危険だ。干毒が八天帥を掌握せぬうちに、どんな手を使っても壊滅させるのだ」
こんなやりとりが官軍の首脳陣の間で行われていたなど、周平は勿論、干毒も読めていなかった。
一方、中山黄巾軍では不協和音が起こっていた。干毒を除く八天帥に嫌気が差した信者が干毒を中山黄巾軍の指導者に推す声を上げ始めると、それを干毒の策略と勘繰った連中が一致団結して干毒の封じ込めにかかった。干毒は詮議の場に引き摺り出された。
「最近、毒師は陰でよからぬ謀をしておるそうじゃのう」
「おお。我らの信者を唆して、自分の陣営に引っこ抜いておるとか」
「それは看過できん問題だ。中山黄巾軍が官軍相手に戦ってこれたのも、鉄の団結と序列があったればこそ。それを内側から腐らせるような真似をされては、なあ?」
干毒の身辺警護でついてきた干禁、周平は腸、煮えくり返った。そもそも官軍相手に不甲斐ないのは連中の戦術の不味さではないか。信者が干毒に従いたがるのも、自分達の素行に問題があるからであろう。それを棚上げして干毒を追い落とすことにかけては熱心な連中の志の低さに憤った。また、そんな連中の跳梁を許す干毒にも呆れた。干毒が一言、やれ、と命じれば二人は連中をたちまち斬り伏せて中山黄巾軍を乗っ取ることさえ、やぶさかではないのに。しかし干毒は相変わらずの低姿勢だ。
「それはみどもの不徳の至りでありますゆえ、弁明の余地もございませぬ。しかし、誓って先輩方の信者の引き抜きなど行ってはおりませぬ。ただ、みどもに少しばかり医術の心得があるので、それを頼る信者がおるだけなのです。戦になれば怪我人も多く出ます。みどもとしては一人でも多く黄巾のために働ければと、良かれと思ってのことなのです」
この説明に彼らはぐうの音も出ない。元々、ならず者に過ぎない彼らは太平道の指導者という袈裟を着て信者を意のままにできるのだ。その信仰心の維持は干毒の医術や教義によるところが大きい。いや、自分達にも万が一があれば干毒の医術に頼らざるを得なくなる。これが干毒を除くに除けない理由だった。そんな彼らの弱点を干毒は容赦なく突く。
「しかし、先輩方にそのような疑念を持たれては鉄の結束に綻びが生ずるのもまた事実。なればこの干毒。身一つで中山国から出て行くのもやむなしと存じます」
慌てて他の八天帥が引き止める。
「まあまあ。儂らもそこまで狭量ではない。信者の引き抜きも多少は目を瞑ろう。だが、戦に関わることはそうもいかぬ。そこでだ、一般信者は毒師に一任して、軍権と毒師の戦闘部隊は儂らが預かる。これで八方丸く収まるのではないかな」
要は干毒に面倒を全て押し付けた上で、自分達は兵力を丸々手中にしようという話だ。
「ふざけるのも大概にしろ。そんな話、呑める訳ないだろう。お前らのクソ指揮下に入るくらいなら、もう兵士なんてやめだ」
耐えかねて周平が立ち上がって叫んだ。面罵された八天帥がいきり立ったが、干毒が謝罪し、要求を呑むことでその場は収まり、お開きとなった。帰りの道すがら周平は憤懣やるかたない。
「先生。なんだってあんな連中の言いなりなんだ。先生がその気になれば、あいつら全員俺が始末してやったのに」
「いい加減にしないか。先生が服従しているのは皆のことを考えているからだ。あの場で俺達が奴らを血祭りに上げてみろ。たちまち内紛が起こって官軍に付け込まれるだけだ」
干禁が窘めたが内心では同じ気持ちだ。とはいえ、正論でねじ伏せられたところで周平の怒りは収まらない。
「じゃあお前はこれでいいのかよ。あんな奴らに顎で使われて、手柄立てたって、あいつらに掠め取られるのは目に見えてる」
「それよりも、奴らの指揮で犬死にする心配でもしたらどうだ。だからお前は鶏なんだ」
鶏とは、この頃から周平につけられたあだ名である。普段から落ち着きがなく、走り出すと手が付けられない。また、干毒に従順だという皮肉も込め、周鶏と呼ばれていたのだが、二つ名で呼ばれるのはなにか自分が認められた気がして周平はまんざらでもない。二人のやりとりに一拍の間ができると干毒が口を開く。
「今は中山黄巾軍に波風を立てぬのが肝要だ。二人の気持ちも分かるが、いま暫く耐えて欲しい。官軍の動きに注視しつつ、機が来れば一気に行動を起こす」
その静かな、しかし凄みのある物言いに二人は言葉が出ないと同時に溜飲が下がる思いがした。やはり干毒も忸怩たる思いだったのかと。かくして干毒の指揮下にあった戦闘部隊は解体され、それぞれ八天帥に組み込まれた。が、官軍は鳴りを潜め、暫く戦は起こらなかった。その間に干禁、周平をはじめとする干毒の兵士達は引き抜き工作を始めた。放っておいても八天帥の不満分子は干毒になびく。それを確実なものとするためだ。干禁はソツなくやっていたが、周平は筑、朔、沈伸、朗郎に丸投げし、やがて彼らの工作が実を結び始めると再び官軍が動き始め、中山黄巾軍は迎撃に出陣。周平隊は呉病という、八天帥の中では比較的無難な男の麾下に入ったが、干禁は雷公という猪突しか能のない男の指揮下に入った。皆、心配したが周平はあいつなら上手くやるさと、干禁を信じていた。
だが、戦が始まると前線に出た部隊が次々撃破されているという。その理由は伝令によって周平達にも届けられた。
「大変だ。黒山が動いた。奴ら、官軍と手を組んで俺達の討伐に出てきたらしい」
筑が血相を変えて報告してきた。黒山とは百万を号する河北の賊軍である。黒山も黄巾の乱に乗じて漢帝国に反旗を翻した勢力だったはずだが、張角が死に、黄巾が斜陽と見るや鞍替えしたと見るのが妥当であろう。この黒山の部隊が滅法強く、趙雲龍、楊白狐という二人の頭目になす術がないという。
中山黄巾軍は迷路のように入り組んだ山岳地帯に本拠を築いて官軍の攻撃に耐えていたのだが、守りに易い分、八天帥は連携に欠いた。彼らに軍としての協調性は皆無で、同じ黄巾の旗の元で戦いながらも、賊の寄り合い所帯の色合いが濃かった。呉病の元で戦う周平にも次々と味方の窮状を伝える報せが入る。干禁の所属する雷公軍も黒山の頭目、趙雲龍の軍に壊滅させられたという。周平は部隊を纏め上げ大将、呉病の元へ向かった。
「なんだ貴様は。毒師のところの、確か周鶏とかいったな。勝手に持ち場を離れるとは、どういう了見だ」
幕舎に踏み込んだ周平を見るなり呉病とその側近はいきり立った。
「呉病のオッサン。味方が総崩れになってるってのに、なんで助けに行かない。こんなところで小競り合いをやってる場合じゃないだろう」
「戦も知らぬ若造が血気に逸りおって。貴様の面は覚えておるぞ。以前、毒師が弁明した折、近侍して我らを罵った小僧であるな。前線で恐れをなして舞い戻ったなら正直にそう言え」
「ふざけんな。恐れをなして動かないのはお前の方だろう。友軍を見殺しにして、自分は安全な場所から動かないつもりか。今すぐ陣を動かせ。合力して黒山の軍に当たれ」
周平は筑らに抑えられていたが、呉病に掴みかからん勢いで詰め寄るその剣幕に呉病の側近達も殺気立ち、幕舎は一触即発となったが、突如伝令が駆け込んできた。
「病師。楊白狐の軍勢が白雀軍を抜き、我が軍に迫っております。至急、対応を」
「見ろ。貴様が持ち場を空にしたために、敵の接近を許してしまったではないか。この失策は戦で取り返すのだな」
「なんでだよ。白雀軍なんて、俺の守ってた場所の反対方向じゃないか」
周平の反論を聞き流し、呉病はそそくさと幕舎を出た。その様子を見た周平はもうなにを言う気も失せた。この男は最初から及び腰だ。命懸けで敵と戦うつもりがないのは明白だった。
呉病は部隊を纏め始めた。が、周平は馬揃えを率い、敵軍が迫る間道に進路をとった。
「俺達は楊白狐を仕留めに行く。文句はないな、オッサン」
呉病は苦虫を噛み潰した。不甲斐ない自分の配下より、干毒から取り上げた部隊の方が戦闘力は高い。それが自分達の意向を無視するようになれば由々しき事態である。が、今の窮状を乗り切るには周平は頼もしい存在ではある。
「好きにせい。死んだら骨くらいは拾ってやる」
呉病が言い終わらぬうちに周平は進発した。せいぜい敵の足止めでもしてくれれば呉病としては御の字であった。なおも各拠点での味方の敗走の報が入ってくる。遠くには戦の砂塵が複数上がっているのが見える。
「ここももう潮時か。思ったより長続きしなかったな」
呉病は後ろ髪引かれる思いで陣払いを急がせた。
周平が前線に到着すると、そこは白雀軍を抜いた楊白狐の独壇場だった。白い毛皮に身を包み、頭に巻いた黒巾からは見事な白髪をなびかせ、齢の頃は五十前後。馬上で鉄棍を自在に振り回し、黄巾兵を蹴散らすさまはまさに名の示すとおり。周平達は一目でこの鉄棍使いが楊白狐だと知った。部隊は歩兵が主体ではあったが、その勢いに乗り容赦なく黄巾兵を討ち取っている。そこへ周平隊が乱入。騎馬主体なので歩兵の黒山兵を難なく蹴散らす。その様子をしばし静観していた楊白狐だったが、突如周平に狙いを定めた。
「周平、来るぞ。楊白狐だ」
筑が叫んだが、その気迫は周平にも伝わっている。馬首を向け、楊白狐と正対。迎撃すべく剣を構えた。が、周平に違和感。向かってくる楊白狐の姿が視界の右側から左側へ跳ね、そのまますれ違いざま一合。周平の胴を抜きにきた楊白狐の打ち込みを辛うじて受け流した。強烈な一撃ではあったが、思いの外軽い。以前見た関羽、張飛の打ち込みとは比べるべくもない。
「ほっほう。俺の初太刀を躱すとは面白い小僧だ。黄巾にも骨のある奴がいるようだなあ」
楊白狐は鉄棍を担ぎ、馬首を返しながら言った。
(なんだ? こいつの動きは)
周平は今しがたの楊白狐の動きに奇異なものを感じた。
「アカン。こいつはシャレんならへん。怪我せんうちに逃げようで。周平」
初めて相対する武人の迫力に呑まれた沈伸、朗郎はすでに戦意喪失。他の配下も同様だった。
「お前らは下がって援護。敵の歩兵を近づけるな」
周平が一喝すると辺りは静まり返り、その様子を楊白狐は真っ白な髭をこよりながら愉快そうに眺めていた。
「益々面白え。俺と一騎打ちをやらかす気かよ。趙雲龍といい勝負だ。頭は悪そうだがな」
軽口を叩く楊白狐に周平は反発を覚えたが、この男の正体がいまひとつ掴めない。それを見破らない限り勝ち目はない。そんなことを考えていると、再び楊白狐が突っ込んできた。しかし今度の打ち込みは一合目ほどの速度がない。足を止めての打ち合いに持ち込む肚だ。
(なぜだ。こいつの得意技は一撃離脱じゃないのか)
再び周平に疑念。またも楊白狐が獲物を追う狐の如く、左右に跳んだ。攪乱された周平だったが初弾の突きをなんとか躱すと反撃に転じる。しかし周平の横薙ぎを楊白狐は小手を返して弾く。すると再び楊白狐の連続突きが襲う。これも周平は悉く防いだが、実にやりにくい。頭が混乱しそうだ。この感覚はなんだ。と、下段から楊白狐が棍を薙いだ。寸前、周平が剣を振り下ろして防ぎ、両者が膠着。と、楊白狐がずいと顔面を突きつけた。
「なかなかやるなあ。小僧。名はなんと言う」
周平は気合を発して楊白狐を押し返し、強引に距離を空けた。
「俺は黄巾の戦士。周鶏だ」
名乗りを上げると今度は周平から打って出た。
「雀の次は鶏かよ。いいだろう。手前も俺が食ってやる」
すでに周平の息は上がっている。一方、楊白狐はまだ余裕だ。この苦境をこじ開けるべく周平は動いたが、それこそ手練れの楊白狐の思う壺だった。両者すれ違いざま一合。周平の打ち込みは楊白狐の鉄棍に弾かれ、その鉄棍は更に不自然な軌道を描き、小手から周平の胴を抜いた。危うく落馬しかけたが幸い打ち込み浅く、すんでのところで踏み止まったものの、周平の動きを殺すには充分だった。両者再び仕切り直す。が、周平には勝機が全く見えなかった。
「よく頑張ったがここまでだ。観念して首を撥ねられな。鶏」
勝利を確信した楊白狐が馬首を返した。周平も敗北を覚悟した。が、気分は悪くなかった。これほどの武人と一騎打ちの末、戦場で散るなど自分にしては上出来ではないかと。しかし、周平の背後から筑と朔が飛び出し、左右から楊白狐に打ち掛かった。
「よせッ」
周平が叫んだが、二人はほぼ同時に楊白狐の鉄棍を食らって落馬。二人に息はあったが、負傷したのは明らかだった。
「たいしたもんだ。手前のために命を張らせるとは。お前は、いい大将のようだな」
楊白狐の表情に影が差したようだったが、再び鉄棍を構え、周平に打ち掛かった。もとよりただでやられるつもりもない。周平は相打ち覚悟で剣を構えた。接近する楊白狐がやはり左から右へ、そして再び左に跳ぶ。もう周平には訳が分からない。完全に狐の妖術に翻弄されていた。と、背後から声が飛んだ。
「周平。そいつの反対側を突け」
干禁の声であった。周平は慌てて馬首をずらし、楊白狐を右側面に捉えると当たりをつけて苦し紛れに剣を薙いだ。すると、意外な手応え。同時に周平も被弾したが、打ち込まれたというより当たったという感覚で、さほどの打撃でもなく、絡繰りが見えた気がした。馬首を返すと楊白狐が。更にその向こうには配下を従えた干禁の姿があった。馬上の楊白狐の白い毛皮が見る間に赤く染まってゆく。思いの外、深手を負わせたようだ。周平が打ち掛かった。楊白狐もこれに応じたが、もう、あの妖術を使うことはできなくなっていた。両者すれ違いざまの一合。周平の手に確かな手応え。同時に楊白狐の体が地に落ちるのが見えた。勝負はついた。
周平は下馬し、楊白狐の元に歩み寄った。
「なんだよ。よく見りゃ、まだ嘴の黄色い餓鬼じゃねえか。俺も耄碌したもんだ」
楊白狐が周平を見てまた軽口を叩く。餓鬼とはいっても周平ももう、十六、七である。内心立腹したが、感謝もしていた。周平が剣を振り上げると、楊白狐に打ち込まれた箇所が痛むが、それも心地良い。
「趙雲龍といい、手前といい、時代が変わったようだ。俺は、生まれるのが早かったのかなあ」
それを聞いた周平の手が止まった。黒山の二頭目。いま一人の趙雲龍とやらも、周平と同世代だというのか。周平はそれを問い質した。が、楊白狐はそっけなかった。
「そんな情けねえこと、拷問されても言えねえなあ。が、野郎は手前とじゃあ、役者が違う。勿論、この俺ともな。戦場で会ったら一目散に逃げるんだな。いや、野郎は逃げる暇さえ与えてくれねえかな。兎に角、奴の名を聞いたら近付くな。俺が言えるのはこれだけだ」
周平は剣を振り下ろし、楊白狐の御印を掴み上げると、背後から干禁が声を掛けた。
「さすがだな。どうせお前のことだ。こいつがどんな手を使っていたのか、知らないまま勝ったんだろう」
「いや、理屈はよく分からないが、干禁の言葉で少し見えたよ。こいつは左右、どちらでも攻撃できたんだ」
「そう。こいつは左利きだ。左が使える奴は右も結構使える。それを打ち合いの寸前で巧みに使い分けることで相手を幻惑する。こんな風に」
そう言うと干禁は片手で槍を縦に持ち、ストンと落すと、また掴み直した。周平は感心した。
「なるほどな。槍なら穂先があるから分かるが、鉄棍じゃあ分かりにくいよな。いや、だからこいつは鉄棍を得物にしていたのか。それは分かったけど、なんでこいつは裏を突かれたらああも脆かったんだ。左右両方イケるんだろう?」
「器用な奴ってのは、それが弱点にもなる。一度右に構えたものをまた左に。咄嗟にやろうとしても、そうそうできるもんじゃない」
槍と棍は通じるものがある。楊白狐と周平の戦いを見て、干禁は冷静に分析していたのだろう。この干禁なら趙雲龍にも後れはとるまい。周平がそんなことを考えていると、基本的なことを思い出し、問い質した。
「それよりお前、雷公のところにいたんじゃないのか。なんでこんなところにいるんだよ」
干禁は微笑して経緯を説明した。
元々、干毒は八天帥から中山黄巾軍を奪い取るため行動を開始しており、今回の討伐軍が今までと規模が違うと見て取ると計画を実行に移し、干禁をはじめ、他の腹心にも命令を出し内部から八天帥を崩壊させているのだという。これを聞いた周平は蚊帳の外に置かれた気分だったが、適材適所でもあると思った。周平が常に反抗的な態度を八天帥にとっていたのでいい目眩ましになったと干禁は笑った。周平は筑と朔の元に駆け寄り、礼を述べると共に楊白狐の首を見せた。
「干禁と、お前達二人のお陰でこいつを討ち取ることができた。俺達の勝利だ」
筑と朔は負傷していたが、周平と共に喜びを分かち合った。彼らはその後、各部隊を回り味方となる兵をかき集め干毒と合流。一路、南に進路をとった。河北には黒山が根を下ろしており、官軍と結んだからには黄巾の入り込む余地がなくなったためだ。
かくして中山黄巾軍は中平二年、官軍、黒山連合軍によって壊滅。黒山はこの年、朝廷から河北での独立自治を認めさせている。八天帥は干毒以外、全員この戦いを境に歴史から姿を消している。干毒もまた、この戦いで落命したものと思われたが、青州で再び悪名を轟かせるのはもう暫く後のことである。ちなみに、この戦いで周平が討ち取った楊白狐は黒山九尾という、九人の頭目の一人であり、その首を取った周平にはかなりの箔がついたようで、
「周軍鶏」
の、通り名で呼ばれるようになり始めたのもこの頃からだった。