4話
光和七年二月、卜己軍は依然、意気軒昂であった。あの初陣から何度か戦もあった。城攻めもあれば鎮圧に出た官軍との会戦もあったが、卜己軍は連戦連勝。この勢いに、逆に負ける方が困難とさえ思えた。勝てば敵兵が寝返り、道中では味方が合流。黄巾党とは全く関係のない連中までが尻馬に乗り、最初三千の軍だったのが、八千にまで膨れ上がっていた。周平達は有頂天だった。広宗で官軍と戦っているという張角の軍と合流するまでもなく、このまま天下を抜けるのではと。しかし、一応自分達の上官になる干毒は実に影が薄かった。干毒が積極的に卜己や軍の幹部に働きかけてくれれば、自分達はもっと戦えるのにと、それが不満ではあった。
ところが、潁川郡で起きた長社の戦いで、波才という男の率いる黄巾軍が皇甫嵩という将軍率いる官軍に敗れたという。間抜けな奴がいたものだと周平達は鼻で笑ったが、この報せを聞いた軍の幹部達は動揺を隠さなかった。それを裏付けるかのように、その敗戦から風向きが変わってきた。
これまで卜己軍を鎮圧すべく出てきていた官軍が鳴りを潜めた。出撃はするのだが遠巻きにするだけで攻撃は仕掛けてこなくなった。城を攻めても目立った抵抗はなく、城の守備兵はすぐに城を明け渡し退却した。その際、黄巾党の生命線となる兵糧も持って逃げられたので卜己軍はたちまち困窮した。黄巾党の兵士は勿論、その尻馬に乗った者も黄巾党について行けばいい目を見られると思っていたから、話が違うとばかりに不平、不満が渦巻き、両者の間で諍いも起き始めた。それでも城を落としていかなければ食い物にはありつけない。彼らは腹を空かせながらも、歩を進めるしかなかった。やがて卜己軍は長社で波才軍を撃破したという皇甫嵩軍と激突することになった。皇甫嵩は官軍でも筆頭格の名将で知られる男だ。この将軍なら逃げも隠れもすまい。久々の獲物だと、卜己は全軍を鼓舞し、兵士の士気も上がった。
張角の本拠地は冀州の広宗である。その南方にある倉亭に布陣した卜己軍は小高い丘に陣取り、皇甫嵩軍と対陣。周平達は第二軍に配置され、眼前の広大な平原に布陣した皇甫嵩軍を遠望した。遠くには黄河の流れが霞んで見えて壮観である。巨大な鳥が翼を広げたような皇甫嵩軍は美しかったが、その幾何学隊形に何の意味があるのかよく分からない。すると側にいた朔が口を開いた。
「鶴翼だ。皇甫嵩軍は一万二千は下らない。こっちが寡兵なのを見て取って、陣形を組んだんだ」
朔が言うには中央の軍に攻撃を仕掛けると、左右の翼が両脇から挟みこみ、空いた後方から退却を始めた敵軍を追撃するための陣形なのだという。そう上手くいくものかと周平は思ったが、
ではあの陣形を効果的に破るにはどうすればよいか、などと、いっぱしの将を気取って考えたりもした。そして敵軍の中に、明らかに毛色の違う赤い騎馬軍団の存在に気付いた。陣形の端に配備され、あまり重要視はされていないようだが見た目が派手なので嫌でも目に付く。
黄色と赤。このカラフルな構図に周平は苦笑したが、同時にあの赤い軍団の動きはよく訓練されているようにも見えた。
黄巾軍が出撃のときを待ちわびる中、戦鼓が鳴り、第一軍に配備された兵士が大声を上げて皇甫嵩軍に突撃。入れ替わりに周平ら第二軍が配置につく。その間、第一軍を見守る。突撃する黄巾軍の勢いは凄まじく、翼を広げた胴体部分に一直線に攻めかかる。皇甫嵩軍は弓矢を浴びせかけ、何人もの歩兵がこれの餌食となったが勢いを止めるには至らない。ついに先頭の部隊が皇甫嵩軍に到達した。これに対して皇甫嵩軍は最前列に一糸乱れぬ動きで巨大な盾を装備した部隊を展開。これに黄巾軍が突進し、肉弾のぶつかる音が辺りに響く。その衝撃で皇甫嵩軍は大きく揺れたが、すぐに持ち直した。が、勢いをつけた分、黄巾軍の押し込みに皇甫嵩軍が押され始め、そこに後続の兵が殺到し、皇甫嵩軍の陣形が大きくゆがんだが、本軍を抜くには至らない。黄巾軍の勢いを押し止めると、前面の盾兵と入れ替わりに槍兵が展開。最前線の黄巾軍が僅かに退がりはじめた。ここで再び太鼓が鳴り、周平ら第二軍に突撃命令。皆が武器を振り上げ、大声を上げて突撃を開始。周平ら少年部隊も最後尾からこれに続く。皇甫嵩軍を押す第一軍の背を目指し、いよいよ第一軍との合流を果たそうとしたそのとき、突如眼前にあの赤い騎馬軍団が出現。側面から突撃を敢行したのだ。不意を突かれた第二軍はなす術なく侵入を許した。赤い軍団は容赦なく第二軍の腹に食い込み、そのまま一気に反対側まで貫いた。真っ二つに裂かれた第二軍は凍結状態となりその場で停止。この異変は最前線で戦う第一軍にも伝播した。
第一軍に動揺が走ると皇甫嵩は虎の子の騎馬軍団を投入。槍兵が空けた道から騎馬が横一列で突進する迫力に恐れをなした第一軍は踵を返して遁走を図る。すると突然太鼓の音が鳴り響き、左右から翼を成していた部隊が黄巾軍を包み込んだ。黄巾軍は空間を求めて、本能的に真後ろに退却。そのため、凍結状態になった第二軍と正面衝突。黄巾軍はもう、収集がつかなくなった。そこへ両脇、前方の三軍が容赦ない攻撃を仕掛ける。これでもう、勝負がついた。一部始終を最後尾で見ていた周平は茫然と立ち尽くした。
烏合の衆。
三百年前、光武帝劉秀の時代にそんな言葉があったと朔が教えてくれた。目の前の黄巾軍はまさにそれだ。見れば黄巾軍は思い思いの武器を手にして、でたらめに暴れているだけだ。それに比べて官軍はどうだ。美しい隊列を整え、武装ごとに役割が分担され、一糸乱れぬ動きで、まるで一つの生き物のように効率よく殺戮を行っているではないか。統率のとれた軍隊と暴力の集団。どちらが勝つかは自明の理だった。
かつては黄巾軍にも統率らしきものはあった。だが、勝ち戦を続けるほどに、素性のよく分からぬ者が続々と参加し、それらは軍の半数を占めるまでになった。兵士の数が増えることに異議を唱える者はおらず、その代償として軍の規律はあってないようなものになっていった。
結局、彼らは農民であり、戦闘を生業とする軍隊の真似事をしているに過ぎなかったのだ。
鶴翼に左右を抑えられ、意図的に空けられた後方に我先にと黄巾の兵士が相争っている。それを皇甫嵩軍が淡々と討ち取っている。部隊を率いる黄巾の将帥も声を張り上げなにか指示を出しているが、それが効果を上げているようには見えなかった。なんと言っても、彼らは烏合の衆なのだから。周平は一方的にやられる黄巾軍には一瞥もくれず、この勝負を決定付けたあの赤い軍団を目で追った。すでに鶴翼から離れ、距離をおいて部隊を整えている。そして周平は見た。赤い軍団の将の名であろう、「曹」と書かれた旗がたなびいているのを。
「周平、なにやってんだ。ここはヤバい。俺達も退却しようぜ」
筑が佇む周平に声をかけた。沈伸、朗郎も三十六計を決め込んでいる。こいつらも烏合の衆か。隊長の俺の意向も聞かず、自分達の感情の赴くままに行動するのかと、周平は心の中で軽蔑した。
「おい周平。お前も退却組か?」
槍を担いだ干禁隊が割って入った。どうやら彼らは周平と意見が一致しているようだった。
「馬鹿を言うな! トンズラするのは、あの赤い連中に一発かましてからだ」
「そうなのか? 手下共が後ろで首を振ってるぜ」
つられて周平が振り向きかけたが、すんでのところで踏みとどまった。見なくてもその光景は想像がつく。
「それぞれの意見を尊重するのが周平隊の美徳だ。俺一人でも、やる」
「なら、決まりだな。俺がかき集めた兵五十と、お前。これならなんとか、恰好がつくだろう」
干禁と周平が意気投合すると、周平の部下達は肩を落としつつ肚を括った。周平は朔を呼び、自分達があの曹軍に攻撃をかける旨を干毒に伝えるよう命じると、干禁隊と共に行動を開始。
彼らは一斉に駆け出し、黄巾軍を蹂躙する皇甫嵩軍に打ちかかった。だが、狙いはあくまで、その先に見えるあの赤い軍団だ。ここを突破すれば連中に一矢報いることはできるだろう。黄巾軍を完全に見下して、風上に立っている奴らに一泡吹かせる。元々反骨心を乱の原動力にしている彼らである。絶対的強者を見ると噛みつくのは習性のようなものだった。だが、彼らは己の浅はかさを知ることになる。攻撃する敵兵はともかく、恐慌をきたした連中ほど始末に負えないものはない。集中攻撃で突破口を開こうと試みるも、すぐに黄巾軍が逃げ場を求めてそこに集まり身動きが取れなくなってしまう。そうなると敵兵のいい餌食である。自分達のとった行動もまた、烏合のものだと知ったときにはもう遅かった。彼らはたちまち乱戦に呑み込まれ、突破するどころか、その場から離脱もできなくなっていた。もう何人の敵兵を倒したか分からないが、体力は限界に来ていた。周平は赤い軍団を目で追った。が、その姿は乱戦とその土煙に隠れ、視界に捉えることも適わない。奴らは俺達のことも、俺達の決意も知ることなく、この戦いの勝者になるのかと思った周平は無念だった。これから自分達は天下に打って出ようとしていたのに、これでは犬死にではないかと。いや、この天下で犬死しない人間がどれほどいるのかとも思った。自分もその中の一人であったのか。戦で名を上げることもなく、敗者としても歴史に名を遺すことも適わない、数多の戦の、素性も分からぬ雑兵の一人で死ぬのかと思うとやりきれなかった。だが、乱戦の騒音の中に聞き慣れた男の声が、周平には確かに聞こえた。
「隊列を整えろ。戦える者は一ヶ所に集まれ。側面の薄い部分を集中して攻めるのだ」
声のした方向に目を遣ると、干毒が歩兵隊を率い、馬上で指揮刀を振るっていた。今まで軍議でも発言せず、自軍を鼓舞するようなことさえしなかったあの干毒が。今、自分達の窮地に部隊を率い、自ら死地に飛び込んできた。周平が朔を干毒の元に走らせたのは干毒に何かを期待してのことではない。体の弱い朔を慮ったに過ぎない。干毒はそれほどまでに影が薄かったのだ。父か兄のように慕い、尊敬もしているが、戦は全くの門外漢だと思い込んでいた。だが部隊を率いる干毒の指揮は的確で、敵の包囲の綻びを見つけるとそこを集中攻撃させた。干毒が率いるのは二線級だが黄巾の兵なので干毒の指示に忠実で乱れが少ない。この干毒の乱入に混乱が徐々に収まり、次第に統制が取れてきた。先刻までほぼ観念していた干禁、周平も息を吹き返し、干毒の指示に従い敵の包囲の突破に成功。干毒に率いられ、命からがら死地から脱出した。周平達の安全を確認した干毒はすぐに退却するよう命じると、再び部隊を率いて乱戦の中に飛び込み、まだ敵軍に呑まれていない部隊を救援し、順次退却させていった。
日が傾く頃には戦いも終局を迎えていた。卜己配下の主だった将は悉く敗北。途中、干毒の機転もあったが、戦の大局から言えば九牛の一毛に過ぎない。黄巾軍は一敗地にまみれ、退却に成功したのは半数以下。降服は認められず、捕縛された者は例外なく処刑され、大将の卜己も捕らえられ、処刑された。周平達は幸運にも生き残ることができたのである。しかし、生き残った者達にも過酷な運命が待ち構えていた。
散り散りになった黄巾軍は再び集結し、山中に陣を張り、そこで戦後処理にかかった。その様子は戦ほどではないにしろ、やはり地獄だった。五体満足な者など少数派で、大半が重傷を負っていた。それを軽傷の者が看護する有様だった。かと思えば、元気だった者が突然死んだり発狂した。まともな人間の姿を留めていない者がその横で殺してくれと呻いている。
死体の数は時間の経過と共に増え、辺りには死臭と汚物、それに群がる蝿や蛆、不気味な声と血の臭いが充満し、干毒、干禁ら、医術の心得ある者は治療に当たったが、それも焼け石に水だった。そして彼らに追い討ちをかけたのが兵糧不足である。黄巾軍は占領した城から食料を奪って軍団を養っていたが、戦に負ければ当然それはない。官軍のような後方支援などないのだ。彼らはここでも農民反乱の哀しさを知った。
周平達も最初は水汲み、火おこしに東奔西走したが、三日もすれば死体の処理が主な仕事になっていった。処理といっても、遠くの川に運んで捨てるだけなのだが、距離があるので重労働である。埋めたり放置しておくと疫病の原因になるからだ。それでも、重傷者の治療に当たる干毒達よりはずっと楽な仕事に思えた。木の枝を組んだ簡便な担架に死体を乗せ、少年達は列を成して山道をゆく。その光景はまるで葬送の儀式だった。やがて一行は川に辿り着き、崖の上に立つ彼らの眼下には小さな川。そこにはすでに大量の死体がうずたかく積まれている。二人の少年が、そうれと呼吸を合わせ、そこに目掛けて死体を投げると、人形のように崖を転がり、嫌な音を立てて死体の山の上に落ちた。後に続いた者達も次々と死体を放り込む。彼らはしばしそこに佇み、その光景をぼんやりと眺めていた。
「哀れなもんやなあ」
沈黙に耐えかねたか、沈伸が口を開いた。
「俺らもいつか、ああなるんやろうか」
朗郎が続くと、筑が言った。
「それだけは、ご免蒙りたいもんだ」
彼らの間にまた沈黙が流れた。周平は拳を握り、顔を上げた。いち隊長として、なにか言わねばと思ったのだ。
「みんな、聞け。確かに俺達は負けた。はっきり言って大惨敗だ。ついこの前まで元気だった連中が、今は殆どがああなった」
周平が崖下に顎をしゃくった。益々沈鬱な空気が流れる。だが周平は続ける。
「俺はあの戦いの中で、一度は死んだと思った。お前らもそうだと思う。でも、俺達は今、生きてる。なぜだ」
「なに言うとんねん。自分があの赤い連中に攻撃仕掛けるなんて言うさかい、俺らまで死にそうになったんやんけ」
沈伸が小声で言ったが、それは周平の期待した答えではなかったので無視した。すると朔が、
「それは、干毒先生が助けてくれたから」
この答えに周平は心の中でほくそ笑む。
「そうだ。干毒先生が、あの総崩れの状態を立て直した。先生は戦っても強いんだ。俺は今までそんなこと、全く知らなかった」
すると皆も騒ぎ出し、そうだそうだ、あれには驚いたと、思い思いの感想を述べ始めた。周平がなおも畳み掛ける。
「でも、先生は今まで戦のことには全く口出ししなかった。俺達は騙されていたんだ」
いつの間にか皆が周平の言葉に耳を傾けていた。
「多分先生は、上の連中に気を遣って、敢えてなにも言わなかったんだと思う。それもそうだろう。たかだか中帥の、しかも医術の評判しかない先生が意見したところで、鼻で笑われるだけだ」
すると今度は、いけ好かない上官達への不平不満を皆が言い始めた。
「でも、これからは違うぞ。偉ぶるだけで能がない、渠帥だか教帥だかいう連中はあらかた死んだ。なら、俺達を率いるのは干毒先生しかいない。先生が指揮してくれれば俺達は勝てる。俺達はまだまだ戦えるんだ」
言葉の終わりは殆ど叫びだった。これに皆が応じて、拳を振り上げ絶叫した。そこにはなにか、不安を払拭したいという気持ちも多分にあったのだろう。死体が積まれた崖の上で、彼らは声をあげ、力の限り叫んだ。官軍何するものぞと。そして、明日の勝利の誓いを。
だが、彼らは知らなかった。彼らが無事、退却できたのは干毒の機転だけではなかったことを。それはひとえに敵の追撃がなかったからに他ならない。
干毒が混乱した部隊を立て直し、兵を纏めて離脱させる様子を、興味深げに観察していた男が一人、あの場にいたのである。その男こそ、あの赤い軍団の総大将、
曹操 孟徳だった。