表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
于吉仙歌  作者: 厠 達三
33/35

33話

「先生。無事か」

 二人が干吉の部屋に入ると、ここにもいくつかの死体が転がっている。周平は部屋の最奥に目を遣った。そこには窓から差し込む月明かりに照らされ、血に染まった木杭を手にした干吉が幽鬼のように佇んでいた。周平同様、いくつもの戦場を生き抜いた干吉もまた、伊達の手下など敵ではなかった。

「先生。これは一体どういうことなんだ。なぜこいつらは突然俺達を殺しにかかったんだ」

「……用済みになったのだ。儂らがいなくとも、目的を果たしたとして許昌に戻れる事態が起こった。内側から手引きした者がおるはずだ。恐らく、孫策は、もう」

 そこまで言うと干吉は血を吐いて背後の棚にもたれかかるようにして倒れた。

「どうした、先生。どこかやられたのか」

 二人が干吉の傍に駆け寄る。

「そうではない。時が来たのだ。今までもったのが不思議なくらいだ」

 干吉は周平の手を取り自らの腹に当てた。体内にしこりがある。母と同じ病だ。

「ふ、ふ。お前もよく知っておろう。この病は治しようがない。儂は今まで自分に麻酔術をかけ、お前達を欺いていたのだよ」

「そんな。一体、いつから」

「?州の牢に入れられていたときだ。知ったときには初めて死というものを実感した。恐ろしかった。信じられなかった。気が狂いそうだった。だが、牢に入れられていたことにより、死と向き合うこともできた。天命とは、よく言ったものだ」

「どうして、どうして言ってくれなかったんだよ」

「言ってどうなる。儂は埋伏の毒としてこの地に送られることになった。いずれ末路は同じようなものだ。ならば儂は命ある限り、儂を信じた者達に報いるだけだ」

 確かにそうだが、突然干吉の死を突きつけられたことに納得がいかない。

「それよりも周平。最早一刻の猶予もあるまい。皆を連れて逃げろ。伊達の生死に関わらず、次は会稽の軍勢がここに来る」

 だが周平はそんな事態すらもよく呑みこめない。

「恐らく伊達は取引をしたのだ。この事態を引き起こした者と。自身の安全と引き換えに儂らを始末するとな。ただの逆恨みでここまでするほど伊達も愚かではない。奴が失敗したとなれば自らが手を下すであろう。早く逃げるのだ。儂は残らねばならん」

「なんでだよ。一緒に逃げればいいじゃないか」

「逃げたところでどうせ死ぬ。それに儂が真っ先に逃げたら残された者達はどうなる。信じた者に見捨てられ、深い絶望を味わわねばならん」

「先生が死ぬことを望んでいる者なんかいない。見捨てたって構うもんか」

 不吉はひとつ息を吐いた。

「不思議ものだ。伊達や孫家を欺くために手に入れた信者であったが、儂は彼らを見捨てることがどうしてもできん。彼らは利用されているなどとは夢にも思わず、儂の演じる偽りの儂を信じているのだ」

「そんなもん、信じた方が悪いんだ。騙された奴が悪いんだ」

 干吉は周平の手を強く握った。

「聞け、周平。お前もまた、儂に騙されておるのだ」

 周平はなにも言えなかった。これから干吉が恐ろしい事実を語り始める予感があった。

「儂はかつて都、洛陽に代々続く役人の家系に生まれた。もっとも、宮廷に仕えるほどの名家でもないがな。だが、志は常に天下にあった」

 干吉が太平道の指導者になる前の話をするのはこれが初めてだった。

「その頃、宮廷は中央官僚からなる清流と、宦官勢力からなる濁流が血で血を洗う権力闘争を繰り広げていた。皇帝の寵愛をよいことに、権力を私する濁流を宮廷から排除し、政道を清廉の志に取り戻すのが清流の悲願だった。儂も役人の端くれとして清流の末席に加わった。だが、そんなのは嘘っぱちだった。清流も濁流とたいして変らぬ、権力を欲しただけの集団だったのだ。信じたものが偽りだったと知った儂は絶望し、もうこの国を救うには宮廷からでは無理だと悟った」

 では干吉はそのときに身分を捨て、太平道に身を投じたのだろうか。

「清流は何度も濁流に戦いを挑んだ。その度に多くの者が死んだ。それこそ権力闘争になんら関わりもない清廉の士までもな。皇帝の勅旨を自在に引き出せる濁流に、邪魔者を除くのは容易いことだったし、清流もまた自分達に都合の悪い名士を陥れるために濁流を利用した。そして二度にわたる党錮の禁で、罪もない多くの者が死んだ。このままでは濁流に勝てないばかりか、勝てたとしても、とても権力を正しく行使できぬと見限った清流の一部が組織を作り、ある計画を実行したのだ。その中心人物が襄楷なる男だ。その男に心酔していた儂も参加した。その計画とは宮廷の蔵書を盗み出し、医術、占星術、麻酔術、人心収攬術などを集大した太平清領書なる物をでっち上げ、それを皇帝に献上すると見せかけ、上奏するというものだった。だが、ある者の裏切りにあい計画は露見。逆に濁流の反撃に遭い、多くの者が殺され、生き残った者は地に潜った。襄楷も逃げた。それでも諦めなかった奴、いや、儂らは党錮の禁の生き残りと結託し、宗教の力を借りて民を纏め上げ、その力でもって宮廷を変えようとした。そして儂らは道教の影響力を利用した太平道教団を作り上げ、反濁流勢力からの協力も取り付けた。これに一役買ったのがあの襄楷だ。そ奴こそが張角。この大乱をもたらせた元凶だ」

「ちょっと待てよ。それじゃあ、太平道教団は最初から反乱を起すために創られた物だったのか?」

「いや、最初のうちは世に太平道なるものがはびこるのは政治が機能していないからだと、皇帝に上奏するのが目的だった。だが、それも濁流に阻まれた。次なる手は実際に反乱を起こし、それを清流に鎮圧させ、軍部に権力を握らせるという、二段構えの策だったのだ」

 これで分かった。干吉は反乱を指揮していた当初、まともに戦おうともしなかった。黄巾の乱とは、負けることを目的とした自作自演の反乱劇だったのだ。

「だが、その策も虚しく失敗した。官軍を指揮した皇甫嵩は軍権を剥奪された。大方、濁流に反乱勃発の責任を負わされたのだろう。その配下の朱儁も、盧植のような憂国の将軍も、悉く失脚した。失敗どころか、やらないほうがマシだった。黄巾の乱がどのような顛末を辿ったかは、お前もよく知っておろう。儂は太平道の指導者として、その杜撰な計画の片棒を担いでいたのだ。自分のやっていることが正義と信じ込んでな。そして儂はお前に傀儡の術を施した」

「傀儡の術?」

「太平清領書にある人心掌握術。幼子に暗示をかけ、自らの手足として使役する狂った術だ。儂はそれを年月をかけ、お前に施した」

 周平の脳裏に伊達の言葉が蘇る。自分の心が偽りのものとは、俄かに信じられなかった。

 干吉は一筋の涙を流した。

「だが、この術の解き方が儂には分からん。真実を打ち明ける勇気も、ついに儂にはなかった。結局、お前は偽りの儂を信じてここまできてしまった」

 周平の手を握る干吉の手が震えている。雛は泣いている。話をどこまで理解しているかは分からない。周平もまた思考が停止していた。干吉の言葉を信じるならば、自分も、干吉も、この世界さえも、信じるに足る根拠などなにもないということだ。

「文則も、清流の子だった」

 干禁が。意外な名が突然出て、周平の意識が再び干吉に向かう。

「父親は党錮の禁で殺された儂の親友だった。儂は文則を保護すると偽りの名を与え、儂の族氏として育てた。だが、儂は文則があまりにも不憫と思い、全て話してしまった。あれは北海に孔融を攻めたときだったか。今となっては、それが良かったのか悪かったのかは分からんが、まさか曹操の宿将になるとはな。曹操は宦官の孫という濁流の中心に生まれながら、自らは清流に身を置いた怪物だ。奴が天下を窺う位置につけるとは皮肉よの」

 では干禁も、世が世なら中央で権勢を振るっていたのかもしれなかった。中央の権力闘争で干禁は平民以下の身分となったが曹操に仕え、自らの才覚を恃みに失った地位を取り戻しつつあるということか。

「ふふふ。しかし、儂は曹操に一矢報いてはやったぞ。降服の交渉に赴いたとき、奴は周軍鶏を配下にしたかったようだ。だが儂は奇襲作戦の失敗で死んだと言ってやった。そのときの奴の顔ったら、なかったな」

 すると突然広場から筑の声が響き、数人の仲間と共に干吉の部屋に駆け込んできた。

「先生、周平、無事か」

 見れば全員が負傷している。伊達党の不意打ちを食らい、反撃しつつ教会に駆けつけたのだろう。

「おお、筑か。何人残った」

 干吉の様子に筑は面食らったがすぐに気を取り直し、伊達党の襲撃と十数人が生き残ったことを手短に説明した。だが、周平は放心状態でそんな報告も耳に入らなかった。

 干吉は報告を聞くと雛を呼び、部屋の奥にあるひとつの長持を開けさせた。中には大量の竹簡が納められていた。

「先生。これは?」

 雛が聞いた。

「太平清領書の写しと、儂が注釈を加えた物だ。これは危険な物だ。お前達は今すぐこれを持って逃げろ。皆殺しにされるぞ。漢中へ行け。漢中の五斗米道ならば、これを悪用することはあるまい」

 筑は状況を把握はしきれていないようだったが、周平がなんの反応も示さないので仲間に指示を出し、脱出の準備を始めた。

「筑よ。周平と雛を連れて逃げてくれ。儂はここに残る」

「周平。兎に角、ここにいるのはヤバい。一旦、離れるんだ」

 だが、筑の声も虚しく、周平を動かすことはなく、やがて夜が明けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ