3話
「思えばあの勝利が、勘違いの始まりだったんだ」
周平はあの頃のことを回想した。皆が血に酔い、新時代の到来を確信した。
革命。
なんと甘美な響きであろうか。今、自分達が苦しく、社会の底辺で虐げられているのは全て無能な為政者のせいである。それを武力で打倒し、自分達が取って代わる。社会の底辺など知らぬ雲上人にまともな政治ができる訳がないからだ。世の無情を知り尽くした自分達こそ権力を行使するにふさわしい。そしてこの世から全ての飢えや貧困を取り払い、こんな世の中を招いた者達には正義の裁きを下し、新時代の礎とすれば、至福の王国が打ち立てられるに違いない。そんな夢想をしていた。
だが、現実はそれほど単純ではない。中央集権の腐敗とその盛衰は歴史の必然であり、燎原に起こった反乱の火の手は新たな権力の台頭と共に粛清されるのも歴史が示すところだ。その間に購われた命の代償は省みられることもなく歴史の闇に葬られ、新たな政権が旧政権より過酷な法で人民を虐げないという保証もまた、ありはしない。しかし、皆は革命の大儀を信じた。自分達こそ正義だと信じたがった。政権の打倒を志す者は、万民を掬い上げる徳を欠く天子から、権力を民の手に戻す必要があるからだ。そして張角こそが、その天意を受けた者でなければならなかったから。
易姓革命だと朔は教えてくれた。その内容は周平にはよく理解できなかったが、その四文字だけが福音のように脳裏にこびり付いた。
若かったからだろうか。若い頃というのは確かに、心身ともに充実し、気力が漲り、山も抜くような勢いがある。あの頃の自分がまさにそうだった。だが自立を過ぎ、何度も負け戦を味わい、実は歴史の流れとは、個人の意思など、いや、それさえも呑み込んで猛り狂う、制御できない大河なのだと思い知ると、若者の思い上がりがいかに愚かしく、恥ずかしいものかを知った。自分はただ利用されていただけだった。黄巾党や張角にではない。彼らもまた時代の激流に呑まれた枝葉に過ぎなかった。周平の傍には干禁がいた。干毒がいた。この二人がいたことにより、周平は自分を俯瞰することができた。少年の頃に罹った熱病はやがて霧散し、後に残ったのは夢の残滓であった。
と、いきなり怒号が聞こえた。監視をする齢若い兵卒が初老の男を鞭打っている。その様子から作業の遅れを咎められているのが分かる。よくある光景ではあったが、この日はいつもと様子が違った。兵卒は新入りらしく、抵抗できない男を虐待するのが面白くて仕方がない風だ。周りの兵も遠くからその様を冷ややかに見ている。この炎天下でぶっ続けで作業して、能率が落ちるのは当たり前。その苦役に就く者を鞭打ってなんの意味があるというのか。いや、分かり過ぎるほど分かる。周平はかつての自分を思い出した。あの若い兵も昔の自分と同じだ。今、曹操軍に兵士として召抱えられ、この戦国乱世で栄達する夢にでも浮かされているのだろう。自分の行いこそ正義であり、弱者を鞭打つのは悪を成敗しているに過ぎない。かつてあの城で行われた裁判。あの判決を見て自分達は免罪符を得た。自分達の行いは黄巾党に仇なすことでさえなければ、どんな悪事であれ正義だった。
「おい、なにを寝転がっている。立て。そうやって同情を引くのが貴様等のやり口だろうが、俺の目は節穴じゃないぞ。さっさと作業を続行しないか」
鞭で打たれているのに作業を続けるもないだろうと皆が鼻白んだが、兵士の殴打は止まない。が、不意に兵士の手首を背後から掴む者があった。周平である。それに気付いた兵士は驚きの声を上げ、後じさった。全く気配を感じさせなかった。そして兵を見据える周平の目。部下を張り倒すことを趣味にしている上官が可愛く思えた。周平は無表情のまま兵士に訴えた。
「勘弁して下さい。この男は戦で足を悪くしておりまして、元々仕事などできる体ではないのです。俺がこの男の分まで作業するので、どうかお目こぼしを」
最初こそ周平の物言わぬ迫力にうろたえたが、それでは面子が立たない。周平のへりくだった態度に思い直し、兵士は虚勢を張った。
「何だ、お前は。青州兵ですらない者が、俺に意見とはいい度胸だ」
兵士が鞭を振りかぶった。が、周平は兵士の手を押さえ、目を合わせた。その迫力に再び兵は呑まれ、まさに蛇に睨まれた蛙であった。
「よせ、周平」
筑が後ろから声をかけた。周平は何食わぬ顔で振り向き、
「何もしていない。ちょっと事情を説明しただけだ。すぐに分かってくれたよ」
すると兵士が周囲の様子に気付いた。いつの間にやら辺りを青州黄巾の民に囲まれ、いくつもの視線が自分に向けられている。
「な、なにをしている。見世物じゃないぞ。さっさと持ち場に戻らんか」
そう喚くと皆はそそくさと元いた場所に戻り、周平と筑は鞭打たれていた男を抱き起こし、その場を後にした。兵士は憮然とした。新しい職場で早速自分の存在を印象付けようとしたが目論見は外れ、逆に面子は丸潰れである。すると先輩格の兵士に肩を叩かれた。
「なかなかやるじゃないか。新入り。あれは俺達にどうこうできる男じゃないんだが、早速名を上げたな」
意外にも持ち上げられ、若い兵士は照れながら謙遜する。
「たいしたことありませんよ。若いからって、舐められちゃおしまいですから。それよりもあいつ、そんな難物なんですか? そうは見えませんでしたがね」
これを聞いた年配の兵は苦笑しつつ一言、言った。
「周軍鶏の名は、聞いたことがあるか?」
これを聞いた若い兵は、ひっ、と声を上げ、その場に尻餅をついた。
「そんな、馬鹿な。周軍鶏は確か、鉅野沢の戦いで死んだはずじゃあ」
「ああ、表向きはな。だが、周軍鶏の面は割れてない。死んだという噂だけで、死んだとは限らんだろ。あの男の名は周平子雲。ここの青州黄巾党の精神的柱であり、あの干毒の弟子だそうだ。俺達の間じゃあ、奴が周軍鶏でとおってるんだ」
「そんなあ。それじゃ、なんでそんな奴がここの屯田開発なんかに当たってるんです? もし奴が周軍鶏なら、青州兵どころか、正規軍の将になっててもおかしくないじゃないですか」
若い兵士はもう泣きそうになっていた。年配の兵は首を振った。
「そんなこと俺が知るか。強いて言うなら、あの周軍鶏は確かに、一度死んだんだろう。だが、いつ息を吹き返すか分かったもんじゃない。あの宛城の件の際、ここで起こった暴動騒ぎはお前も知っているだろう」
若い兵士は再び小さな悲鳴をあげた。
「まさか、それじゃ、あの暴動は奴が」
「馬鹿を言え。もしそうなら、ああやってお咎めもなく作業なんかしてられるか。だが、何の尻尾も掴ませなかったところが逆に不気味だろう。兎に角だ、奴が本気で暴動でも画策した日にゃ、前回どころの騒ぎじゃすまないし、俺達にはどうにもできない。その責任は当然俺達にもかかってくる。いや、奴が変節でもして、私が周軍鶏ですと名乗り出てみろ。俺達としてはぞっとしないな。つまりはそういうことだ。背伸びするのは結構だが、あまり突っ走り過ぎるなよ。若いの」
年配の兵はそう忠告して、持ち場に戻った。若い兵士はその場に尻をついたまま、再び作業に打ち込み始めた周平の背中を、しばし茫然と眺めていた。