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于吉仙歌  作者: 厠 達三
29/35

29話

 その年、建安五年の江東は日照り続きであった。もう梅雨だというのに一向に雨が降らない。各地の小さな川は干上がり、水不足に陥った。江蘇の干吉仙家のある集落にもその影響はあったが、他の地域に比べ、まだ落ち着いていた。 

「筑の奴、こんなときに限っていないんだから」

 雛が井戸水を汲みながら不満を漏らす。集落の井戸は枯れず、水不足にはならなかったが、丘の上の教会まで何度も往復しなければならないのでそれなりに重労働である。

「へへへ。雛先生、大変そうですねえ。お手伝いしましょうか?」

 後ろから声をかけたのは伊達であった。雛は黙って水汲みを続ける。

「それにしても酷えよなあ。こんな若者をいいようにこき使ってよ。今や干吉仙家は雛先生でもってるようなもんなのによ。みんなそう言ってるぜ」

 伊達が手伝うそぶりも見せず話を続ける。

「もうここの連中は、干吉さんより、雛先生の言うことを聞くんじゃねえのかなあ」

 水を汲み終えた雛は黙ってその場を後にした。伊達は唾を吐いて口笛を吹きつつ、干吉仙家に続く坂道を登る。広場まで上がるとすでに雛は義舎に入り込んでいる。伊達は教会を横切り干吉の部屋へ向かう。

「よお、爺い。今日はいい話を持ってきてやったぜ」

 伊達は入り口にどっかと腰を下ろすといきなり本題に入る。たまたま居合わせた周平は呆れたが、伊達は構わず話を始める。

「孫策の周辺を調べてたら許貢の食客共が浮かび上がってきてよ。そいつらが孫家の内情を詳しく調べ上げているらしいんだ。ああ、許貢てのは呉郡の豪族で、江東平定戦で孫家に滅ぼされた群雄の一人な。んで、こいつらは利用できるってんで協力を持ちかけたんだ。だが奴ら、けんもほろろでこっちの話も聞きゃしねえ」

「そうですか。それは残念でしたな」

「残念でしたじゃねえよ。なぜだと思う? 俺達が信用ならねえんだとよ。手前が布教だかなんだか言ってこの辺りの連中を骨抜きにしやがるもんだから、奴ら本気でこっちをただの胡散臭えインチキ教団だと思い込んでやがるんだ」

「それでは仕方ありませんな。して、良い話というのは」

「手前、馬鹿か。連中にこっちを信用させるために行動起こしゃあいいんだよ。軍事訓練でもやって信者共の尻に火ぃ点けりゃあ、各地で燻ってる連中もこっちになびかあな」

「まあまあ。急いては事を仕損じますぞ。軍事訓練とは言いますが、この地に孫策の間者が潜んでおるのは公然の秘密。今は雌伏し、孫策の信用を得るのが肝要かと。ご用心、ご用心」

 伊達は頭を抱えて出て行った。

「呆れたもんだ。先生の正体が孫策にバレてるとも知らずに、都合のいいこと言ってる」

「まあ、連中は儂らと違って埋伏の毒という自覚がある。敵中で穏やかでいろと言う方が無理かもしれん。それにしても許貢の食客か。気になるのう」

「ただの雇われ者だろ。伊達の口ぶりからも、あまりやる気はなさそうだし、心配することもないだろ」

 だが、干吉は深刻な表情で言う。

「周平。遊侠の徒というのはな、仁義のためなら、ときに命も厭わぬものなのだ。過去の権力者が暗殺された事件の背後にはそういう輩が関わっていたことも少なくない。そんな連中と伊達が手を結べば、それは恐ろしいことなのだ」

 途端に周平に不安が過る。遊侠の徒よりも、干吉がそんな言い方をすれば、大抵その通りになるのだ。干吉は続ける。

「その食客に限らず、危険な連中と伊達が繋がらぬうちに干吉仙家も、これ以上大きくならぬよう心掛けねばならんな」

 周平も同感であったが二人の意に反し、教団はたちまち膨れ上がることとなる。

 結局、梅雨になっても雨は降るどころか、残酷な日照りが江東の地を焦がし続け、季節はそのまま夏に移行。さらに凶悪になった太陽が容赦なく乾いた大地を焼いた。

 うんざりするような雲ひとつない連日の青空が地獄の光景を現出させた。各地の大地はひび割れ、人の糧となりそうなものは見当たらない。ゆらめく陽炎の中を人々は列を成し、救済を求め、江蘇の山奥にあるという奇跡の教団、干吉仙家を目指した。

 干吉仙家のある集落は土地柄、水は豊富にあるらしく、井戸が干上がることはなかったが各地から流民、難民が大挙して押し寄せたので干吉と雛はその対応に追われた。放っておけば不衛生から疫病が流行る恐れもある。集落に着いた途端、死んでしまう者も大勢いたので周平達はその処理にも追われた。

 難民の受け入れが一応の落ち着きを見せると次は怪しげな素性の者達が入り込み始めた。各地で略奪をはたらく連中も、略奪する相手がいなくなれば自然、難民と同じ釜の飯を食わざるを得なくなる。更に伊達の呼びかけに応じた、孫家に恨みを抱くような連中までいたため、干吉仙家はひと月あまりで万を数えるまでになった。こうなると伊達も黙っていない。

「おい爺い。もう充分だろ。こんだけ集まりゃあ、連中を焚きつけてひと旗上げりゃあ、たちまち江東全土に飛び火するぜ」

「まだまだ。その時ではありませぬ。孫策は依然、大軍を長江に駐留させたままではありませぬか。今が我慢のしどころですぞ」

「分かってねえなあ。孫策が行動起こしてからじゃ遅えんだよ。空になった江東で反乱起すなんざ、猿でもできるぜ」

「よいぞ、よいぞ」

「一応、念を押しとくが、俺達ゃ慈善事業でこんなド田舎まで来た訳じゃねえからな。俺らが手前のインチキ教団に奉仕してんのは、人助けじゃねえんだよ」

「よいぞ、よいぞ」

「まさかとは思うが手前、ボケちゃいねえよな? 俺らが少しでも許昌に疑われたら、明日の命の保証もねえんだ。そこんところは分かってるよな」

「よいぞ、よいぞ」

「そりゃ手前は教祖様、教祖様で気分はいいかもしれねえさ。でもよ、モタモタして孫策にも許昌にも睨まれたら完全にお手上げになるんだぞ。手前の胡散臭え説教に馬鹿共が涙を流して有難がっている内に、とっとと行動起すのが得策だと思うがな」

「よいぞ、よいぞ」

「大体、誰のお陰でこれだけ信者が集まったと思ってやがる。俺様のお陰だろうが。それをあの馬鹿信者共が、また訳の分かんねえ信心のお陰だと信じ込んでるのが俺には信じられねえんだよ」

「よいぞ、よいぞ」

 伊達は頭を抱えて出て行った。外で周平を見つけて絡んできた。

「おい、平の字。手前の師匠、ありゃ完全にボケちまって、もう駄目だな。やる気も糞もありゃしねえ」

「やる気って、なにをやるんだ」

「師匠が馬鹿なら弟子も馬鹿だ。頭がいいのは俺だけだ」

 意味不明の捨て台詞を吐き、伊達は去っていった。伊達の歩いている脇で、子供達の歌が聞こえる。


 針のない釣り糸を水面に垂らす。

 夕暮れのあぜ道に座り酒盛りをする。

 雨の日はお香を焚いて祈りを捧げる。

 夜は台の上で月と共に語らう。

 そんな毎日を送っていると人には笑われたけれど、

 いつの間にか神仙の境に迷い込み、

 家に帰るのも億劫になってしまったよ。

 

 そんな内容の歌が、いつの頃からか干吉仙家で歌われるようになっていた。

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