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于吉仙歌  作者: 厠 達三
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26話

 一方、干吉仙家では雛が干吉の弟子の一人として認められつつあった。とはいえ、太平道の教義、祭祀などはさすがに無理なので、干吉の早い帰還を皆が望んでいた。いくら雛が医術を駆使しても、助からない命もまた多かったのだ。

 周平が治療の甲斐なく死んだ者達の埋葬を済ませ義舎に戻ると、そこには一人、疲れたような雛が後片付けなどをしていた。いくら天才とはいえ、人の生死に関わることとなれば重圧を感じずにはいられないのだろう。

「そう、責任を感じるな。前に先生が言ってたよ。天命からは誰も逃れられない。助けられるのは、助かる運命にあるものだけだって。雛がいなけりゃ、ここに運び込まれた者、全員死んでた。皆、雛に感謝してるんだ」

 周平が雛の頭にぽんと手を置き、そう励ました。

「うん。ありがとう。周平」

 それから二人で義舎の片付けを行う。すると雛が周平に話しかけてきた。

「周平って、筑と仲良しだよね。何年くらいの付き合い?」

「それこそ、餓鬼の頃からさ。何年と聞かれても、答えようがないなあ」

 雛はなおもなにか聞きたそうだったが、接ぐ言葉を探しているようだった。

「なんだ。お前、筑に気があったのか。こいつは迂闊だったなあ」

「う、うん。まあね。何て名前?」

「姓が陳で字が琳台。なんだか名門出身みたいな名前だよな」

「変な名前」

「でも、筑かあ。雛にはちょっと荷が重いかもな」

「どういうこと?」

「あいつは亭主を亡くした未亡人とか年上が好みなんだよなあ。なんでも、淋しそうなのがいいんだと」

「そっか。優しいんだ」

 親友を理解されて周平も悪い気はしない。

「まあ、そのお陰で嫁さんにえらい目に遭わされることもあるんだけどな」

「あ、奥さんいるんだ」

「うん。いっぱい。自分の子も、そうじゃない子供も」

「じゃあ、その、周平にも、いる? その、奥さんとか、子供とか」

 片付けをしていた周平の手が止まる。あの美しい夕焼けが脳裏に蘇る。前に思い出したのはいつだったか。

「うん。まあ、いたのか、な」

「いたのかって?」

「戦で死んだんだ。別に珍しいことじゃないけど」

 雛はなにも言わなかった。

「今でも時々、思うんだ。もし死に別れた者達と、いつか神仙世界でまた会えるなら、そのとき笑って会えるように、今を生きていけるのかなって」

 するとばたんと音がして雛がどこかへ行ってしまった。最近の若い娘は分からんと周平は首を傾げ、一人片付けを続行した。

 周平が掃除まですませた頃には辺りも暗くなっていた。義舎の戸締りをして自分の宿舎に戻ろうと坂道を下りかけると、下から坂を駆け上がる女の息遣いが聞こえた。雛が戻ってきたのかなと周平が暗闇に目を凝らすと、幼児を抱えた女が青い顔で周平に助けを求めた。

「お願いします。助けて下さい。うちの子が。うちの子が」

 母親の手の中で苦しんでいる子供の様子を見て、周平はすぐに分かった。現代で言うところの虫垂炎である。

 母子を義舎に入れたものの肝心の雛が見つからない。

「だめだ。心当たりはひととおり当たってみたがどこにもいない」

 筑も仲間と捜索に加わってくれたが見つからないようだ。

「分かった。もう、お前達は義舎に戻って治療の準備をしてくれ。俺よりは手際はいいだろう」

「それはいいけどよ、なんで突然いなくなったんだ。なにかあったのか?」

「ある訳ないだろ。俺の方が聞きたいよ」

 筑と別れ、周平は駆けだした。これだけ捜していないとなると集落の外にいる可能性が高い。男装はしていても年端もいかぬ娘である。周平に不安が過る。暫く走り回って、やっと集落に注ぐ川のほとりに座る雛の後姿を見つけた。周平は大声でことの次第を説明。それを聞いた雛は川の水で顔を洗うと、すぐに振り向き、周平と二人、干吉仙家に駆けだした。

 義舎に戻ると雛はとりあえず痛み止めの処置を施す。その間、狼狽する母親の対処など、てきぱきと指示を出す。周平らがそれらの作業をしている間に雛は干吉の遺した医術書を引っ張り出し治療法を探す。 

 母親を落ち着かせた周平が仲間を休ませ義舎に戻ると雛が青ざめていた。

「やっぱり、腹を裂くしかない」

 その治療法なら周平も覚えがある。虫垂炎の治療にも干吉は腹を裂いて治療を試みていたのを何度か見た。成功率が低く、余程でなければやらなかったが、子供は助かる公算が高かったように思う。雛は他の治療法も探したようだが、それはなさそうだった。

 雛は怯えた様子で体を震わせ、座っている。兎に角、その腹を裂く治療をしなければどちらにしろ死んでしまうのだ。

「雛。その治療をやろう。他に助ける方法がないなら、やる価値はある」

 周平の励ましも、雛には死刑の宣告のようなものだったろう。

 雛は子供に麻酔術を施すと治療に使う器具や手を周平らに命じ熱湯に漬けさせる傍ら、布を大量に用意し、全身を覆う。周平は感心した。干吉がやっていた手順と寸分も違わない。これなら上手くいくのではと思った。

 準備が整うといよいよ子供を治療台に乗せ、周平も布で身を包み治療に立ち会う。雛が右脇腹に小刀をあてがう。しかし、そこで雛の手が止まった。やがて刃先が小刻みに震えだし、大きく揺れ始めると、危ないと思った周平が雛の手を掴んだ。

 雛は顔を布で覆っていたが、目で怯えているのが分かる。周平は困った。今更やめようとも言えない。が、周平は信じていた。雛と、雛を認めた干吉の言葉を。

「俺がやろう」

 えっ、と雛が小さく声を上げた。

「戦場で軽い傷を縫った事はある。雛は指示を出してくれ。俺はその通りに動くから」

 言われて雛は急いで場所を空け、医術書を開いた。

 周平が意を決して子供の腹を一気に切る。雛がくぐもった声を上げたが、この方が治りは早い。

 雛が医術書と子供の体内を交互に見ながら指示を出す。指示に従い周平が腹の中を丁寧にまさぐる。やがて紫色の臓腑を切り取ると、血を拭いながら傷口を塞いでいった。時間にすれば僅かなものだったろうが、二人には長く感じた。辺りには血の臭いが充満し、赤く染まった布が散乱している。雛は治療の終わりを確認すると、慌てて外に駆け出し、嘔吐する声が聞こえた。

 周平は治療台の横に座り込んだ。子供は眠ったままだが息はしている。やれることはやった。果たしてこの子供は助かるのか、助からぬのか。無神論者の周平ではあったが、このときばかりは祈った。子供のためはもとより、その母、雛、干吉仙家の未来のためにも。 

 翌日から子供は高熱を発し、苦しめば雛が麻酔を施し落ち着かせる。そんなことが数日続き、子供は今日にも死ぬのではと思われた。だが、子供は死ななかった。集落の信者もその経過を見守った。やがて七日も経とうとした頃、子供の尻からガスが出て、助かったことを知った。

 母親は涙を流して生き神様、仙人様と雛に感謝し、集落の者も、皆が雛を崇めた。その様子を見ながら周平は思った。やはり、人は未来を信じなければいけないのだと。

 干吉が会稽から戻ったのはそれからひと月も経った頃だった。

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