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于吉仙歌  作者: 厠 達三
25/35

25話

 集落の付近で生活を始めた干吉の一行は、時が経つにつれ集落の村民と交流するようになった。それははじめ、ついてきた信者と村民の物と情報の交換から始まり、盗賊が出没していると聞けばそれを退治し、更生の余地ある者は信者として迎え入れた。また、集落では病に倒れた者が大勢いたため、それの治療も干吉は行った。治療と言っても、殆どが栄養不足と不衛生から来るものだったので、暫く宿営地で大人しくしていれば多くの者が回復した。とはいえ、病気の子供を抱えた母親などは干吉を救い主と敬い、集落では干吉を迎え入れる運動まで起こった。

 それよりも、周平が驚いたのは雛の活躍である。干吉の指示に従い治療の手伝いをしていたが、殆どの手順を理解しているようで、かつての干禁を思い出すほどだった。雛を短期間でここまで仕込んだ干吉の手腕もさることながら、雛の才能もまた尋常ではない。

 やがてひと月もせぬうちに長老達の方から集落に居を定めて欲しいと頼みに来た。干吉は感謝の口上を述べ、集落が一望できる小高い丘の上に教会を建設することと相成った。

 それから年が明けて建安三年。春の訪れと共に干吉の教会も完成。丘の麓には信者の居住区。丘の上の広場には干吉らの住居と、義舎という医療施設。そして中央には大きな聖堂が建てられ、いつしかその教会は干吉仙家と呼ばれるようになった。

 ところが、干吉仙家が活動拠点として機能し始めたと思った矢先、会稽から使者がやってきた。名目は干吉の身辺調査のための出頭命令だったが、当然、拒否すれば罪人として捕える意図は明白である。

「俺達の活動が軌道に乗り始めた途端にこれかよ。孫策の嫌がらせだ。先生。まともに聞くことはない」

 周平はむしろ、干吉が罪人として追われ、江東から脱出せざるを得ない状況になった方がまだ好ましいと思った。だが、干吉は冷たかった。

「いや、儂は会稽にゆく。干吉仙家の完成の報告と、改めて礼を言わねばと思っていたところだ。呼ばれて好都合だ」

 周平には干吉の真意が読めない。

「じゃあ、俺も行くよ。先生の身辺警護は俺の役目だからな」

「いや、お前がいては穏便にすむ話もすまなくなる。供は伊達にやってもらう」

 干吉にここまで冷たくされたのは初めてだった。周平は面食らい、うろたえつつ、なおも食い下がったが、すげなくされるだけであった。

「儂とお前がここを空ければ、後を誰に任せばよいのだ。皆に頼られているという自覚に欠けるのではないか? いつまでも弟子気分では困る。儂の不在を良いことに、儂に取って代わってやろうという気概をそろそろ見せて欲しいものだ」

 なぜ、干吉が突然こんな物言いをするのか、理解できない。周平が返す言葉さえ見つからず、立ちつくしていると、

「案ずることなどなにもない。儂などおらずとも、お前達は上手くやる。ここには既に儂を超える者が二人もおるではないか」

 誰のことなのか、周平には分からない。

「それはお前と雛だ」

 数日後、干吉は驢馬に乗り、伊達とその手下数名を引き連れ、会稽へと発った。万一、変事が起こった場合は甘寧を頼り、干吉を見捨てて自分達だけで江東から脱出しろと言い残して。

 干吉を見送った後、周平は隣に立つ雛に目を遣った。このあどけなさの残る、少年のような娘が干吉を凌ぐ才能の持ち主とは、俄かには信じられなかった。

 稀に見る奇才なのだと干吉は言った。

 はじめは生きていけるよう、簡単な読み書きや計算を教えていただけだった。ところが、なんでもかんでも片っ端から記憶していくので干吉も楽しくなり、自分の知識や書物の殆どを披瀝すると、それも雛は吸収したという。周平も幼い頃、干吉の教育は受けたが文字を読むことすら難儀だ。今では干吉と遜色ない医術の知識を持ち、足りないのは経験くらいらしい。

 干吉が発った後、雛は誰に言われるでもなく干吉仙家の義舎に入り、運び込まれる怪我人、病人の治療を始めた。周平も少しくらいならと、雛の手伝いをしようと思ったが甘かった。

「この薬は違う。ちゃんと確認して」

「この分量じゃ死んじゃう。考えれば分かるでしょ」

「もう周平は、患者さんを励ましてくれればいいよ」

 干吉と違い、雛は情け容赦がない。周平は心が折れそうになったが筑に慰められ、友のありがたみを痛感した。雛が干吉に代わり、江蘇の人々や、信者達の心を掴むのに、さほど時間はかからなかった。

 一方、干吉はひと月あまりで会稽に到着した。そこはさすがに日の出の勢いの孫家の本拠地らしく、都市化が進み活気に満ちている。許昌と比べても遜色はない。その会稽の大路を行きながら伊達は干吉に耳打ちした。

「おい、爺さん。アンタがどういうつもりかは知らないが、余計なことは喋るなよ。アンタが下手を打てば一体どうなるか、分からない訳じゃねえよな」

「そう怖がるな。儂はヘマなどせん。孫策など有頂天になっておるだけの若造だ。お前さんこそいらぬ騒ぎを起こしてくれるなよ」

 伊達もまた干吉の真意を計りかねた。孫策が居を構える楼閣に一行が辿り着くと、守衛に促され干吉が一人、中に案内された。その間、伊達とその手下数名は門前で待機することになった。

 干吉が衛兵に連れられ中に入ると孫権が一人、待ち構えていた。

「これは、孫策様の弟君でしたかな。みどもごときにお出迎え、痛み入ります」

 恭しく拱手する干吉に孫権は背を向けた。

「兄上はこちらだ。俺が案内してやる」

 孫権の口調からは干吉に対する敵意しか感じられない。先頭を歩く孫権が応接室の入り口に立ち、干吉を促した。干吉が入室すると長い机の向こうに孫策が座し、その両側には衛兵が並ぶ。そして脇に一人、文官らしき男が立っていた。干吉が挨拶する間、孫権も続いて衛兵と部屋に入り、入り口を塞ぐ形で背後に立つ気配を干吉は感じたが、孫策はお構いなしに笑顔で手を振った。

「おう。早速、江蘇の連中を心服させたらしいな。噂は会稽にも届いているぞ」

 噂ではなく、間者の報告であろうと干吉は心中で苦笑したが、話を合わせる。

「いえ、山中の集落にて起居を許されたに過ぎませぬ。人心を収攬するにはいましばらく必要かと」

 すると孫策の傍に例の文官らしき男が近付き、なにやら耳打ちすると、孫策がめんどくさそうに言った。

「いや、まあ、そのことも含めてな、この男がお前に話があるらしい。名は張昭。孫家の軍事、政治のご意見番だ。あまり愉快な話じゃなさそうだがな」

 紹介された張昭が無表情で会釈すれば干吉も拱手して返す。

「まずは、こちらを見ていただきましょうか」

 張昭が促すと衛兵が数巻の竹簡を干吉の前に置いた。が、

「みどもは字が読めませぬ」

 干吉の韜晦に孫策が吹き出す。張昭は構わず、

「よろしい。ならばみどもが説明しましょう。貴殿はこの地に着いてから幾度となく、どこからかの援助を受けておられるな。遡って調べれば兗州辺りからそれは定期的に続いておる様子。羨ましい限りですな。一体、その篤実な支援者は誰なのか、是非お教え頂きたい」

 干吉は竹簡の束に目を落とした。どうやら調べはすっかりついているらしい。干吉は覚悟を決めた。

「曹操です」

 干吉の狼狽を期待していた張昭は目の色を変えた。

「ほう。曹操。これは驚きましたな。曹操とは、よほど信心に対して寛容と見える。確か先般、曹操に降服した青州黄巾党も太平道でしたかな。いや、これは曹操自身が信心深いのでしょうかな」

「いえ、曹操は神も天帝も信じておりませぬ」

「結構。ならばなぜ、曹操は貴殿にここまでの援助をするのですかな」

「みどもが曹操に送り込まれた工作員だからでしょう」

 干吉がいともあっさり認めたので張昭は調子が狂ってしまった。

「な、なにを仰る。聞きましたか、孫策殿。この男、言い逃れはできぬと観念して、正体を白状しましたぞ」

 孫策は手で顔を覆い笑いを堪えている。張昭は憮然とする。背後の孫権がどのような表情かは、干吉からは窺い知れない。

「くくく。干吉とやら、お前もやるではないか。張昭がやり込められるのを初めて見た」

「笑い事ではありませんぞ。生かしておくのも、殺してしまうにも厄介な者ですが、さっさと殺した方がまだ害はあり申さぬ。ええい、衛兵。なにをしておる。早くこの間諜を引っ立てなさい」

「まあ、そう急くな。少しは間諜の言い分も聞いてやろうではないか」

 孫策が張昭を制した。今度は干吉の調子が狂ってしまった。

「先刻申し上げたとおり、みどもは埋伏の毒としてこの地に送られました。そのため、以前孫策様にお会いした折、虚偽の弁明をしたことについては謝罪します」

「まあ、仕方のないことだな。こちらにも殺気立ったのが数人いたからな。外で待たせている鼠もその理由の一つか?」

「はい。奴らはみどもの監視と工作活動の支援の任を帯びております。そういう意味では、奴らの方こそ本命といえましょう」

「では、お前の後ろにいたあの信者どもは」

「彼らは途中で集めた、ただの信者です。それと、みどもに付き従う者も半数はおります」

「こいつは驚きだ。工作員にしては随分本格的ではないか。まさか本物の信者まで連れてくるとはな」

「黄巾党で培った技術です。敵、味方の目をくらますのに、無垢な信者ほど便利な物はありませぬ」

「なるほど。やはり黄巾党か。にわか仕立ての似非教祖ではないということか」

 二人のやりとりに張昭が割って入る。

「もう、よろしいでしょう。曹操の間諜のみならず、あの張角の衣鉢を継ぐ者など捨て置けませぬ。いらぬ災いを呼び起こす前に首を撥ねるべきです」

「そう急くなと言うに。それで干吉とやら。お前もよくこんな危険な任務を受けたものだな」

「みどもは青州黄巾党を曹操に握られておりますれば、選択の余地はございませぬ」

「そうか。お前も辛い立場だな。さて、この張昭の言うとおり、孫家にとってお前はやはり危険な存在だ。処遇を誤れば厄介なことになるな」

「僭越ながら、曹操は孫策様を恐れているように思われます」

 干吉の言葉に張昭が堪らず割って入った。

「黙らっしゃい。孫策殿に弁舌の術とは、片腹痛いわ。孫策殿、もうお分かりでしょう。このような縦横の徒、話を聞くまでもありませぬ」

 だが、孫策は身を乗り出した。

「干吉。お前は曹操に会ったことがあるのか?」

「一度ですが、ございます」

「その曹操と俺を見比べて、お前はなにを感じる?」

 干吉はしばし逡巡し、

「どちらも甲乙つけ難き天下の英雄なれど、まだよく分かりません」

「まだとはどういう意味だ」

「孫策様がみどもをどう利用するのか、まだ分からぬからです」

「首を曹操の元に送り届けるまでよ」

 もう張昭の肚は決まっているらしい。が、孫策は一顧だにする様子はない。

「お前は俺に利用されたいと言うのか?」

「曹操に対する意趣返しにございます」

「江蘇を治めることはできそうか?」

「時間はかかります」

「鼠はどうするつもりだ?」

「下手に刺激せず、みどもの監視をさせておくのが肝要かと」

 孫策は顎に手を当て、暫く考え込んだが、

「よかろう。だが、俺の方からしてやれることはなにもないぞ」

「その方が好都合なのです」

 干吉は部屋を辞した。それを見届けた孫権も続いて部屋を後にした。

「……干吉に丸め込まれたようにしか見えませんぞ」

 溜息混じりに言う張昭に背を向ける形で、孫策は外の景色を眺めつつ、言った。

「間諜の正体を暴いて、すぐ殺すようでは芸がない」

 芸などという問題かと思いながら、張昭は竹簡を一巻、手にして、

「本気で曹操と一戦交えるおつもりか?」

 孫策の答えはない。

「なりませぬぞ。江東は守りに適した地。専守防衛に徹し、富国強兵を推し進め、交易と外交によって領土の安定を図りつつ、他国との均衡を保つことこそ最善なのです。これぞ百年の計というものです」

 言いながら張昭は、今まで何度この台詞を言ったかと思い直す。張昭も孫策に退室の旨を伝えたが、孫策が振り返ることはなかった。部屋を出るとそこには孫権が立っていた。

「孫策殿は、曹操と戦うおつもりなのでしょうか」

「さあな。俺には、兄上の肚など分からん」

「孫権殿は、どうお考えか」

「俺は重臣達の意見に従うだけだ」

 そう言うと孫権もその場から立ち去った。

 最近の若い者は。そう、張昭は心の中で呟きかけたが、いや、と、すぐに否定した。

 若い世代に問題があるわけではない。若者と壮年では判断基準に差があるだけだ。かくいう自分も若い頃は陶謙の士官の誘いを袖にして、投獄されたりもしたではないかと。今、孫策もまた、同じような心理状態なのだろうと思う。絶対的強者に対し、自分がどこまで食い下がれるか、試さずにはいられない。それに民衆の犠牲を強いるとしても、若者は自分の意思を優先してしまうのだろうと。では、孫権はどうか。

 張昭は嘆息した。重臣の意見に従う君主もまた考えものだ。主戦論はえてして根拠もなく、熱を帯びやすい。少数の主戦論でも、多数の和平論を押し切り戦争に突入するのは稀有なことではない。江東は長江という天然の要害に守られており、外交を駆使すれば戦わずして長期に渡り国家を維持することは充分に可能で、領土拡張のために戦を起こすなど愚の骨頂である。戦争は最悪の浪費であり、増やした領土の維持は更なる浪費を生み、国家を弱体化させるだけでなく、新たな戦争の火種となる。広すぎる国土は狭すぎる国土以上に厄介なものなのだ。それが張昭の国家観である。

 孫呉は若い国家である。孫策が破竹の勢いで江東を平定したときは張昭の磐石の拠点を得るという方針と合致していた。だが、その経験が甘美な思い出となっている者は多い。張昭は自らの理解者があまりにも少ないことを嘆かずにはいられない。

 張昭は無表情のまま外の景色に目をやる。梅の木に蕾がついている。その向こうの景色を見れば、干吉が鼠と共に大路を行く姿が見えた。

「おい、爺さん。孫策の野郎は、一体なんの用だったんだ?」

 伊達が驢馬に跨った干吉に問い質した。

「儂の思ったとおり、江蘇での布教活動の確認だ。順調にいっていると言ったら、喜んで引き続き頼むと言いおった」

「本当かよ。あんまり上手く行き過ぎると、かえって信用できねえな」

「そう訝るな。所詮孫策など、怖い物知らずの豎子に過ぎん。こうして、儂とお前さんが何事もないのがその証拠だ」

 確かにそうだとも思えるが、この先、干吉が裏切らぬという保証もない。万一に備え、保険をかけておく必要があると、伊達は思った。

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