番外編第三十九章 根本的に彼女だけが過ぎ去った場所
「何故だーー!何故、こんなことになったのだ!!」
陸上部の合宿後、『対象の相手の元に移動できる』魔術を使って、夏休みの補習授業から逃げ続けていた昂は、頭を抱えて虚を突かれたように絶叫していた。
まさに、昂の心中は穏やかではない状況だった。
視界に映るのは、見慣れた自分の部屋だ。
都市部から外れた場所に立つ一軒家。
怒り心頭の昂の母親に見張られながら、昂は心底困惑しながらも一心不乱にシャーペンを動かし続けていた。
「我は『対象の相手の元に移動できる』魔術を使って、補習授業から逃れられたはずだ。それなのに何故、我は今、母上に見張られながら、夏休みの宿題とは別に課題集をさせられているのだ。我は、綾花ちゃんと夏休みを満喫したかったというのに」
そう叫びながら、昂は隅々まで課題集を凝視する。
そこには、夏休みの宿題とは別に、補習授業をサボった昂のための課題集の山がずらりと並んでいた。
昂は課題集をめくると、不満そうに眉をひそめてみせた。
「我は、綾花ちゃんに会いたいのだ。今すぐ、会いたいのだ。…‥…‥むっ、まてよ」
そこで、昂ははたとあることに気づく。
「明日は、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦当日ではないか!母上、このようなことをしている場合ではないのだ!我は今すぐ、綾花ちゃんに会いに行かねばならぬ!」
「…‥…‥ほう、それで」
昂が不服そうに機嫌を損ねていると、唐突に昂の母親が大した問題ではないように至って真面目にそう言ってのける。
あくまでも淡々としたその声に、昂はおそるおそる声がした方を振り返った。
「…‥…‥は、母上」
「…‥…‥昂、補習授業をサボって、今まで何処に行っていたんだい。旅館、レストラン、ショッピングモールなどから請求書がたくさん届いていたけれど、まさか、また、無銭飲食とかをしてきたとは言わないだろうね」
全身から怒気を放ちながら、昂の母親は昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!我は『対象の相手の姿を変えられる』パワーアップバージョンの魔術道具を創り出すための費用に使いすぎて、一銭もお金を持ち合わせておらぬから、無銭飲食を繰り返していたわけではないぞ。我は、その、補習授業を受けたくなくて、家に帰るわけにはいかなかったから仕方なくーー」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
「夏休みは先生から頂いた夏休みの宿題と課題集、それが終わるまでは外出禁止だよ!」
「母上、あんまりではないか~!」
昂の母親が確定事項として淡々と告げると、昂が悲愴な表情で訴えかけるように昂の母親を見る。
そのタイミングで、昂の母親が軽く言った。
「…‥…‥と、言いたいんだけどね」
「むっ?」
「舞波くん」
昂が怪訝そうに首を傾げていると、不意に背後から綾花の声が聞こえた。
声がした方向に振り向くと、拓也達とともに昂の部屋に入ってきた綾花が、昂の姿を見とめて何気なく手を振っている。
ランチバックを握りしめて、昂の元へと慌てて駆けよってきた綾花は、少し不安そうにはにかんでみせた。
「突然、お邪魔してごめんね。舞波くんのお母さんから、舞波くんには直前まで内緒のかたちで、明日の大会のための作戦会議は、舞波くんの家でおこなってほしいって頼まれたの」
「おおっ…‥…‥」
その言葉を聞いた瞬間、昂が溢れそうな涙を必死に堪え、昂の母親の顔を見上げる。
「昂、ちゃんと夏休みの宿題と課題集もするんだよ」
「もちろんだ、母上」
きっぱりと告げられた昂の母親の言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
机から颯爽と立ち上がった昂は、おそるおそる人差し指を、綾花がランチバックから取り出した黄色のお弁当袋に向けて差し示すとぽつりぽつりとつぶやいた。
「あ、綾花ちゃん…‥…‥、そ、それはま、ま、まさかーー」
「…‥…‥う、うん。お母さんと一緒に、生クリーム入りのオムレットを作ってきたの」
昂の問いかけに、綾花は持っているお弁当袋に視線を向けると、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「綾花ちゃんのオムレットだと!」
綾花の何気ない言葉に、昂は両拳を握りしめて歓喜の声を上げた。
「ならば、そのオムレットとやらは、我が全てもらうべきだ!」
露骨な昂の挑発に、拓也は軽く肩をすくめてみせる。
「勝手に決めるな!」
「勝手ではない。すでにこれは、我によって定められた確定事項だ」
いつもの傲岸不遜な昂の言葉に、拓也はむっと顔を曇らせる。
ことあるごとにぶつかる二人に対して、元樹が軽い調子で声をかけてきた。
「オムレット、すげえ美味しいよな。俺も、綾のオムレット、食ってみたいな」
「あのな、元樹」
あっけらかんとした元樹の言葉に、拓也が不満そうに顔をしかめてみせる。
すると、綾花はランチバックを床に置くと両手を広げ、生き生きとした表情でこう言ってきた。
「後で、みんなで食べよう」
「…‥…‥あ、ああ」
拓也が少し不満そうに渋々といった様子で頷くと、綾花は嬉しそうに顔を輝かせる。
その後ろでは、昂の母親が戸惑いながらも、穏やかな表情で綾花達を見守っていたのだった。
「うむ、我は満足だ!」
あっという間にオムレットを平らげてしまった昂を、 拓也と元樹は唖然とした表情で見遣る。
「ご、ごめんね。舞波くん、いつもこうなの」
綾花は拓也と元樹を交互に見遣ると、顔を真っ赤にしながらおろおろとした態度で謝罪した。
「勝手に、綾花のオムレットを独り占めするな!」
「はあっ…‥…‥。舞波って、ホントに変なことばかり考えるよな」
あっさりとオムレットを奪われて非難の眼差しを向ける拓也と、やれやれと呆れたようにぼやく元樹の言葉にもさして気にした様子もなく、昂は興奮気味に話を促した。
「さあ、綾花ちゃん!早速、作戦会議を始めようではないか!」
「…‥…‥うん。でも、どんな対策を立てたらいいのかな?」
不安そうな綾花の疑問に答えるように、昂が人差し指を立てて言った。
「決まっているではないか!先日、綾花ちゃんに授けた『対象の相手の姿を変えられる』パワーアップバージョンの魔術を使えば、黒峯蓮馬を出し抜くことができるのだ!我は、綾花ちゃんと麻白ちゃんの姿の綾花ちゃんの分身体に会えて、晴れて黒峯蓮馬も出し抜くことができる。まさに、一石二鳥だ」
「…‥…‥どこがだ」
間一髪入れず、この作戦の利点を語って聞かせた昂に、拓也は苛立たしげに顔をしかめる。
「相変わらず、取って付けたような強引なやり方だな」
「我なりのやり方だ」
呆れた大胆さに嘆息する元樹に、昂は大げさに肩をすくめてみせた。
「だけど、効果は一時間だけだろう。それに、黒峯玄の父親も、綾を麻白にするために、何らかの手を打ってくるかもしれない。他に、何か作戦の当てはあるのか?」
「…‥…‥むっ。そ、それらは全て、我の魔術を使えばどうとでもーー」
「なら、決まりだな。『対象の相手の姿を変えられる』パワーアップバージョンの魔術は、綾のーー上岡の雅山への憑依が解けたすぐ後に使おう」
言い淀む昂の台詞を遮って、元樹が先回りするようにさらりとした口調で言った。
その、まるで当たり前のように飛び出した意外な発言に、さしもの昂も微かに目を見開き、ぐっと言葉に詰まらせた。
しかし、直後に鳴ったインターホンの音に、昂は切り替えるように意識を傾ける。
昂の母親の代わりに、部屋のドアを開けて、インターホンがある部屋へと向かうと、昂は怪訝そうに問いかけた。
「むっ?誰なのだ?」
「昂くん、麻白に会わせてほしい」
インターホンから、玄の父親と思われる男性の声が聞こえてきた。
玄の父親のその言葉は、否応もなく、昂の全身を総毛立たせる。
「く、黒峯蓮馬、何の用なのだ?麻白ちゃんには、明日、会えるであろう!」
「明日の大会のことで、麻白に話しておきたいことがある」
「貴様、また、そう言って、琴音ちゃんに記憶操作を施すつもりではないのか!そもそも、貴様、どうやって我の家を突き止めた!」
玄の父親の言葉を打ち消すように、昂はきっぱりとそう言い放った。
玄の父親は目を伏せると、静かにこう告げる。
「舞波とは、何度も友人がらみの付き合いがある。それに、同じ職場の者の家を知っていても、おかしくはないはずだが」
「…‥…‥むっ。我には分からぬ」
予想もしていなかった衝撃的な言葉に、昂は絶句する。
玄の父親が発したその言葉は、進以外に友人のいなかった昂にとって、到底受け入れがたきものであった。
「と、とにかく、麻白ちゃんには会わせられないのだ!明日、出直してくるべきだーー!!」
昂はそう言い放つと、牽制するように、何故か持ってきていた課題集をフリスビーのようにして、インターホンに向かって放り投げた。
だが、キッチンから慌てて駆けつけた昂の母親が課題集を受け止めたことによって、大惨事になる前に事なきを得る。
「…‥…‥昂」
「わ、我は悪くない!ただ、黒峯蓮馬に、麻白ちゃんを会わせまいとしていたまでだ!」
「それなら何故、課題集をインターホンに投げつけようとしていたんだい?」
昂のたどたどしい言い訳に、昂の母親は全身から怒気を放ちながら、昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を横に振る。
だが、昂と昂の母親のいつものやり取りは、インターホンから唐突に発せられた玄の父親の声によって、あっさりと遮られた。
「昂くん、麻白に会わせてほしい」
「ーーむっ」
「…‥…‥く、黒峯さん」
付け加えられた言葉に込められた感情に、昂と昂の母親は戦慄した。
当然だ。
麻白と会わせるかどうかについては、既に結論が出ている。
会わせられない。
昂は先程、そうはっきりと告げたはずだ。
「インターホン越しでも構わない。麻白に会わせてほしい」
「麻白ちゃんには、会わせられないのだ!」
「麻白に会わせてほしい」
予測できていた昂の即答には気を払わず、玄の父親は同じ問いを再び、口にする。
語尾を上げた問いかけのかたちであるはずなのに、玄の父親は答えを求めていない。
いや、答えは求めているのだ。
ーー麻白に会わせる。
その決まりきった答えだけを。
若干逃げ腰になりながらも、昂は焦ったように言う。
「き、貴様、話を聞いてーー」
「父さん」
「ま、ま、ま、麻白ちゃん!!」
背後から唐突に聞こえてきた声に、昂はその場で飛び上がりそうになるほど驚いてしまった。
「ーーっ」
不意に、インターホン越しから、誰よりも待ち望んでいた声が聞こえてきて、玄の父親も思わず、目を見開いてしまう。
いつからいたのか、インターホンがある部屋の前で、赤みがかかった髪の少女ーー麻白の姿をした綾花が、黄色のお弁当袋を持ったまま、どこか寂しげな様子で昂達を見つめている。
その隣には、拓也と元樹がお互い心配そうにーーそして戸惑いながらも、真剣な表情で綾花を見守っていた。
「あたし、玄と大輝と一緒に、明日の大会で絶対に優勝できるように頑張るよ」
インターホンにゆっくりと歩み寄ってきた綾花に対して、玄の父親はその場にはいないというのに、ふと手を伸ばしそうになった。
その袖をつまんで、自分の方へと引き寄せたくなった。
だけど、代わりに玄の父親の口からこぼれ落ちたのは、たった一つの言葉だった。
一度、口にしてしまえば取り返しのつかない、たった一つの言葉。
「…‥…‥麻白」
玄の父親のその言葉に、満足げな笑みを浮かべた綾花は、赤みがかかった髪をかきあげ、瞳に得意気な色をにじませて言い放った。
「だから、父さん、心配しないで。あたしは彼女の中で生きているから。ちゃんと生き続けているから」
「…‥…‥麻白。麻白が望む未来をーー私達が望む未来を必ず、私は手にしてみせる。誰にも邪魔はさせない。例え、それが麻白の友人だったとしても」
最後の言葉をことさら強調した玄の父親に、綾花はーーそして、拓也達は明確に表情を波立たせる。
どうしようもなく不安を煽る玄の父親の言葉に、綾花達は焦りと焦燥感を抑えることができずにいた。
玄の父親はそれだけを告げると、一緒に来ていた執事達とともに、足早に昂の家を後にしたのだった。




