番外編第三十八章 根本的に四人分生きるということ
陸上部による、元樹の彼女お披露目会の後ーー。
急いで旅館の物置小屋に立ち寄った際、魔術の効果が解け、無事に一人に戻った綾花は、拓也達に振り返ると一呼吸置いて言った。
「たっくん、元樹くん、舞波くん、ありがとう!」
「ああ」
拓也が頷くと、綾花は嬉しそうに顔を輝かせた。
その不意打ちのような日だまりの笑顔に、元樹は思わず見入ってしまい、慌てて目をそらす。
「あ、ああ」
「元樹、今日はこれで帰るけれど、今回、交際を認めたのは、『麻白の姿をした綾花の分身体』であって、『綾花自身』は俺の彼女だからな」
ごまかすように人差し指で頬を撫でる元樹に、拓也は険しい表情で腕を組むと、むしろ静かな口調でそう言った。
念を押すようにそう告げる拓也に、元樹は軽く肩をすくめると手のひらを返したように続ける。
「分かった、分かった」
白々しく軽い口調で言う元樹に、拓也は呆れたようにため息をついた。
「さあ、陸上部の見学は終わったぞ。舞波、おまえにはもう一度、学校に戻って補習授業を受けてもらう!」
少し間を置いた後、居住まいを正して真剣な表情で口を開いた拓也に、昂は腕を組むとこの上なく不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「我が、そのような戯れ言を聞くとでも思っているのか!」
「おい!」
居丈高な態度で大口を叩く昂に、拓也は低くうめくように言う。
綾花は人差し指を立てると、きょとんとした表情で首を傾げてみせた。
「ねえ、たっくんは、舞波くんに聞きたいことがあるんだよね?」
「我に聞きたいことだと?」
綾花の言葉に、昂の顔が強張った。
拓也は綾花を背に、昂と対峙するように立つとはっきりと告げる。
「おまえはお披露目会の時、すぐに綾花の前にも、麻白の姿をした綾花の分身体の前にも姿を現さなかったな?」
「確かに姿を現さなかったが、それがどうかしたのか?」
あっけらかんとした口調でそう答えてみせた昂に、拓也は立て続けに言葉を連ねた。
「なら、何故、姿を現さなかったんだ?おまえの目的は、元樹の彼女お披露目会を邪魔することだったんだろう?」
「何故、だと?」
探りを入れるような拓也の言葉に、口に出しながら昂の思考は急速展開する。
そこで昂は何故、拓也がこんなことを言い出してきたのか事情を察知した。
思い至ると同時に、昂はまるで自嘲するようにせせら笑った。
「なるほど、先程のお披露目会で、我がすぐに姿を現さなかったことに疑念を抱いているのだな?」
「ああ」
拓也は、昂の言葉に力強く頷いてみせた。
『対象の相手の姿を変えられる』魔術のパワーアップバージョン。
綾花と意識を共有させた状態で、麻白を実体化させることができる魔術。
まさに、舞波の理想を実現するために産み出されたその魔術は、すでに元樹の彼女を実体化するための魔術へと早変わりしていた。
それなのに、あの舞波が、お披露目会の最後まで姿を現さなかったということに、拓也は訝しんでいた。
拓也の疑問に答えるように、昂はわざとらしく考え込み、その後、淡々とした調子で説明を始めた。
「勘違いするな。念のために言っておくが、わざと姿を現さなかったわけではないぞ。ただ、広間に行く前に、我は食堂で腹ごしらえをしていたからな!もちろん、我の学校の陸上部の負担増しでな!」
「「…‥…‥おい!」」
疑惑と抗議の視線を送る拓也と元樹に、昂は腰に手を当てると得意げに言う。
「本来なら、我の魔術を使って今回の件を何とかしてやりたかったのだが、『綾花ちゃんの分身体』というもう一人の綾花ちゃんが、どこまで影響を及ぼせるのか確かめておきたかったからな」
「…‥…‥はあっ~。綾と麻白の姿をした綾の分身体が別々に存在できているなんて、すげえ魔術だよな」
「我の産み出した魔術だからな」
昂が至極真面目な表情でそう言ってのけると、元樹は思わず呆気に取られてしまう。
「綾花ちゃん、今日は楽しかったのだ。オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦では、是非とも我の偉大なる魔術を使ってほしい」
「舞波、まだ、話は終わっていないだろう!」
「おい、待てよ!」
拓也と元樹の抗議を黙殺して、昂はそれだけを告げると踵を返し、『姿を消す魔術』を使って、その場から姿を消したのだった。
「拓也、綾、今日は来てくれてありがとうな。そして、今日から『麻白の姿をした綾の分身体』との交際、改めてよろしくな」
「ううっ…‥…‥」
元樹の意味深な言葉に、綾花は照れくさそうに視線をうつむかせると指先をごにょごにょと重ね合わせてほのかに頬を赤らめてみせる。
拓也は不服そうに顔をしかめてみせると、先程と同じ言葉を口にした。
「元樹、今回、交際を認めたのは、『麻白の姿をした綾花の分身体』であって、『綾花自身』は俺の彼女だからな」
「ああ。ありがとうな、拓也」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる拓也に、元樹は屈託なく笑った。
ふと拓也の脳裏に、赤みのかかった髪の少女ーー先程の麻白の姿をした綾花の分身体の姿がよぎる。
綾花が四人分生きるということーー。
それは、綾花が四人分の人生を生きるということにも繋がる。
そして、それは綾花が、俺とは別に、他の誰かと結ばれてしまう可能性を示していた。
少なくとも、雅山、そして麻白の二人は、俺とは違う相手を選ぶことになるだろう。
正直言って、綾花が俺以外の相手と結ばれてしまうことは嫌だった。
だが、俺がどんなにそう願っても、雅山の、そして麻白の想いを無視することはできないだろう。
拓也は頭を抱えると、もはや全てを諦めたように息をつく。
「…‥…‥な、なあ、綾花。そろそろ時間も遅いし、帰らないか?」
「…‥…‥う、うん」
あわてふためいたように拓也の元に歩み寄った綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て、元樹は少し名残惜しそうにーーそして羨ましそうな表情をして言う。
「はあ~。俺はしばらく、合宿だからな…‥…‥」
腕を頭の後ろに組んで旅館の壁にもたれかかっていた元樹の瞳が、拓也の隣で嬉しそうにはにかんでいる綾花へと向けられた。
「なあ、綾。合宿が終わったら、また、麻白の姿をした綾の分身体と会わせてくれよな」
「…‥…‥えっ?」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、元樹の顔を見つめたまま、瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
綾花以上に動揺したのは拓也だ。
何気ない口調で言う元樹の言葉に、拓也は頭を抱えたくなった。
「おーい、元樹!部長が早く戻ってこいってさ!」
とその時、陸上部の生徒の一人が手を振って元樹に呼びかけた。
「ああ!それじゃあ、また、合宿が終わったら会おうな!」
拓也が何かを言う前に、元樹は陸上部の仲間のもとに駆け寄るとそのまま広間へと向かっていく。その姿からは、先程の言葉などないがしろにされているようだった。
無意識に表情を険しくした拓也に、綾花は幾分、真剣な表情で声をかけた。
「ごめんね、たっくん」
「何がだ?」
旅館の通路で鞄を握りしめていた綾花が、隣に立つ拓也の言葉でさらに縮こまる。
綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「麻白の姿をした私の分身体が、元樹くんと付き合うことになってしまってごめんね」
「…‥…‥綾花」
聞いた瞬間、思わず心臓が跳ねるのを拓也は感じた。知らず知らずのうちに、拳を強く握りしめてしまう。
沈痛な表情を浮かべて何かを我慢するように俯いている綾花に、拓也は一瞬、先程のことを忘れて思わず、ふっと息を抜くように笑う。
「気にするな。先程も言ったが、あくまでも『綾花自身』は俺の彼女だからな。それになにより、大好きな綾花のーー」
ためだ、そこまで言う前に。
突然、綾花は今にも泣き出してしまいそうな表情で、拓也に勢いよく抱きついてきた。
反射的に抱きとめた拓也は、思わず目を白黒させる。
「…‥…‥綾花?」
いつもどおりの花咲くようなーーだけど、少し泣き出してしまいそうな笑みを浮かべる綾花に戸惑いとほんの少しの安堵感を感じながら、拓也は訊いた。
いろんな意味で混乱する拓也の耳元で、綾花は躊躇うようにそっとささやいた。
「ううっ…‥…‥、たっくん、ありがとう」
ぽつりぽつりと紡がれる綾花の言葉に、拓也の顔が目に見えて強ばった。綾花の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「わ、私もね、たっくん、大好きだよ」
「…‥…‥ああ」
泣きじゃくる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
綾花が泣きやむまで頭を撫で続けていた拓也は、不意に綾花から視線を外して自分に言い聞かせるような声で言う。
「四人分、生きることになっても、綾花は綾花のままだな」
「えっ?」
拓也の言葉に、綾花は顔を上げるときょとんとした顔で首を傾げた。
「なんでもない」
そう言い捨てると、震える小さな背中に回した手に、拓也はそっと力を込める。
「こんな調子じゃ、俺、元樹に、そして雅山の彼氏に、何度もヤキモチを妬いてしまいそうだ」
そう言うと、拓也は愛しそうに綾花を抱きしめたまま、自嘲するように笑ったのだった。




