第九章 根本的に日常茶飯事になりつつある出来事
今回の話は進の家に行く話です。
「…‥…‥ううっ」
綾花は困り果てたように、進の家の前で立ち往生していた。インターホンを押そうと恐る恐る手を伸ばすのだが、すぐに思い止まったように手を引っ込めてしまう。
「…‥…‥父さんと母さん、びっくりするよね」
それを何度か繰り返した後、綾花がぽつりとそう言った。決して泣いてはいなかったが、代わりにその表情は乾いていた。
乾ききった微笑を浮かべ、綾花は続けた。
「きっと、父さんも母さんも、今の私にーーううん、俺に会っても混乱するだけだろうし」
口振りを変えた綾花は俯き、一度、言葉を切った。
だけど、すぐに顔を上げると、綾花は苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「今の俺が進だって、そんな馬鹿げたこと、誰が信じるかよ」
「…‥…‥綾花」
「失踪の件といい、ホント、俺、両親に迷惑ばかりかけているよな」
綾花は遠い目をして、今来たばかりの道を振り返った。
そんな綾花を、拓也は何とも言えない顔で見つめていた。
言葉が見つからない。
そんなことはない、すべては舞波が目論んだことではないか、と口で否定することは簡単だったが、あの光景をーー喫茶店での綾花の進としての振る舞いを目の当たりにしてしまった今では、間違ってもそんな台詞は言えなかった。
嫌だった。
綾花が進としてーー上岡として振る舞うのが嫌だった。
上岡の家に行って、彼の両親に全てを打ち明ける。そう決めた今でも、それは拓也の心にしこりとして残っていた。
喫茶店の時のように、今すぐにでも強引に綾花を元に戻したい。
だけど、今の綾花は根本的に綾花の中にある上岡の心が出てきているだけであって、上岡は綾花の心の一部に過ぎない。
分かっている。
だけど、やはり嫌だった。
でも、結局は何もできない。
拓也は己の無力さを噛みしめた。
「なあ、綾花」
拓也が声をかけたことによってようやく綾花はこちらを振り向いたが、やはり綾花としての反応はなく、そのまま無言で拓也を見つめている。
拓也は深呼吸をするように深く大きなため息を吐くと、綾花にこう告げた。
「まだ、上岡として振る舞う必要はないだろう?」
「ーーそ、そうかな」
拓也がそう言った瞬間、綾花の表情がいつもの柔らかな表情に戻る。
そんな綾花の手を取ると、拓也は淡々としかし、はっきりと告げた。
「ほら、学校の時みたいに、綾花が迷子にならないように俺が連れていってやるから」
「…‥…‥も、もう迷ったりしないもの」
綾花の硬い声に微妙に拗ねたような色が混じっている気がして、拓也は思わず苦笑してしまう。
その暖かな手のぬくもりを感じながら、拓也は綾花の代わりにインターホンを押した。
「はい」
インターホンから、進の母親と思われる女性の声が聞こえてきた。拓也が簡単に要件を伝えると玄関のドアが開かれ、中から一人の女性が拓也達を出迎えた。
「あっ…‥…‥」
久しぶりに見た母親の姿に、綾花は思わず少し感極まってしまう。
だが、母親にはいつもの気丈な姿は見受けられなかった。悄然とした顔で、目の下には疲れの色がくっきり浮き出ている。
「初めまして、上岡と同じ高校の井上拓也といいます」
「せ、瀬生綾花です」
拓也がそう切り出して頭を下げると、綾花もそれに倣ってぎこちなくだが、一礼する。
拓也は顔を上げると、神妙な面持ちでこう言葉を続けた。
「実は上岡のことについて、お話したいことがあり、お伺いさせて頂きました」
「…‥…‥進のこと?」
進の母親はそうつぶやくと、怪訝そうな顔で拓也と綾花を交互に見比べた。
「はあ…‥…‥」
全ての事情ーー綾花に進が憑依しているということも含めてーーを聞き終えた上で、進の母親は顎に手を当ててため息をついた。
拓也と綾花が、進の母親に導かれて通されたのはリビングだった。
長方形のテーブルには、人数分のポットとティーカップが置かれてある。
「やっぱり、昂くんの仕業だったのね」
物憂げに嘆息する彼女の瞳が、拓也の隣で居心地悪そうに座っている綾花へと向けられた。
「それにしても、本当にあなたが進なの?悪いけれど、とても信じられないわね」
その言葉を聞いた途端、綾花は座っていた椅子から反射的に立ち上がると浮き足立ったように言い募った。
「本当なんだ、母さん!」
「えっ!?」
突然、話し方が変わった綾花の豹変ぶりに、進の母親は思わずうろたえる。
綾花は顔を俯かせると辛そうな顔をして言った。
「…‥…‥ごめん、母さん。驚かせて…‥…‥。でも、本当に俺は進なんだ」
「…‥…‥本当に、本当に、あなたは進なの」
切羽詰まったような綾花の態度に感じるものがあったのだろう。
思い詰めた表情をして言う綾花に、進の母親は真実を見たような気がして、椅子から立ち上がると綾花の肩に手を置いた。
「井上」
綾花は進の母親の言葉に頷くと、不意に拓也の方を振り向き、彼の名を呼んだ。
突然、綾花から名字呼びされて、拓也の方は思わず面食らってしまう。
綾花がてらいもなく言った。
「一緒に来てくれてありがとうな」
「いや…‥…‥」
拓也はそう答えたが、言葉に不信と戸惑いの色を隠せなかった。
別におまえのためじゃない、と拓也はそう言葉を投げかけようとして思い止まった。
その言葉は上岡だけではなく、綾花を傷つけることにもなる。
なにしろ、今の綾花は上岡であり、そして綾花なのだからーー。
代わりに、拓也はこう言った。
「綾花のためだ」
「ーーうん。ありがとう、たっくん」
拓也の心情を察したのか、拓也に話しかける綾花の表情は先程までのかたくなな進の表情とはうって変わって、いつもの柔らかな綾花のそれへと戻っていた。
「…‥…‥」
そんな中、あまりにも衝撃的な展開を見せられて、進の母親は二の句を告げなくなってしまっていた。
綾花の肩から手を離すと取り乱したように、進の母親はそのままリビングから出て行ってしまう。
「…‥…‥母さん」
「綾花、きっと大丈夫だ」
進の母親が出て行った先をじっと不安げな表情で見つめる綾花に、何の根拠もなく、拓也はそう答えた。
そう、根拠なんか何もなかった。
上岡の両親は、綾花のことを拒むかもしれない。
その杞憂は当然、拓也にもあった。
だが、それでも今、目の前にいる綾花はーー綾花と、そして上岡だった。
拓也の脳裏で、かっての喫茶店での昂の声が反芻される。
ーー進を綾花ちゃんに憑依させた 。
あの時はあまりにも残酷な現実に、拓也は胸を締めつけられそうになったのを覚えている。
上岡の両親も、自分と同じように悲しみにくれて心を痛めるかもしれない。
その杞憂だけは、どうしても拭いきれなかった。
しばらく経った後、進の母親がリビングに戻ってきた。リビングに戻ってくるなり、物言いたげな瞳で進の母親は綾花のことを見つめてくる。
「あなたは進なのね」
再度、確認するかのように重ねて尋ねてくる進の母親に、綾花だけではなく拓也も頷いてみせた。
こちらに背を向けたまま、進の母親は腕を組んで考え込む仕草をする。
しばしの間、沈黙が続いた。
あくまでも真剣な表情でこちらを見つめてくる綾花に、進の母親は無言でその綾花の視線を受け止めていた。
そんな時間がどれほど続いたことだろうか。
進の母親がふっと息を吐き出した。そして引き締めていた口元を少し緩めると、さもありなんといった表情で言った。
「…‥…‥到底すぐには信じられない話だけど、あなた達の話が嘘だとは思えない。昂くんには前科があるものね」
「綾花、前科って?」
拓也が綾花に聞き返すと、綾花は少しだけ表情を曇らせた。
「前に昂ーーじゃなくて舞波くんの魔術で、小さくされたことがあったの。あの時はすぐに戻れたんだけど」
「な、なんだ、それは?」
拓也は綾花から昂の魔術の話を聞くと、頭を抱えてうめいた。
「舞波のやつ、『対象の相手の元に移動できる』という魔術といい、ろくでもない魔術ばかり使えるんだな」
拓也が呆れたようにため息をつく。
そんな二人のやり取りに、さらに困惑した表情を深めて、進の母親は額に手を当てた。
「はあ…‥…‥。信じられないけれど、先程までのあなたは確かに進だと私は感じたし、それに私達と舞波さん達しか知らないはずの事実を知っている」
驚き半分、納得半分の声で、進の母親が続ける。
「あなたは本当に進なのね」
進の母親が言った。それは仮定の形をとった断定だった。
「母さん、信じてくれるの?」
と、綾花は恐る恐る問いかけた。
「ここまできたら、信じないわけないでしょう」
率直にそう告げると、進の母親は綾花を優しく抱きしめる。
胸の中で目を見開いた綾花は、進の母親の強い言葉に泣きそうに顔を歪めて力なくうなだれた。
拓也はそんな二人の様子を見て安堵の息をつくと同時に、ふとあることに気づいた。
上岡の家に行くことを断固拒否していた舞波は今頃、どうしているのだろうか?
あいつのことだから、上岡の家に行くことを了承してもなにがしらの邪魔をしてくるものとばかり思っていたが、逆に逃げる算段でもしているのか?
こうした時の昂の周到な段取り、手回しの良さを充分、思い知らされていた拓也だったが、それと同時に間の抜けた昂の行動も理不尽ながら知り得ていたのだった。
「我は悪くない!ただ、綾花ちゃんがいつまで経っても我に振り向かないから、仕方なくやったまでだ!」
「…‥…‥ほう、それで」
全身から怒気を放ちながら、昂の母親は昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
一方、その頃、綾花に進として振る舞ってもらえることを条件に、進の家に行くことをしぶしぶ了承していた昂はいまだ、自身の家の中にいた。
魔術書を全て隠し終え、いざ身を潜めようとした矢先に両親に見つかり、今回の件を執拗に問いただされていたという。
そして、一心不乱の平謝りとしばらくのーーほとんど無期限に近い魔術の謹慎処分の結果、何とか進の家から絶縁されることだけは免れたのだった。