番外編第三十六章 根本的に彼らの譲れない想い
旅館の食堂を出て、拓也達が向かった先は合宿先の裏にある小さな物置小屋だった。
旅館の陰で目立たず、陽が当たらない暗所だ。
恐らく、旅館の従業員以外は用事がない限り、まず近づくことはない。
「おのれ…‥…‥井上拓也、そして、布施元樹め!」
そんな物置小屋の床に伏せると、昂は悔しそうにうなり声を上げていた。
この日、昂が意図したとおりに、綾花に新たな魔術を使わせることを承諾させた。
その点では、昂の目論見はほぼ成功したと言えるかもしれない。
しかし、である。
ひとつだけ、昂が見誤っていたことがあった。
それは、拓也と元樹が新たな魔術の披露に立ち会うことになってしまった、ということだった。
必然的に、昂の両親、そして、1年C組の担任にも、昂が内緒で陸上部の合宿先に来ていることが知れ渡ることとなり、先程、旅館の電話越しから怒り心頭の昂の母親と1年C組の担任にたっぷりと絞られてしまったのだ。
何故、我がこのような目に遭わねばならぬのだ。
しみじみと感慨深く昂が物思いに耽っていると、不意に綾花が少し真剣な顔で声をかけてきた。
「舞波くんーーいや、昂、大丈夫だったか?」
「あ、綾花ちゃん」
途中で口振りを変えた、あくまでも進らしい綾花の励ましの言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
そのやり取りを、拓也と元樹は物置小屋の入口にて、互いに複雑な表情を浮かべながら見守っていた。
「元樹、この後、午後からの練習があったんだろう。途中で抜け出してきて大丈夫だったのか?」
「仕方ないだろう!今日は綾のことが気になって、部活どころじゃなかったんだよ!それに、部長と交渉して、条件付きで、今日の午後からの合宿の練習を休ませてもらったからな」
「条件付き?」
忌々しさを隠さずにつぶやいた元樹の言葉に、拓也は驚きをそのまま口にする。
元樹は綾花に声をかけようかかけまいか迷うように何度か長く息を吐いた後、ようやく重い口を開いた。
「綾、ちょっといいか?今回、部長達と交渉したことなんだけど、大切な話があるんだ」
「うん?」
綾花が不思議そうに小首を傾げると、元樹は肺に息を吸い込んだ。
ためらいも恐れも感じてしまう前に、元樹は声と一緒にそれを吐き出した。
「実は、今日、俺の彼女が来るっていうことを、陸上部のみんなに知られてしまってさ。午後からの陸上部の練習を休ませる代わりに、部長や他の陸上部の先輩達から、俺の彼女を陸上部のみんなの前で紹介してほしいって言われてしまったんだよな」
「…‥…‥っ」
「ーーなっ」
「むっ!」
元樹の思わぬ告白に、綾花が輪をかけて動揺し、拓也と昂は目を見開いて狼狽する。
元樹はつかつかと綾花のもとに歩み寄ると、拓也と昂に咎められる前にするりと綾花の手を取った。
「俺は綾が好きだ。例え、綾に上岡が憑依しても、麻白の心が宿っていても、そして、拓也のことが好きだったとしても、この気持ちは変わらない」
「でも、俺は…‥…‥」
元樹の懇願する姿に、綾花はどうしようもない気持ちになって言葉を吐き出した。
そんな綾花に、元樹は意を決したようにこう続けた。
「綾、頼む。一緒に来てくれないか?」
元樹がそう言った瞬間、綾花の表情がいつもの柔らかなーーでも、泣き出しそうな表情に戻る。
「ーーううっ、…‥…‥ご、ごめんね、元樹くん。私は、たっくんのことが大好きだから…‥…‥」
「それでも、綾に来てほしいんだ」
「…‥…‥ふわわっ、元樹くん」
滑らかな頬を淡く染め、たまらず悲しげにうつむいた綾花を、元樹は愛おしそうにそっと抱き寄せた。
「なっーー」
そして、拓也が咎めるより先に、元樹は綾花の唇に自分の唇を重ねる。
矢継ぎ早の展開。それも唐突すぎる流れに、綾花は一瞬で顔が桜色に染まってしまう。
「おい、元樹!」
「おのれ~!我の偉大なる魔術の披露を差し置いて、綾花ちゃんに口づけをしてのけるとは不届き千万な輩だ!」
「絶対に負けないからな」
苛立たしそうに叫んだ拓也と昂に、元樹ははっきりとそう告げると背後の綾花へと向き直る。
「なあ、綾。今回の魔術を使って、麻白の姿をした、もう一人の綾を実体化させてみてくれないか?」
「…‥…‥えっ?魔術で?」
意外な提案に、綾花は顔を上げて目をぱちくりと瞬いてみせた。
元樹は軽く息を吐いて言う。
「ああ。今日から、黒峯麻白の姿をしたもう一人の綾は、俺の彼女っていうことにする」
「ううっ…‥…‥」
「なっ!」
元樹が客観的方法を提案してきた事実よりも、その方法を提案してきたということに、綾花はーーそして隣で二人の会話を聞いていた拓也は衝撃を受ける。
「なにぃーー!!」
だが、それを上回る勢いで、元樹のその何気ない言葉を聞いていた昂は大言壮語に不服そうに声を荒らげた。
「貴様、綾花ちゃんとあかりちゃん、そして、麻白ちゃんは我の婚約者ではないか!」
「…‥…‥おまえが勝手に決めた婚約者だろう」
昂が低くうめくように言うと、元樹は緊張感に欠けた声で告げる。
「勝手ではない。すでにこれは、我によって定められた確定事項だ」
「…‥…‥二人とも、綾花は俺の彼女だ。勝手に決めるな」
露骨な昂の挑発に、拓也は険しい表情で腕を組むと、むしろ静かな口調でそう言った。
「むっ、綾花ちゃんとあかりちゃん、そして、麻白ちゃんは我の婚約者だと言って何が悪いのだ」
昂は面白くなさそうに顔をしかめると、つまらなそうに言ってのける。
拓也はきっと厳しい表情で昂を見遣ると、きっぱりと告げた。
「綾花は俺の彼女だと言っているだろう!」
「否、我の婚約者だ!」
慣れた小言を聞き流す体で、昂は拓也に人差し指を突きつけると勝ち誇ったように言い切った。
「はあっ…‥…‥。元樹も、頼むから変なこと言うな」
言葉の応酬が途切れ、拓也の矛先が元樹へと向く。
拓也が呆れたような声で言うと、元樹はこともなげに言う。
「まあ、いいじゃんか!麻白は大輝と幼なじみだが、別に付き合ってはいないはずだからな。なあ、いいだろう?綾」
元樹の最後の言葉は、綾花に向けられたものだった。
「頼む!」
「…‥…‥う、ううっ」
幾分真剣な顔の元樹と困り顔の綾花が、しばらく視線を合わせる。
先に折れたのは綾花の方だった。
身じろぎもせず、じっと綾花を見つめ続ける元樹に、切羽詰まったような表情で、綾花が拓也に視線を向けてくる。
そんな綾花を見て、拓也は重く息をつくと肩を落とした。
おそらく、今回、昂の新たな魔術の披露を認めたのは、綾花が拓也のことを気にして元樹と一緒に来てくれないことを防ぐためだったのだろう。
「…‥…‥分かった。だけど、本物の綾花ではなくて、実体化したもう一人の綾花だからな」
「ありがとうな、拓也」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる拓也に、元樹は屈託なく笑ってみせた。
実体化した、もう一人の綾花。
それは、麻白の姿をした綾花の分身体ということになってしまうが、それでも構わないと元樹は思った。
どちらも、綾には変わりないのだからーー。
「な、なんなのだ! この展開は! 」
しかし、そんな中、昂はそう叫びながら、浮き足立ったように激怒する。
何故なら、綾花との期待に満ち溢れた日々を手に入れるために産み出された、昂の偉大なる魔術は、すでに元樹の彼女を実体化するための魔術へと早変わりしていたからだ。
挙げ句の果てには、今回の魔術で生じる不具合についてのことまでを、拓也と元樹は昂そっちのけで話し合っている。
「ううっ…‥…‥」
「我は断じて、そのようなことは認めないのだーー!!」
恥ずかしそうに赤らんだ頬にそっと指先を寄せる綾花を尻目に、昂は頭を抱えて虚を突かれたように絶叫していたのだった。
舞波の新たな魔術を使って、麻白の姿をした、もう一人の綾を実体化させる。
そして、その分身体の方を、自分の彼女ということにさせてほしい。
元樹が拓也達に提案したのは、あくまでもなりふり構わない直接的な手段だった。
しかし、それは想像していた以上に難解で困難極まりないことなのだと、拓也は痛感させられていた。
なにしろ、今回の魔術は、綾花と実体化させた、もう一人の麻白の姿をした綾花が意識を共有することになる。
それはつまり、本物の綾花と分身体は、どちらも綾花であり、上岡でもあるという、心を融合させた同一人物が二人存在しているということになってしまうのだ。
進として振る舞っている綾花が早速、新たな魔術を使って、麻白の姿をした分身体を実体化させた後、拓也はそれを嫌というほど実感することになった。
「「やっぱり、これってまずいよな」」
「ああ。綾と麻白が、完全に同じ言動で話しているのは、さすがにまずいだろうな」
綾花と麻白の姿をした綾花の分身体が、同時に同じ動作で困ったような表情を浮かべながら一息に言い切ると、元樹は鋭く目を細めた。
「はあ~。それにしても、肝心の舞波はどこに行ったんだ?」
拓也は周囲を窺うようにしてから、呆れたようにため息をつく。
昂とあの後、どうしても納得いかなかったのか、突然、『対象の相手の元に移動できる』魔術を使って、拓也達の前から姿を消してしまっていた。
「「昂、どこに行ったんだろうな?」」
「不吉だな」
戸惑うような綾花と麻白の姿をした綾花の分身体の言葉に、拓也は緊張で顔を引き締めた。
舞波のことだ。
もしかすると、陸上部のみんなに、元樹が彼女を紹介する時に、綾花と雅山、そして、麻白の三人との婚約発表をお披露目するという、ろくでもないことを考えているのかもしれない。
悶々と苦悩していると、そんな不安さえ拓也の頭をもたげてくる。
「…‥…‥なあ、綾」
拓也が顎に手を当てて、昂の行き先を思案し始めたのと同時に、ふと思い出したように元樹は綾花と麻白の姿をした綾花の分身体の方を振り返った。
ふわりと翻るサイドテールの黒髪の少女と、赤みがかかった髪の少女。
いつもの綾花によく似た顔が、不思議そうな表情で小首を傾げる。
「そろそろ、陸上部のみんなが午後の練習を終えて、旅館の広間に集まっている頃だと思うんだよな。一緒に来てくれないか?」
「なっーー」
意表を突かれて、拓也は思わず隣の元樹に視線を向ける。
「あのな、元樹。一緒に行くのは、分身体の方だろう。それに、肝心の舞波の姿が見当たらない。もしかしたら、俺達の邪魔をしてくるかもしれない」
有無を言わさず、にんまりとした笑みを浮かべてきた元樹の姿に、拓也は苦々しく眉を寄せた。
「心配するなよ、拓也。もちろん、綾の分身体である麻白と一緒に行くつもりだからな。それに、あの舞波のことだ。すでに、旅館の広間で、俺達を待ち構えている可能性が高いだろう 」
「…‥…‥まあ、確かに、あいつのことだからその可能性はあるな。綾花、行ってみるか」
「「ああ、ありがとうな、井上、布施」」
いつもの二人のやり取りに、綾花と麻白の姿をした綾花の分身体は思わず、日だまりのような笑顔で笑った。
そうして笑っている姿は、いつもの綾花そっくりで妙な感慨がわいてしまう。
複雑な心境を抱く拓也とは裏腹に、綾花と麻白の姿をした綾花の分身体は、ひとしきり笑い終えると真剣な眼差しでこう言った。
「「井上、布施、試しに綾花に戻ってみてもいいか?」」
「なっ、この状態で戻れるのか?」
「「多分、大丈夫だと思うけどーー」」
拓也の言葉に綾花と麻白の姿をした綾花の分身体がそう答えた途端、綾花と麻白の姿をした綾花の分身体の表情は先程までの進の表情とはうって変わって、いつもの柔らかな綾花のそれへと戻っていた。
「へえー、魔術を使った後なら問題はないんだな」
「「うん、大丈夫みたい」」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、綾花と麻白の姿をした綾花の分身体はいつものようにほんわかと笑ってみせたのだった。
『対象の相手の姿を変えられる』魔術のパワーアップバージョン。
綾花と意識を共有させた状態で、麻白を実体化させることができる魔術。
この言葉の意味を、俺達はこの時、もっと真剣に考えるべきだったかもしれない。
なにしろその魔術は、これからの俺達の人生を大きく左右してしまうほどの影響力を及ぼしてきたのだからーー。




