番外編第三十四章 根本的にいつかの彼女達が笑えるように
「あなた!」
夜遅くにオートロックが解除して、マンションに戻ってきた玄の父親を見るなり、玄の母親は調度を蹴散らすようにして玄の父親の傍に走り寄った。
「あなた、おかえりなさい」
「ああ」
「麻白は?」
玄の母親は不安そうにきょろきょろと辺りを見回すが、玄の父親以外に誰もいないことに気づくとほんの少しだけ表情に寂しさを滲ませた。
そんな玄の母親の様子を見て、玄の父親が深刻な面持ちで言う。
「麻白のことで、少し話しておきたいことがある。玄はリビングにいるのか?」
「ええ」
玄の母親がそう答えると、玄の父親は玄の母親とともリビングに入る。そして、自身の家族に事の成り行きを説明し始めた。
「…‥…‥玄、すまない。私はどうしても麻白に戻ってきてほしかったんだ」
「…‥…‥父さん」
リビングのソファーに座っていた玄は、玄の父親に何か言葉を返そうとして、でもすぐには返せなかった。
玄の父親は玄から顔を背けて、沈痛な面持ちで続けた。
「だが、麻白がずっと生き返ってはいられないということ、そして、彼らに会いたがっていることは分かった。先程、彼らとは和解してきた。今後、彼らとは麻白のことで、もう一度、話し合うつもりだ」
「父さん、ありがとう」
その矛盾した事実、真実のような嘘を紡ぐ玄の父親に、ソファーから立ち上がった玄は嬉しそうに微かに笑みを浮かべる。
玄の父親は説明を終えると、一人、口元を押さえ、今にも泣き出しそうに悲愴な表情を浮かべている玄の母親と向き合った。
「あ、あなた、麻白とはまた、会えるの?」
「…‥…‥ああ、大丈夫だ」
玄の母親は玄の父親に視線を向けると、悲しげにぽつりとつぶやいた。
玄の父親は、そんな彼女を自身のもとへとそっと抱き寄せる。
「…‥…‥予定どおりだ」
喜びに満ちあふれる家族をよそに、外見どおりの透徹した空気をまとった玄の父親は、冷たい声でそうつぶやく。
「後は、麻白がここに戻ってくるように仕向ければいい。どのような手段を用いても」
玄の父親は、どうしようもなく期待に満ちた表情で、ただ事実だけを口にした。
「はあ…‥…‥」
特急列車を乗り継ぎ、再び、車を走らせた後、自分の家に戻ってきた拓也は、綾花から送られてきたメールに添付されていた画像を見ながらため息をついていた。
無邪気に笑いながら、ペンギンのぬいぐるみを掲げて喜んでいる幼き日の綾花の姿。
両手で掲げたペンギンのぬいぐるみが、とてもいじらしいと思った。
そして、その隣に写っていたのは、一見、どこにでもいるような普通の少年だ。
ペンギンのぬいぐるみを抱えた綾花の隣で、同じ年頃の少年ーー幼い頃の進が明るい顔で右手を振っている。
その後ろでは、車椅子に乗った、海のように明るく輝く瞳をした少女ーーあかりと、赤みがかかった髪の少女ーー麻白がきょとんとした顔で綾花達のことを見つめていた。
写真は、昂の魔術を使っての合成写真だろうか。
何故か、幼い頃の綾花と進、そして、あかりと麻白が一緒にいるというあり得ない光景が写っていた。
綾花から送られてきたメールに添付されていた画像をぼんやりと見つめていた拓也の脳裏に、今日のドームの大会で起こった出来事が蘇る。
恐らく、これからも同じようなことが起こるだろう。
綾花が四人分生きるということーー。
それは、綾花が四人分の人生を生きるということにも繋がる。
綾花はーーそして上岡は、いつだって自分の運命に翻弄されながらも、他人のことばかり考えている。
それはどこまでも危うく、とてつもなく優しいーー。
綾花と上岡、そして雅山と麻白。
近くて遠い、背中合わせの四人。
誰よりも近いのに、お互いが自分自身でもあるため、触れ合うこともできなければ、言葉を交わすことも許されない者達もいる。
だけどーー。
会えなくても、言葉を交わせなくても、四人は繋がっている。
心を通してなら、想いを伝えられるし、悲しみや苦しみも半分こにすることができる。
手を伸ばせなくても、お互いがお互いの涙を拭えると信じているのだろう。
「俺はーー俺達は、何があっても、綾花を護ってみせる」
拓也は携帯を握りしめると、あくまでも真剣な表情で頷いた。
寝静まったような静寂の世界で、綾花と上岡が一度、時間が止まってしまった少女達の想いを紡ごうとしているのなら、俺達がすることは決まっている。
この世界で、最も大切な幼なじみの彼女に誓うーー。
いまだ、直接、会ったことがない彼女に誓うーー。
この世界のどこにもいない彼と彼女に誓うーー。
俺はーー俺達は何があっても、綾花を護ってみせる。
拓也は部屋の窓を開けると、薄暗くなった空で見えなくなった太陽に向かって、どこまでも手を伸ばしたのだった。
「みんな、席につけ!ホームルームを始めるぞ!」
「「はーい」」
翌日の終業式の後のホームルーム。
1年C組の担任が来てクラス全体を見渡すようにしてそう告げると、談笑していた生徒達はしぶしぶ自分の席へと引き上げていった。
「それと舞波、おまえは明日の夏休みから補習をおこなうから、そのつもりでな!」
「我は納得いかぬ!」
あくまでも事実として突きつけられた1年C組の担任の言葉に、昂は両拳を振り上げて憤慨した。
「何故、この我が補習などを受けねばならんのだ!」
「無断欠席、深夜徘徊、中間、期末試験での度重なる単位不足。そして、この間の校舎裏でのボヤ騒ぎ。舞波、おまえは再び、留年をしたいのか?」
昂の抗議に、1年C組の担任は不愉快そうに言葉を返した。
1年C組の担任の剣幕に怯みながらも、昂はなおも言葉を連ねようとする。
「舞波くん、大丈夫かな?」
そんな中、2年B組の担任の先生の連絡事項に耳を傾けながらも、突如、上の階の一学年の教室から聞こえてきた喧騒に、綾花は不安そうに天井を見遣るとぽつりとつぶやいた。
「あいつのことだから、今回もうまいこと立ち回っているだろう」
左隣の席に座る拓也が、そんな綾花の問いかけに顔を歪めて答えた。
「…‥…‥うん、そうだよね。こういう時、舞波くんはいつも無類の力を発揮するもの」
「…‥…‥だから、困るんだ」
ほんわかな笑みを浮かべて思い出したように言う綾花をよそに、拓也は上の一学年の教室がある天井に視線を向けながら、苦々しい顔で吐き捨てるように言った。
綾花に上岡が憑依するという奇妙な出来事があってから、俺と綾花、そして、元樹と舞波との関係もだいぶ変わった気がする。
もしかしたら、綾花に上岡が憑依しなければ、俺達がこんなふうに綾花を護るために協力し合ったりすることもなかったのかもしれない。
そう思うと、少し不思議な感じがして、拓也は思わず苦笑してしまう。
先生の話が終わり、日直の号令に合わせて挨拶を済ませると、クラスの生徒達は次々と帰宅して行く。
そんな中、元樹は鞄とサイドバックを握りしめて綾花の机の前まで行くと、ぽつりとこうつぶやいた。
「…‥…‥あのさ、綾。本当は、夏休み前に誘おうと思っていたことなんだけどさ」
「えっ?」
話をそらすように神妙な表情で言う元樹に、綾花は目をぱちくりと瞬いた。
視線をうろつかせる綾花に、元樹は意図的に笑顔を浮かべて言う。
「実は夏休みも、春休みの時と同じ場所で、陸上部の合宿があるんだよな。せっかくだし、綾達も合宿を見に来ないか?」
有無を言わさず、にんまりとした笑みを浮かべてくる元樹の姿に、拓也は苦々しく眉を寄せる。
「あのな、元樹」
「まあ、いいじゃんか。ここ最近、いろいろとあったから、旅行感覚で気晴らしに行くのも手だろう。今回は、一般生徒も合宿内を見学してもいいことになっているし、星原達も合宿の見学に来ることになっているからな。なあ、いいだろう?綾」
元樹の最後の言葉は、綾花に向けられたものだった。
「頼む!」
「…‥…‥う、ううっ」
幾分真剣な顔の元樹と困り顔の綾花が、しばらく視線を合わせる。
先に折れたのは綾花の方だった。
身じろぎもせず、じっと綾花を見つめ続ける元樹に、切羽詰まったような表情で、綾花が拓也に視線を向けてくる。
そんな綾花を見て、拓也は半ば諦めたように重く息をつくと肩を落とした。
「…‥…‥分かった」
「ありがとうな、拓也」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる拓也に、元樹は屈託なく笑ってみせたのだった。
しかし、陸上部の練習中。
何気なく、日差しを遮って、陸上部の部室に戻った元樹は、そこで陸上部の練習を見に来ていた綾花達から、意外なお願いを聞かされて驚いていた。
もちろん、夏休みの合宿の誘いを断られたわけではない。
断られたわけではないのだがーー
「兄貴とオンライン対戦?」
「うん。春斗くん達が、布施先輩とオンライン対戦をしたいみたいなの」
率直に告げられた言葉に、元樹は意外なことでも聞かされたかのように額に手を当てて瞬きを繰り返す。
「ああ。先程、綾花のーー上岡の雅山への憑依が解けたんだが、何でもその時にお願いされたみたいなんだ」
両手をぎゅっと握りしめていた綾花が、隣に立っている拓也の言葉でさらに縮こまる。
綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「第三回公式トーナメント大会のチーム戦の前に一度、布施先輩とオンライン対戦をさせてほしいみたい」
「ーーっ」
元樹が顔を片手で覆い、深いため息を吐くのを見て、綾花は困ったように声をかけた。
「も、元樹くん」
「綾、それはつまり、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦までに、兄貴とオンライン対戦が出来ればいいんだよな?」
ぽつりとつぶやかれた元樹の言葉は、確認する響きを帯びていた。
そんな元樹の言葉に、綾花は幾分、真剣な表情で頷いてみせる。
「うん、お願い、元樹くん」
綾花の懇願に、元樹はしばらく考えた後、俯いていた顔を上げると、きっぱりと言った。
「…‥…‥分かった。兄貴には伝えておく」
「えっ?」
その言葉に、綾花は驚いたように目を見開いた。
元樹は綾花の両手を取ると、淡々としかし、はっきりと言葉を続ける。
「だけど、絶対に、合宿に来てくれよな。俺、その、綾が来るの、すげえ楽しみにしているからさ」
「…‥…‥うん、ありがとう、元樹くん」
元樹が念を押すように告げると、綾花は嬉しそうにぱあっと顔を輝かせた。
その不意打ちのような日だまりの笑顔に、元樹は思わず見入ってしまいーーだけど、部室に戻ってきた陸上部の同じクラスの仲間達の視線に気づいて、慌てて目をそらしたのだった。




