番外編第三十二章 根本的にあの時、感じた雨の音
「これは…‥…‥!」
「相変わらず、想像以上の包囲網だな…‥…‥」
拓也の言葉に、元樹が多少、深刻な表情でつぶやく。
ワゴン車に乗り込んでから数十分後、綾花達は人目のない駅の路地で一旦、車を止めていた。
先を進んでいくごとに現れる黒峯玄の父親の妨害から逃れるため、綾花達がひとまず、逃げ込んだ先は駅の路地裏だった。
ワゴン車が走り出した瞬間から、黒峯邸の警備員や部下、挙げ句の果てには警察官らしき人物から検問を受けてしまい、その度に昂の魔術を使って逃れたり、昂の母親が上手くごまかしたりして難を逃れてきたのだ。
拓也はそれでも人影がないか確認してから、そのまま駅がある方向へと視線を動かす。
「このままじゃ、とても、ここから特急列車になんて乗れそうもないな」
忌々しさを隠さずにつぶやいた拓也に、後ろの席に座っていた元樹が静かに告げる。
「ああ。これだけの包囲網を張られたら、俺達も何らかの手を打たないといけない。そうしないと、帰るどころじゃなくなるからな」
「はあ~、黒峯玄の父親は何故、俺達がこれから行こうとする場所が分かるんだろうな」
「…‥…‥井上、実はその、な」
拓也の率直な疑問に、綾花は鞄から携帯を取り出すと、言いにくそうに意図的に目をそらす。
そんな綾花に対して、元樹は何気ない口調で問いかけた。
「なあ、綾。もしかして、その携帯は、麻白の携帯なのか?」
「ーーなっ」
それは拓也にとって、予想しうる最悪な答えだった。
「…‥…‥それは」
「ーーその時は」
戸惑いの声を上げる綾花の台詞を遮って、元樹はきっぱりと告げた。
「綾にはーーいや、麻白には悪いけど、携帯はここに置いていく」
元樹の即座の切り返しに、綾花はぐっと悔しそうに言葉を詰まらせる。
拓也は軽く息を吐くと、沈痛な表情を浮かべて何かを我慢するように俯いている綾花の前に立った。
「綾花、ごめんな。だけど、麻白の携帯には恐らく、発信器が付けられている」
口調だけはあくまでも柔らかく言った拓也に、綾花は苦々しい顔でぽつりぽつりとつぶやく。
「…‥…‥ごめん、そうだよな。分かってはいるんだけど」
あくまでも強がりを言い続ける綾花を、拓也はなんとも言えない顔で見つめていた。
言葉が見つからない。
綾花は、上岡と心が融合しただけではなく、麻白としての心も宿っている。
そして、綾花の心の一部となった上岡は度々、雅山にも憑依していた。
拓也の脳裏に、以前ーー春休み前に告げられた綾花の言葉が蘇る。
『私、やっぱり、あかりを死なせなくない。だから、あかりとして生きようと思うの』
今の綾花は、綾花の中に宿っている麻白の心の想いが大きく出てきているだけであって、根本的には、いつもの上岡として振る舞っている綾花だ。
だけど、自分のーー麻白の携帯を手放したくない。
この望みは、麻白の望みであってーーそして、もう綾花と上岡自身の願いなのだと思う。
拓也は綾花の方へ視線だけ向けて、世間話でもするような口調で言った。
「綾花、厳しいこと、言ってごめんな。でも、やっぱり、この携帯は今までどおり、玄達に持っていてもらおうな」
拓也の説得にも、綾花は俯いたまま、何の反応も示さなかったが、拓也は構わず、先を続ける。
「この携帯は、麻白にとって大切なものなのだと思う。だけど、このまま、麻白の携帯を持っていたら、前のように、黒峯玄の父親に俺達の居場所を知られて大変なことになる」
「…‥…‥井上」
綾花は何か言葉を返そうとして、でもすぐには返せなかった。
拓也は綾花から顔を背けて、沈痛な面持ちで続けた。
「…‥…‥嫌なんだ。俺、綾花が泣くのなんて見たくない。綾花が悲しむのなんて見たくない。綾花が傷つくのは嫌なんだ」
「でも、俺は…‥…‥」
拓也の嘆き悲しむ姿に、綾花はどうしようもない気持ちになって言葉を吐き出した。
前の綾花の席まで行った元樹は、意を決したように、綾花の手をつかんで言った。
「…‥…‥俺も、きついこと言ってしまってごめんな。でも、俺も拓也と同じで綾が傷つくのを見たくない」
それにさ、と元樹は言葉を探しながら続けた。
「麻白の携帯は、玄と大輝が持っていた方がいいと思うんだ。綾に麻白の心の一部が宿っているとはいえ、この携帯は麻白の遺品だしな」
「…‥…‥っ」
元樹の強い言葉に、綾花が断ち切れそうな声でつぶやく。
そんな綾花に、元樹は屈託なく笑うと意味ありげに続けた。
「例え、麻白の携帯では連絡を取ることはできなくても、玄達に麻白の気持ちを伝える方法はいくらでもあるだろう。綾には、麻白の心が宿っているんだからさ」
「ーーううっ、ご、ごめんね、ごめんね。たっくん、元樹くん、ありがとう」
口振りを変えてそう言葉をこぼすと、綾花は滲んだ涙を必死に堪える。
泣きそうに顔を歪めて力なくうなだれた綾花の頭を、拓也は優しく撫でてやった。
「心配するな、綾花。また、玄達と会えるようにしてみせるからな」
「まあ、玄と大輝には、携帯を持って帰れなかった事情を説明した未送信メールを残しておこう」
「…‥…‥うん。ありがとう、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹の何気ない励ましの言葉に、綾花はようやく顔を上げると嬉しそうに笑ってみせる。
拓也は車を降りると、綾花から受け取った麻白の携帯を、駅の改札口の近くにいた駅員に『忘れ物』だと言って渡した。そして再び、車に乗り込んだ後、やけに静かな、今回の作戦の最大の功労者である昂を窺い見る。
「…‥…‥はあはあ、すまぬ、綾花ちゃん。我の魔術で何とかしてあげたかったのだが、ワゴン車に対して何度も『対象の相手の元に移動できる魔術』を使ったため、魔術を使う体力があまり残っておらぬのだ」
「…‥…‥おい、大丈夫なのか?」
しかし、意外にも息せき切ってバテている様子の昂に、拓也は思わず、拍子抜けしてしまう。
さすがの昂も、ワゴン車を何度も魔術で移動させるのは、肉体、精神をかなり疲労させてしまうのだろう。
「舞波くん、大丈夫?」
「…‥…‥はあはあ、苦しいのだ、綾花ちゃん」
綾花が身を乗り出して声をかけると、昂は苦しげに表情を歪める。
いかにも辛そうに胸を押さえる昂に、綾花は顔を青ざめた。
「ううっ…‥…‥、ま、舞波くん」
「…‥…‥あ、綾花ちゃん、お、お願いだ」
「お願い?」
息も絶え絶えの昂にそう告げられて、綾花は口元に手を当てて困ったようにおろおろとつぶやく。
かくして、昂は言った。
「今すぐ、我を抱きしめてほしい」
「ええっ!?」
「おい、舞波!どさくさに紛れて、綾花に抱きつこうとするな!」
「おまえ、勝手なことばかりするなよな!」
さらりと告げられた昂の衝撃発言に、綾花が輪をかけて動揺し、拓也と元樹は内心のため息とともに突き放すように言った。
そんな中、昂がざっくりと付け加えるように言う。
「うむ。我としては、綾花ちゃんに我を抱きしめてほしかったが仕方ない。いつものように、我が綾花ちゃんに抱きつくのだ!」
「ふわっ、ちょ、ちょっと、舞波くん」
それだけ言い終えると、ついでのように昂が綾花に抱きついてきた。
「おい、舞波!綾花から離れろ!」
「おまえ、バテていたんじゃなかったのかよ?」
「我は大好きな綾花ちゃんから離れぬ!そして我は、綾花ちゃんに抱きつくためなら、尽力を惜しまない!」
ぎこちない態度で拓也と元樹と昂を交互に見つめる綾花を尻目に、拓也と元樹は綾花から昂を引き離そうと必死になる。だが、昂は綾花にぎゅっとしがみついて離れようとしない。
「みんな、ちょっと」
いつまで経っても埒が明かない拓也と元樹と昂の折り合いの中、唐突に昂の母親から言葉を投げかけられて、昂は拓也達から昂の母親へと視線を向ける。
「母上、どうかしたのか?」
「声」
昂の戸惑いとは裏腹に、運転席の昂の母親が人差し指を立ててつぶやく。
「ううっ…‥…‥」
「「…‥…‥なっ」」
「…‥…‥むっ?」
昂の母親に指摘されて、綾花達はようやく、ちらちらとこちらに視線を向ける玄の父親に雇われている警備員達に気づいた。
元樹が不満そうな前の席の拓也を横目に見ながら、ため息をついて言う。
「麻白の携帯は、駅員に渡したことだし、とにかく、今はここから離脱しよう」
言うが早いが、元樹は隣の席の昂へと視線を向ける。
「むっ、仕方ない。まだ、体力は回復していないのだが、綾花ちゃんのためだ」
元樹の声に応えるように、ワゴン車に乗っている昂は魔術を使うために片手を掲げる。
「むっ!」
「ふわわっ!」
そして、咄嗟に使われた昂の魔術によって、拓也達は驚きの声を上げる綾花とともに、駅の路地裏から逃げるようにして消えていったのだった。
その衝撃の知らせは、綾花達が魔術によってワゴン車ごと逃げ出した数分後、駅に訪れた玄の父親の元にやってきた。
「麻白の携帯?」
「はい、お嬢様の携帯を、駅の係員が預かっておりました」
執事からの知らせを聞いて首を傾げた玄の父親に、執事はこくりと頷いてみせた。
執事の言葉に、心動かされるものがあったのだろうか。
幾分、表情をゆるめて、玄の父親が尋ね返す。
「そうか。麻白の行方は?」
「お嬢様が乗っているワゴン車を、この先の駅で見かけたそうです」
玄の父親は、執事から麻白の携帯を受け取ると、先程、拓也達によって奪われた愛しい娘に想いを馳せる。
この先の駅に、麻白がいるーー。
彼らから麻白を取り戻せば、また前のように、家族四人で幸せに過ごせる日々が訪れるはずだーー。
玄の父親は、愛しい家族との未来を、あれやこれやと想像する。
想像は尽きない。
だけどその答えが、麻白を取り戻せば、すぐに分かるのだ。
躊躇いも迷いもこの際、全て脱ぎ捨てて、玄の父親は一息に麻白の携帯の電源のスイッチを入れた。
スリープモードになっていたらしく、携帯の画面の中に、ゆっくりと麻白が打ったと思われる未送信メールが映し出される。
『玄、大輝、父さん、母さん。突然、いなくなってごめん。そして、あたしの携帯をここに預けてごめんなさい。だけど、たっくんと友樹が言っていたように、あたしはずっと生き返ってはいられないらしいの。でも、絶対にまた、生き返って、玄と大輝に、そして、父さんと母さんに会えるようにするから。心配かけて、本当にごめん』
「…‥…‥麻白」
そのメールの内容に一瞬、麻白があわてふためいて謝罪している様子を思い浮かべてしまい、玄の父親は思わず苦笑した。
やはり、このメールは、本当に麻白が打ったものなのだと思い知らされる。
そして、あらゆる思いをない交ぜにしながら、玄の父親は何気なくメールの続きを見た。
「ーーっ」
次の瞬間、玄の父親は目を見開き、思わず言葉を失う。
『父さん、あたしを生き返させてくれてありがとう。大好きーー』
そこまでしか打てなかったのか、麻白の未送信メールは、そこで不自然に途切れている。
「ーーっ」
不意打ちを食らった玄の父親はただうろたえるしかなくて、あまりにも唐突で想像だにしなかったメールの内容に顔が赤くなるのを押さえることができなかった。
ーー父さん、あたしを生き返させてくれてありがとう。
不意に、愛しい娘のほんわかな笑い声がこだましたような気がした。
その笑顔がーー。
絶対に忘れられない笑顔が、いつまでも玄の父親の脳裏を強く強く、焦がし尽くしていた。




