番外編第十四章 根本的にくるくる廻る作戦会議
翌日の祝日、拓也がいつもの駅ではなく、綾花の住むマンションの前で綾花を待ち構えていると、不意に小さな人影が飛び出してきた。
マンションの前だというのに、小柄な少女ーー綾花は人目もはばからず、拓也に勢いよく抱きついてくる。
「たっくん、おはよう」
「おはよう、綾花」
太陽の光に輝くサイドテールの髪を揺らして柔らかな笑みを浮かべた綾花を目にして、拓也は思わず苦笑する。
そんな綾花の手を取ると、拓也は淡々としかし、はっきりと告げた。
「綾花。昨日、大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫だよ」
不似合いに明るく、可愛らしささえ感じさせるような綾花の声に、拓也は苦り切った顔をして額に手を当てた。
「本当か?昨日は黒峯麻白として振る舞えなくて、かなり困っていたみたいだったけどな」
「…‥…‥こ、困っていないもの」
綾花の硬い声に微妙に拗ねたような色が混じっている気がして、拓也は思わず苦笑してしまう。
「…‥…‥ううっ」
ぷくっと頬を膨らませ、怒った仕草を見せる綾花に、拓也は率直に言う。
「ははっ、綾花がいつもの綾花で良かった」
「えっ?」
不思議そうに小首を傾げる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
「…‥…‥正直、不安だったんだ。綾花が上岡としてーー雅山として生きていくだけではなく、黒峯麻白としても振る舞わないといけなくなっただろう。何だか綾花が遠い存在になってしまったんじゃないかって、俺はずっと心配だったから」
「たっくん…‥…‥」
いつものほんわかとした綾花とのやり取りに、拓也は嬉しそうにひそかに口元を緩める。
いつもと変わらない他愛ない会話が、拓也には妙に心地よく感じられた。
一息置くと、拓也は吹っ切れたような表情を浮かべて言う。
「綾花、何か困ったことがあったら、いつでも駆けつけるからな」
「…‥…‥ありがとう、たっくん」
そう答えた綾花の笑顔は、陽の光にまばゆく照らされていつもより眩しく見えた。
拓也に連れられて入ったのは、以前、訪れたことがある、やたらとレトロな喫茶店だった。
木製のテーブルと椅子に、落ち着いた雰囲気を醸し出す音楽。
一目で見渡せるさっぱりとした店内には、祝日とあってか、かなりの人が入っていた。
「いらっしゃいませ。後ほどご注文を伺いに参ります」
落ち着いた口調の店員が水とメニューを置いて立ち去っていった。
四人がけのテーブル席で、拓也は目の前で堂々とした態度でメニューを手に取り、通りがかった店員を呼び止めて早速、注文をし始める昂と、拓也の隣で居心地悪そうに座っている綾花をなんともなしに交互に見つめた。
黒峯玄の父親から魔術書について、ある程度、情報を聞き出したという昂の誘いにより、拓也は綾花と元樹を連れ添って、近くの喫茶店で話をしていた。
喫茶店で話をするのもどうかと考えたが、幸い、店内は混みあっており、拓也達の話に耳を傾ける者はいなかった。
「とりあえず、俺達も頼むか」
という昂の隣窓側の元樹の気の利いた台詞も聞こえてくる。
つられて、拓也もメニューを見て注文しようとした矢先、昂が不遜な態度で綾花に話しかけてきた。
「綾花ちゃん、安心してほしい。黒峯蓮馬の魔の手から、綾花ちゃんを護る方法がついに見つかったのだ」
「護る方法?」
昂の言葉に、くるんと巻かれたサイドテールを撫でつけながら、綾花がぽつりと言う。
「うむ、前に『対象の相手の元に移動できる』魔術を少し改良して、綾花ちゃんの机に交換ノートを送ったことがあったであろう。あの要領で、綾花ちゃんが麻白ちゃんに姿を変えた後、黒峯蓮馬が麻白ちゃんの姿の綾花ちゃんに危害を加えそうになったり、また、三時間ほど経ったら、綾花ちゃんを我のもとへと呼び寄せればよい」
「…‥…‥おい」
昂があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で拓也がそう吐き捨てた。
「相変わらず、取って付けたような強引な方法だな」
「我なりのやり方だ」
呆れた大胆さに嘆息する元樹に、昂は大げさに肩をすくめてみせる。
「だけど、『対象の相手の元に移動できる』という魔術は短距離しか移動できないんだろう。それに、黒峯玄の家の近くで見張るにしても、俺達や綾のーー宮迫のことを黒峯玄の父親達に悟られたりする危険性が増すことになる」
「…‥…‥むっ。そ、それらは全て、我の魔術を使えばどうとでもなる。既に、我は綾花ちゃん達を特定できないように小細工しておいた。ただ、どうやってその場から離れるかは、まだ考え中ーー」
「なら、決まりだな。舞波のおばさんに頼んで車を出してもらおう」
言い淀む昂の台詞を遮って、元樹が先回りするようにさらりとした口調で言った。
その、まるで当たり前のように飛び出した意外な発言に、さしもの昂も微かに目を見開き、ぐっと言葉に詰まらせた。
だが、次の思いもよらない元樹の言葉によって、昂とーーそして拓也はさらに不意を打たれ、驚きで目を瞬くことになる。
あっけらかんとした表情を浮かべた昂に対して、元樹は至って真面目にこう言ってのけたのだ。
「昨日、舞波のおばさんに会いに行った時に、今回のことに対して魔術を使用することと、黒峯玄の家の近くまでの同行を承諾してもらった。レンタカーのワゴン車なら荷物を置く余裕があるし、それにすぐにその場から離れられるからな」
「なるほど。我の母上の運転さばきとやらを買ったのだな」
元樹の言葉に、昂は得心したように頷きながら言った。
綾花が黒峯麻白として振る舞うことから綾花を護るための逃走手段、という極大まで広がった問題に、拓也は絶句してしまう。
「頭が痛くなってくる…‥…‥」
あまりにも突拍子がない話に、拓也が思わず頭を抱えた、その時ーー。
「お待たせ致しました」
店員が注文の品を運んできた。
中断された話とテーブルに並べられる料理。
「ごゆっくりどうぞ」
注文した料理が並べられたのを確認し、一礼した後、店員は定例の対応でその場から立ち去っていった。
「おおっー!きたな!早速、頂くとしよう!」
「あー…‥…‥とりあえず、俺達も何か頼むか?」
追い打ちをかけるかのように拳を突き上げてそう叫ぶ昂に、拓也は脱力して言う。
「…‥…‥うん」
拓也のその言葉に、顔をうつむかせていた綾花が小さく頷いた。
「うむ、美味いな」
昂は料理を口に運ぶとなんとも幸せそうな表情を浮かべた。そして、いきなりとんでもないことを拓也達に告げた。
「ちなみに我は今、一銭もお金を持っていないぞ」
「…‥…‥おまえ、いつも持ってきていないだろう」
「ああ」
にまにまと意地の悪い笑みを浮かべてくる昂に、拓也と元樹は不愉快そうに牽制するように睨んでみせる。
明らかにおごってもらう気満々の昂に、綾花は呆れたようにため息をつくのだった。
「うむ、我は満足だ!」
あっという間に頼んだ料理を平らげてしまった昂を、 拓也と元樹は唖然とした表情で見やる。
「ご、ごめんね。舞波くん、いつもこうなの」
綾花は拓也と元樹と視線を合わせると、顔を真っ赤にしながらおろおろとした態度で謝罪する。
しかし、昂はじっとメニューを見遣ると、決意を込めた声でこうつぶやいた。
「あとは、デザートを食べねばな」
そう言ってメニューを置くと、ちゃっかり、すっかりぬるくなってしまった水にまで口をつける昂に、綾花は苦笑して先程、頼んでいたアールグレイの紅茶を口に含む。
「で、魔術書の方はどうなったんだ?」
綾花と同じように頼んでいたロイヤルミルクティーを飲んで喉を湿すと、拓也は口火を切った。
「結論から言うと、黒峯蓮馬自身も魔術書のことは分からぬ」
だが、拓也の問いかけに、あっさりと昂はそう吐き捨てた。
「ーーおまえ」
「早とちりするな。言っておくが、嘘を言っているわけではないぞ。ただ、魔術書は、黒峯蓮馬の実家に保管されていたもので、誰一人、どのようなものなのかは分かっておらぬようだ。それに保管されていた魔術書は全て、我の父上に売ってしまっている」
強い口調で言い放つ拓也に対して、昂は冷めた声でそう告げた。
「なっ!?」
「…‥…‥まあ、少なくとも、これで黒峯蓮馬達が、我のように魔術を使うことができないのは確実だがな」
その言葉に拓也が絶句する中、水の入ったコップを置いた昂が誰にも聞こえないような声で付け加えるようにぼそっと呟く。
「収穫なし、か」
そんな昂の言葉を聞き留めて、元樹は先程、頼んでいたエスプレッソを口につけると朗らかに言った。
呑気な茶会から一転、張りつめたような静寂に空間が支配される。
だが、その重苦しい沈黙を押し返したのは、やはり彼だった。
「…‥…‥しかし、今や本当に綾花ちゃんが進であり、あかりちゃんなのだな?しかも、これから綾花ちゃんバージョンの麻白ちゃんも見れるとあって、まさに我の努力が功を奏したようだぞ」
自分の手柄というようににやつきながら、昂が綾花達に言ってきたのだ。
綾花はそれを聞くと顔を上げて、不満そうに口を尖らせた。
「もう、誰のせいで、こうなったって思っているのよ!」
「ほとんど、おまえのせいだろう!」
「…‥…‥白々しいにもほどがあるな」
苛立ちを隠さず、声をそろえてそう言い放った綾花と拓也、そして遅れて不満そうにぼやいた元樹を前にしても、昂はめげなかった。
「そんなことより、我は即急に、フルーツロールケーキセットをお願いしたいのだ!」
昂は気にすることもなく、通りがかった店員を呼び止めてデザートの注文をし始める。
「はい、かしこまりました」
「ううっ…‥…‥、舞波くん、まだ食べるの?」
定例の対応で下がる店員をよそに、綾花が一人、戸惑ったように目を瞬かせた。
いつもどおりの綾花と昂のやり取りにやれやれと首を振った後、拓也と元樹は何とも言い難い渋い顔をしたのだった。
こうして、三週間前から波瀾の予感を醸しつつ、綾花が黒峯麻白として黒峯玄の家に行く日は着々と近づいていたのであった。




