番外編第十三章 根本的にどれだけの夜を越えても
「しかし、どうやって、あと三週間で、綾花が黒峯麻白として振る舞うことができるかだな」
拓也が静かにそう告げて、陸上部の部活後、拓也の家に訪れた綾花達を見渡した。
昂と元樹と、拓也の日常を引っかき回した彼らがそろいもそろって神妙な顔で座っている。
綾花をめぐっての奇妙な四角関係の彼らが、そろって拓也の部屋にいるのはどこか異質な感じがした。
だが、そうならざるを得ない出来事が、この短い期間に立て続けに起こっていた。
「そのことなんだが」
拓也の疑問を受けて、感情を抑えた声で、元樹は淡々と続ける。
「黒峯麻白は、今回の事故の後遺症で、記憶に一部、欠落があることにするつもりだ」
「つまり、記憶喪失っていうことか?」
呆気に取られた拓也にそう言われても、元樹は気にすることもなくあっさりとした表情で言葉を続けた。
「ああ。 家族とチームメイトである浅野大輝のこと以外は記憶がないことにする。部分的に記憶がないということにしておけば、本来の黒峯麻白とはかけ離れた行動をとっても、何とかごまかすことができるよな」
「なるほどな」
苦々しい表情で、拓也は隣に座っている綾花の方を見遣る。
確かに、綾花が記憶喪失の黒峯麻白として振る舞えば、黒峯玄の家で少し不自然な行動を取ったとしても、記憶が欠落しているからいつもと違う行動を取るのだと割り切ることができるだろう。
元樹の言葉に、綾花は人差し指を立てるときょとんとした表情で首を傾げてみせる。
「ねえ、たっくん、元樹くん。なら、麻白の姿の時の私は記憶喪失を装ったらいいのかな?」
「ああ」
綾花の当然の疑問に、拓也はきっぱりと頷いてみせた。
「それなら、不自然には思われないだろうし、それにーー」
「うむ!綾花ちゃん、そのようなまどろこしい方法より、我の魔術を全面的に頼るべきだ!」
舞波の魔術を使って、さらにややこしくなるのを避けたいからーー。
そう告げる前に先じんで言葉が飛んできて、拓也は口にしかけた言葉を呑み込む。
首を一度横に振ると、代わりに拓也は不満そうに昂に言った。
「何故、そうなる?」
「あと三週間で、綾花ちゃんが麻白ちゃんとして振る舞える方法など、我の魔術を使うほかあるまい!なにしろ、相手はあの黒峯蓮馬なのだからな」
「記憶喪失でも問題ないだろう!」
昂の断言に、自分に言い聞かせるような声で拓也は言い返した。
「むっ!魔術の方が確実だと告げておるではないか!我の素晴らしい頭脳をフル稼働して試行錯誤した結果、綾花ちゃんが麻白ちゃんとして振る舞うためには、我の魔術を使うのがもっとも最適だという結論が出たのだ!」
「だからそれは単に、綾花が記憶喪失の『黒峯麻白』として振る舞うことでも解決できるだろう!」
あくまでも強気に出る昂に、拓也も退かなかった。
そんな拓也達に対して、元樹は何気ない口調で問いかけた。
「舞波、確かにおまえの言ったとおり、黒峯玄の父親は一筋縄ではいかない相手だ。だからこそ、おまえの魔術で綾を護る必要があるんじゃないのか?」
「なっ」
「むっ?」
それは拓也と昂にとって、全く予想だにしていなかった言葉だった。
今の今まで、記憶喪失として振る舞うのか、魔術を使うのか、と拓也と昂は意見をぶつけあっていたはずだ。
それが一体、どうしてそういう話になったのか?
全く理解できなかった拓也は、率直に元樹に聞いた。
「はあ?元樹、どういうことだ?」
だが、元樹はそんな拓也の言葉にまるで頓着せずに、携帯を取り出すとオンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第二回公式トーナメント大会のチーム戦、優勝チーム『ラグナロック』のことをネット上で検索してみせる。
元樹は拓也達の方へ視線だけ向けて、世間話でもするような口調で言った。
「恐らく、黒峯玄の父親はありとあらゆる手段を用いて、黒峯麻白の姿をした綾を自身のもとに留めようとしてくるだろう。まさに、俺達の思いもよらない方法でな」
「うむ、確かにな」
元樹の言葉に、昂は納得したように頷いてみせる。
呆気に取られている拓也に目配りしてみせると、元樹はさらに続けた。
「だからこそ、舞波、おまえには黒峯玄の父親から黒峯麻白と魔術書の情報を聞き出した後、俺達の情報が漏れるのを防ぐのと同時に、綾を黒峯玄の父親から徹底的に護ってほしい。それこそ、おまえの魔術がさらなる真価を発揮するくらいにな」
「なるほどな。ついに貴様にも、我の魔術の素晴らしさが分かったというわけだな」
真剣な眼差しで視線を床に降ろしながら懇願してきた元樹に、昂は腕を組むとこの上なく不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「よかろう!我が必ず、綾花ちゃんを黒峯蓮馬の魔の手から護ってみせるのだ!」
「ありがとうな、舞波。俺達も、綾が記憶喪失の黒峯麻白として振る舞えるようにいろいろと試行錯誤してみるな」
昂の自信に満ちた言葉に対して屈託なく笑う元樹に、拓也は訝しげに眉をひそめる。
「おい、元樹。どうする気だ?」
「黒峯玄の父親がこれ以上、情報操作などの撹乱を起こさないように、舞波に見張ってもらおうと思う」
「舞波に?」
予想外の元樹の言葉に、拓也は少し意表を突かれる。
元樹はつかつかと近寄ってきて、拓也の隣に座ると、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で言った。
「下手をしたら、黒峯玄の父親の策略で、綾はずっと『黒峯麻白』として振る舞い続けないといけなくなるかもしれない」
「…‥…‥そういうことか」
苦々しい表情で、拓也は綾花の方を見遣る。
目下、一番重要になるのは、黒峯玄の父親の行動だ。
黒峯玄の父親の目的は、綾花に黒峯麻白の姿になってもらうことだ。
綾花を『黒峯麻白』として振る舞わせることを発端として、このまま、綾花を自分のもとに留めておくつもりかもしれない。
それだけは、何としても防がなければならない。
だが、相手はあの魔術書の持ち主だ。
魔術に詳しい舞波でなくては、予想外の行動を取られてしまう可能性があるだろう。
「おのれ~!たかだか、電話の分際でここまで我を翻弄しようとは!」
「ふわわっ、舞波くん、携帯はそうやって使うんじゃないの!」
そんな彼らの様子など露知らず、昂はすでに黒峯蓮馬を出し抜く方法を模索してひたすら頭を抱えて悩み始めていた。
昂の母親から借りた携帯の使い方が全く分からず、ところ構わず当たり散らす昂に、綾花が少し困り顔でたしなめているのを見ながら、拓也と元樹は二者二様で呆れ果てたようにため息をつくのだった。
綾花の住むマンションは最寄りの駅から少し歩いた先にある。
「ううっ…‥…‥」
翌日の夜、自分の部屋で、妙に感情を込めて唸る綾花の姿があった。
いつものサイドテールは解かれており、姿見の前で鏡に手を当てて悩ましげに首を傾げている。
寝る前なのか、綾花はフリルのネグリジェを着ていた。
「あと三週間で、私、記憶喪失の麻白として黒峯くんの家に行くんだよね」
それを何度か繰り返した後、綾花がぽつりとそう言った。
元樹と昂が早速、翌日から黒峯麻白の情報を集めている中、綾花は拓也と一緒に、今日から『黒峯麻白』として振る舞えるように特訓することになった。
綾花としては、自分が黒峯麻白として振る舞うことで、少しでも玄の家族が元気になればいいなと思っている。
しかし、初日はなかなか上手く振る舞うことが出来ず、綾花が黒峯麻白の姿になっていられる四時間はあっさりと終わりを迎えてしまったのだ。
「ううっ~」
頭を悩ませるように、綾花はベットに寝転ぶと枕元に置いているペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「ペンギンさん、きっと大丈夫だよね」
独り言のようにぽつりとつぶやくと、綾花は立ち上がり、ペンギンのぬいぐるみを抱きかかえたまま、どこか切なげな表情で窓の外を眺めていた。
そうしてようやく、何度目かの躊躇いの後、綾花はペンギンのぬいぐるみをベットの上に置くと、姿見の前で大きく深呼吸する。そして、昂から送られてきた『黒峯麻白』に関する情報ーー書類の束の一枚を見ながら再度、復唱した。
「父さん、母さん、玄、お久しぶり~。…‥…‥ってなんか、麻白とは違う感じだよね」
小さな呟きは、誰にも聞こえない。
ほんの少しの焦燥感を抱えたまま、綾花は遠い目をする。
あと三週間で、黒峯麻白の姿で玄の家に行くとあって、綾花は若干、緊張感をみなぎらせていた。
早速、黒峯麻白の情報を聞き出してきた昂からの書類と、元樹がネット上で集めてくれた麻白の動画をもとに、麻白として振る舞ってみたのだが、どうもしっくりこない。
部分的に記憶の欠落があるとはいえ、さすがにこれではすぐにバレてしまうだろう。
そう思い至ってーーだがすぐに、綾花は幾分、真剣な表情で、さも重要そうにこう言い足した。
「そうだ。進としてなら、上手く振る舞えるかもしれない。絶対に私ーーいや、俺はやり遂げてみせる」
両拳を握りしめて口振りを変えた綾花は俯き、一度、言葉を切った。
だけど、すぐに顔を上げると、綾花は書類を見ながら苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「と、父さん、母さん、げ、玄ーーって、ああっ!…‥…‥もう、なんて言えばいいんだよ!」
勢いよくそう叫ぶと、綾花は乱れた髪を整えながら不服そうに唇を噛みしめる。
結局、綾花でも進でも上手く麻白として振る舞うことが出来ず、綾花は困ったように頭を悩ませる。
家族とチームメイトに関する記憶はあるように振る舞わないといけないのに、どうしても上手くいかない。
このままの状態で、玄の家族に信じてーーいや、受け入れてもらえるだろうか?
記憶喪失の黒峯麻白として、玄の家族や知り合いに会う。
そう決めた今でも、それは綾花のーーそして進の心にしこりとして残っていた。
会いたいーーだが、怖い。
二律背反にさいなまれ、綾花が困ったようにため息を吐いた時、ちょうどノックの音が響いた。
「綾花、まだ起きているの?」
しばらくして部屋のドアが開けられると、綾花の母親が穏やかな声で綾花に話しかけてきた。
「ああ」
「…‥…‥綾花」
進として振る舞った状態で、綾花がそう答えるのを見つめていた綾花の母親のその声は、驚いたような嬉しいような、でもどこか受け入れられないような、複雑な感情が入り交じっていた。
そのことに気がついた綾花は、顔を俯かせると辛そうな顔をして言った。
「…‥…‥ごめん、お母さん。驚かせてしまって…‥…‥」
切羽詰まったような綾花の態度に感じるものがあったのだろう。
思い詰めた表情をして言う綾花に、綾花の母親は決まり悪そうに顔を俯かせると、ぽつりぽつりと語り始めた。
「…‥…‥ううん、私こそ、いつまでもなかなか慣れなくてごめんね。綾花が上岡くんとして振る舞っている時は、どうしても上岡くんという意識が強くて、綾花と何を話したらいいのか分からなくなるの」
「あ、ああ」
綾花の母親の言葉に、綾花は気まずそうに意図的に目をそらす。
そんな綾花に対して、綾花の母親は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「あのね、綾花。拓也くんが話してくれた黒峯麻白さんのことで相談したいことがあるのだけど」
「…‥…‥それは」
「少し、書類や動画を整理してみたらどうかしら?」
戸惑いの声を上げる綾花の台詞を遮って、綾花の母親はきっぱりと告げた。
「それに、上岡さん達とも相談したのだけど、今の状態で行き詰まるのなら、発想を少し変えて、綾花なりの黒峯麻白さんにしてみたらどうかなと思うの」
「…‥…‥っ」
綾花の母親の即座の切り返しに、綾花は思わず、目を丸くし、驚きの表情を浮かべてしまう。
垂直思考ではなく、水平思考への転換。
それは、無理に黒峯麻白として振る舞うのではなく、自分なりの黒峯麻白として振る舞っていく。
綾花の母親のその妙案に、綾花は思わず、頬を緩ませてしまう。
この方法を使えば、無理せずとも自分なりの麻白は生き返させることができるかもしれない。
「…‥…‥思考方法そのものの転換か」
綾花が静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始めると、綾花の母親は言いづらそうにおずおずと言葉を続けた。
「綾花、あまり無理はしないでね」
「ありがとうな」
綾花の母親の何気ない励ましの言葉に、綾花は嬉しそうに笑ってみせたのだった。




