番外編第八章 根本的に彼女は彼らの妹になる
「ねえ、昂お兄ちゃん 」
あかりの姿をした綾花は、昂の部屋の壁際に緊張して立っていた。きゅっと唇を結んで、瞳をほんの少しだけ心配そうに曇らせて、昂を見上げている。
「…‥…‥贈り物、ありがとう。春休みの課題集、頑張って」
恥ずかしそうに顔を赤らめてもごもごとそうつぶやくと、綾花は持っていた袋を昂に差し出してきた。
「これ、ペンギンさん型のチョコレートクッキー。春休みの課題集が終わったら、一緒に食べよう」
綾花はじっと見上げて、昂の言葉を待っている。
昂は不遜な態度で腕を組むと、きっぱりと言い放った。
「もちろんだ。綾花ちゃんのチョコレートクッキーを前にして、我が頑張らないわけがないではないか!」
その言葉を聞いて、綾花はぱあっと顔を輝かせた。ほんわかな笑みを浮かべて、嬉しそうにはにかんでみせる。
「…‥…‥むにゃむにゃ、綾花ちゃん。…‥…‥我も幸せだ」
「昂、さっさと起きなさい!」
机に突っ伏したまま、至福の表情でうわごとのように何やらぶつぶつと漏らす昂の言葉を打ち消すように、昂の母親は机を叩くときっぱりとそう言い放ったのだった。
「ペンギン型のチョコレートクッキーを舞波に送る?」
拓也の問いかけに、いそいそとチョコレートクッキーが入った袋に手を伸ばしかけた綾花がこくりと頷いた。
「うん。この魔術を使う際の必須条件のメモに書かれていたんだけど、舞波くん、あかりの姿のままでチョコレートクッキーを持ってきてほしいみたいなの。でも、この姿のままで、私のーー進の家から出たら、きっとあかりに迷惑をかけちゃうから、あかりの姿をした私の写真と一緒にチョコレートクッキーを送ろうと思うの」
拓也はチョコレートクッキーが入った袋に視線を向けると、はっきりと言った。
「なあ、綾花。メモに書かれていたからって、別に舞波にチョコレートクッキーを渡さなくてもよかったんじゃないのか?」
「…‥…‥でも、舞波くんに渡さなかったら、きっと春休みの間、ずっと催促をしてくると思うよ」
どちらにしても会いにきそうだけどな、という言葉は、あえて拓也は呑み込んだ。
代わりにこう告げる。
「はあ…‥…‥」
「やっぱり、だめかな?」
拓也が苦々しい表情を浮かべると、綾花が躊躇うように不安げな顔でそう問いかけてくる。
拓也は顔を片手で覆い、深いため息をつくと、状況の苛烈さに参ってきた神経を奮い立たせるようにして口を開いた。
「分かった。なら、俺も手伝うな」
「たっくん、ありがとう」
その言葉を聞いて、綾花はぱあっと顔を輝かせた。ほんわかな笑みを浮かべて、嬉しそうにはにかんでみせる。
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て、元樹は少し羨ましそうな表情をして言う。
「まるで、本当に俺達に妹ができたみたいだな…‥…‥」
腕を頭の後ろに組んで進の部屋の壁にもたれかかっていた元樹の瞳が、拓也の隣で嬉しそうにはにかんでいる綾花へと向けられた。
「なあ、綾。上岡の家にいる間、何か困ったことがあったら、いつでも元樹お兄ちゃんに言えよな」
「…‥…‥えっ?」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、元樹の顔を見つめたまま、瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
綾花以上に動揺したのは拓也だ。
何気ない口調で言う元樹の言葉に、拓也は頭を抱えたくなった。
「まあ、いいじゃんか!綾が雅山の姿になっている時だけ、俺達は綾のお兄ちゃんになるっていうのもさ!」
「うん!私、たっくんと元樹くんの妹になってみたい!」
元樹が大した問題ではないように至って真面目にそう言ってのけると、綾花は両拳を前に出して話に飛びついた。
わくわくと間一髪入れずに答える綾花に、拓也は困惑した表情でおもむろに口を開く。
「今だけ、俺と元樹が綾花のお兄ちゃんなのか?」
「うん」
「ああ」
綾花と元樹がほぼ同時にそう答えると、拓也はもはや諦めたようにこう言った。
「…‥…‥分かった」
「えっ?」
その言葉に、綾花は驚いたように目を見開いた。
拓也はため息を吐きながらも、いつものように綾花の頭を優しく撫でる。
「だけど、あくまでも上岡の家の中だけだからな」
「…‥…‥うん、ありがとう、たっくん」
綾花がぱあっと顔を輝かせるのを見て、拓也は思わず苦笑してしまう。
「まあ、俺は綾花と同じく一人っ子だったから、兄妹ってどんな感じなのか気になるし、それに綾花の兄になるっていう貴重な体験ができるからな」
「あっ、もしかして、たっくんも元樹くんの弟になりたかったの?」
「…‥…‥そんなわけないだろう」
ここに至ってさえピントのズレたことを言う綾花に、拓也はうんざりとした顔で深いため息を吐いたのだった。
「あのね、たっくんお兄ちゃん、元樹お兄ちゃん、こんな感じで大丈夫かな?」
チョコレートクッキーをラッピングし終えた綾花は視線を忙しなく揺らし、恥ずかしそうにもじもじと手をこすり合わせながら口を開いた。
「はあ?たっくんお兄ちゃん?」
「うっ、だって、たっくんはたっくんだもの」
目を見開いて正面の綾花を見つめる拓也に、綾花はほんの少しむくれた表情でうつむき、ごにょごにょとつぶやく。
相変わらずズレたことを口にする綾花に、拓也は思わず頭を抱えたくなった。
「綾花、それはさすがに変だろう」
「…‥…‥そ、そうかな」
「まあ、確かに、その呼び方の方が綾花らしいけどな」
拓也はそう言って表情を切り替えると、面白そうに綾花に笑いかけた。指摘された綾花は思わず赤面してしまう。
「…‥…‥ううっ。それ、どういう意味?」
「まあ、気にするな。綾花は綾花ってことだ」
「気になるー」
そう言ってふて腐れたように唇を尖らせる綾花の頭を、拓也は優しく撫でてやった。
「確かに、綾らしいよな」
「綾花ちゃん、我はもう待ちくたびれた!」
元樹がそう告げて、屈託なく笑ってみせた。
その途端、まるで見計らったように、進の部屋のドアに手をかけながらご機嫌な様子で部屋に入ってきた昂に、拓也と元樹はうんざりとした顔で冷めた視線を昂に向けてくる。
だが、そんな視線などどこ吹く風という佇まいと風貌で、昂は構わず先を続けた。
「井上拓也、布施元樹、あんな奴らなどほっといて、我と一緒にチョコレートクッキーを食べるべきだ!」
「えっ、舞波くん?家で待っててって、交換ノートに書いたのに」
「我が待てるはずがないではないか!」
得意げにぐっと拳を握り、天に突き出して高らかにそう言い放つ昂に、綾花は口元に手を当てて困ったようにおろおろとつぶやく。
なおも、手にしたばかりのチョコレートクッキーが入った袋を掲げて上機嫌で綾花に話しかけてくる昂に、げんなりとした顔を向けた後、気を取り直したように拓也は鋭い眼差しで昂を睨みつけた。
「舞波、おまえは春休みの課題集をしていたんじゃなかったのか?」
拓也からの当然の疑問に、昂は人差し指を拓也に突き出すと不敵な笑みを浮かべて言い切った。
「何を言っている?そんなもの、我がどうしても先に綾花ちゃんのチョコレートクッキーを食べたいから少しの間だけ待ってほしい、と母上に土下座して何度も頼み込んだからに決まっているではないか!」
「…‥…‥それは、自慢することじゃないだろう」
昂の言葉に、拓也は呆れたように眉根を寄せる。
「そんなことよりも、綾花ちゃん。綾花ちゃんバージョンのあかりちゃん、すごく可愛いのだ!」
「ふわっ、ちょ、ちょっと、舞波くん」
それだけを言い終えると、ついでのように昂が綾花を抱きついてきた。
「おい、舞波!どさくさに紛れて、綾花に抱きつくな!」
「おまえ、勝手なことばかりするなよな!」
「否、我なりのやり方だ!そして、我は綾花ちゃんから離れぬ!」
ぎこちない態度で拓也と元樹と昂を見つめる綾花を尻目に、拓也と元樹は綾花から昂を引き離そうと必死になる。だが、昂は綾花にぎゅっとしがみついて離れようとしない。
「ううっ…‥…‥」
そんな中、激しい剣幕で言い争う拓也と元樹と昂に、あかりの姿の綾花はいつも以上に小柄なために身動きが全く取れず、窮地に立たされた気分で息を詰めていた。
こうして、一人の乱入者によって、四時間だけの綾花達による、奇妙な兄妹関係はあっさりと終わりを迎えてしまったのだった。




