番外編第六章 根本的に彼は彼女の彼氏を目指す ☆
「ううっ…‥…‥先生、いるかな?」
綾花は困り果てたように、隣の教室の前で立ち往生していた。
翌日、終業式が終わり、下校の時間になると、綾花は思いきって拓也と元樹とともに、昂の魔術によって雅山あかりという少女に憑依するようになったことを、1年C組の担任に伝えようとして隣の教室へと赴いていた。
かってのクラスメイト達の声に恐縮しながらも、綾花は教室の中をそっと窺い見る。
「瀬生、井上、布施、ちょっといいか?」
「ふわわっ…‥…‥」
しかし、教室を窺い見ていた綾花達の背後から、1年C組の担任の声が聞こえてきたため、綾花は思わず、あわてふためいてしまう。
「先生、どうかしたの?」
慌てて振り返った綾花が拓也と元樹とともに1年C組の担任のもとへと駆けていくと、1年C組の担任は周囲を窺うようにしてから小声で言った。
「話がある。今から、視聴覚室に来てほしい」
そのまま、踵を返し、1年C組の担任は足早に視聴覚室へと向かう。
1年C組の担任に連れられて廊下を歩きながら、綾花は不思議そうにつぶやいた。
「先生、もう母さん達から話を聞いているのかな?」
「さあな。まあ、行ってみれば分かることだ」
拓也は咄嗟にそう言ってため息を吐くと、元気づけるように綾花に視線を向けた。
視聴覚室にたどり着くと、1年C組の担任は一度、警戒するように辺りを見渡した後、綾花達の方へと向き直る。そして、率直にこう告げた。
「実は先程、舞波がいなくなったという電話が学校の方にあった。恐らく、瀬生が舞波の魔術で度々、憑依してしまっている少女のもとに行ったのではないかと思う」
ぽつりぽつりと紡がれる1年C組の担任の言葉に、綾花はぱちくりと瞬きをした。
「えっ、舞波くんが?」
「なるほどな。停学処分のせいで綾に会うことができないから、もう一人の綾である雅山に会うために、雅山の入院している病院に行ったんだな」
「だけど、雅山は面会謝絶だから、舞波も会うことができないんじゃないのか?」
拓也が意味を計りかねて元樹を見ると、元樹は眉を寄せて腕を頭の後ろに組んで言った。
「恐らく、舞波は雅山の命の恩人っていうことになっているから、雅山の家族と同伴なら雅山の病室に入ることができるっていうのが妥当だろうな」
「ふむふむ」
拓也の問いに、元樹がふてぶてしい態度でそう答える。
そんな中、視聴覚室のドアに耳を当てながら、肝心の昂は綾花達の様子を探るため、こそこそと聞き耳を立てていた。
あまりにも怪しすぎて、近くにいた他の生徒達から思いっきり冷めた眼差しを向けられ、視聴覚室自体が必然的に避けられていたことにも気づかずに、昂は先を続ける。
「なるほどな。つまり、先生達は、我があかりちゃんの入院している病院に行っているのではないかと思い込んでいるわけか」
こみ上げてくる喜びを抑えきれず、昂はにんまりとほくそ笑む。
「そんなはずなかろう!今、我は綾花ちゃんに会うために、この学校内に忍び込んでいるのだからな!」
「…‥…‥おい」
その時、やや冷めた声がドアの向こう側から聞こえてきた。
唐突に視聴覚室のドアが開かれて、拓也達が昂の前に進み出てくる。
「…‥…‥おまえは、雅山が入院している病院に行ったんじゃなかったのか?」
「貴様ら、何の用だ。断っておくが、我は新たな魔術を創り出すための費用に使いすぎて一銭もお金を持ち合わせておらぬから、あかりちゃんの入院している病院に行けなかったわけではないぞ」
「…‥…‥おい、新たな魔術って、また、何か企んでいるのか?」
「絶対に、何か企んでいるだろう」
拓也達が視聴覚室から出てくるなり、素知らぬ顔で自ら自白してきた昂に、拓也と元樹はげんなりとした顔で冷めた視線を昂に向けてくる。
だが、そんな視線などどこ吹く風という佇まいと風貌で、昂は構わず先を続けた。
「綾花ちゃん!井上拓也、布施元樹ーーあんな奴らなどほっといて、我と一緒に春休みを満喫するべきだ!」
「舞波くん、春休みは明日からだよ」
「終業式が終わったから、今からに決まっているではないか!」
得意げにぐっと拳を握り、天に突き出して高らかにそう言い放つ昂に、綾花は困ったようにため息をつく。
なおも、手に持ったゲーム雑誌を掲げて上機嫌で綾花に話しかけてくる昂に、うんざりとした顔を向けた後、気を取り直したように1年C組の担任は鋭い眼差しで昂を睨みつけた。
「舞波、今がどういう状況なのか、分かっているな?」
「むっ?どういう状況だと言うのだ?」
「停学処分中だ!」
昂の言葉を打ち消すように、1年C組の担任は視聴覚室のドアを叩くときっぱりとそう言い放った。
「それと舞波、おまえは留年して4月から再び、高校1年生をやり直すことになるからそのつもりでな!」
「我は納得いかぬ!」
あくまでも事実として突きつけられた1年C組の担任の言葉に、昂は両拳を振り上げて憤慨した。
「何故、この我が留年などという処分を受けねばならんのだ!」
「それだけのことをしたからだ!」
昂の抗議に、1年C組の担任は不愉快そうに言葉を返した。
1年C組の担任の剣幕に怯みながらも、それでも必死に、昂は理由をひねり出そうとする。
「留年などを受ければ、我は綾花ちゃんと同じクラスになれないではないか!」
「当たり前だ」
さらに昂が心底困惑して訴えると、1年C組の担任はさも当然のことのように頷いてみせた。
そのあまりにも打てば響くような返答に、昂は言葉を詰まらせ、動揺したようにひたすら頭を抱えて悩み始める。
「綾花ちゃん、頼む!今すぐ、我を助けてほしいのだ!」
「うっ…‥…‥、またなの?」
咄嗟に綾花の方に振り返り、両手をぱんと合わせて必死に頼み込む昂に、綾花が躊躇うように少し困り顔でつぶやいた。
あまりにも勝手極まる昂の言い草に、拓也は額に手を当てて顔をしかめてみせる。
「何故、いきなり、綾花に話を振る?」
「こういう時は、いつも進が助けてくれたからだ!」
「…‥…‥おい」
傲岸不遜な昂の言葉に拓也が呆れていると、綾花は少し気弱な笑みを浮かべて言った。
「いつも、舞波くんはこうなのよね…‥…‥」
言いながら中学の頃のことを思い出したのか、綾花は眉を寄せて苦い顔をする。
どこまでも勝手極まる昂の言い草に、拓也達が露骨に眉をひそめるのをよそに、綾花はどこか寂しげに笑った。
「ねえ、舞波くん。来年は、一緒に進級できるように頑張ろう」
「綾花ちゃん…‥…‥」
あくまでも進らしい綾花の励ましの言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
「もちろんだ。すぐに我は綾花ちゃんと同じ学年になってみせるのだ」
「瀬生。明日から春休みだが、また、舞波が魔術を使って何かをしてくるかもしれない。くれぐれも気をつけるように」
「先生、あんまりではないか~!」
1年C組の担任が確定事項として淡々と告げると、昂が悲愴な表情で訴えかけるように1年C組の担任を見る。
それは、綾花に進が憑依していると知って以来、すっかり、日常茶飯事と化したおなじみの光景ーー。
ふと、元樹の脳裏に、あの日、昂の机に置かれていた『未来型アルバム』の中で見た、真っ白な記憶が蘇る。
そこに映し出されていた最愛の人の笑顔にーーそして目の前で今も少し困ったようにはにかんでいる愛しい少女に、元樹は今日も恋い焦がれて、幸せを噛みしめていた。
ーーまさかその直後に、『未来型アルバム』に映し出された内容さえも凌駕するような、よっぽどの出来事が起こるなどとは露知らずに。
陸上部の練習中。
何気なく、日差しを遮ってグラウンドの空を見上げていた元樹は、そこで陸上部の同じクラスの仲間達から、『未来型アルバム』に映し出された内容どころではない事実を聞かされて驚いていた。
もちろん、視聴覚室の会話を聞かれたわけではない。
聞かれたわけではないのだがーー
「おーい、元樹。前に先輩達が話していた元樹の好きな人って、もしかして瀬生か?」
「ーーっ」
図星を突かれて、元樹はぐっと言葉を呑み込む。
「やっぱり、そうなのか」
「ほらな」
元樹の反応に、陸上部の仲間達は顔を見合わせると、ふっと息を抜くような笑みを浮かべる。
元樹はそれまでの気まずげな様子を一変させて、かってない剣幕で陸上部の仲間達に詰め寄った。
「な、何で、みんな、俺が綾のことを好きなのを知っているんだ!」
「何故…‥…‥って、な」
「あ、ああ」
元樹がそう問いかけてくると、陸上部の仲間達は気まずそうに相次いで言う。
言うか言うまいか迷ったように顔を見合わせている陸上部の仲間達を見て、元樹は不思議そうにしながらも先程と同じ疑問を口にした。
「何故、みんな、俺が綾のことを好きなのを知っているんだ?」
「い、いや、バレバレだろう。元樹、最近、ずっと瀬生のことばかり、見ているしな」
「ああ。それに瀬生さんに何かあると、元樹、必ずといっていいほど、瀬生さんのもとに駆けつけているだろう」
「しかも、前は『瀬生』って呼んでいたのに、今は『綾』だしな」
「…‥…‥バレバレ、か」
率直に告げられた事実に、元樹は意外なことでも聞かされたかのように額に手を当てて瞬きを繰り返す。
不意に、陸上部の仲間達がある事に気づき、少し声を落として言った。
「あっ、心配するなよ、元樹。おまえ目当ての女子には、俺達の方で元樹はもう彼女ができたということにしているから。もちろん、名前は伏せているけどな」
「まあ、そうでもしないと、おまえ目当ての女子から、瀬生さんが目の敵にされかねないからな」
「そうか。ありがとうな」
あっけらかんとした表情を浮かべた陸上部の仲間達に対して、元樹は至って真面目にそう言ってのけた。
すると、陸上部の仲間の一人が不思議そうに言う。
「それにしても、元樹って瀬生が好きだったんだな。てっきり、瀬生みたいなおとなしいタイプは好みじゃないと思っていたけど」
「ああ、そうだよ!悪いか!」
噛みしめるようにそうつぶやく陸上部の仲間に、半ばヤケを起こしたように元樹が叫ぶ。
しかし、陸上部の仲間はすぐに表情を曇らせるとぽつりとつぶやいた。
「…‥…‥でも、瀬生は井上と付き合っているだろう」
「分かっているから、困っているんだ」
視線を逸らして言葉を濁らす陸上部の仲間に、元樹は不服そうに言い返す。
「それにしてもさ」
別の陸上部の仲間の一人が、話の流れを変えるようにがらっと口調を変えて言った。
少しタメがあるのが気になり、元樹はその陸上部の仲間の方を振り向く。
そうして口にされたのは、思いもよらない言葉だった。
「瀬生さん、明るくなったよな。前は本当におとなしい感じだったのに、今は隣のクラスや他の学年の先生や生徒とも仲がいいしさ」
「…‥…‥ああ」
ぽつりぽつりと紡がれる陸上部の仲間達の言葉に、元樹はごまかすように人差し指で頬を撫でる。
「元樹」
「ーーなんだ?」
元樹が戸惑ったように訊くと、陸上部の仲間達はそろって意味ありげな表情で元樹を見た。
「ずっとずっと、瀬生のことを好きでいろよ。元樹の良さはそこなんだからな」
「元樹、頑張れよ」
「応援しているからな」
「ーーっ」
陸上部の仲間達の思いがけない言葉に、元樹は思わず、目を見開いた。
だが、元樹が何かを言う前に、そのまま、笑顔を残して、陸上部の仲間達は駆けていってしまう。
そんな中、ふと元樹の脳裏に、ほんわかと笑う、いつもの綾花の姿がよぎった。
『元樹くん、頑張って!』
グラウンドを背景に、風にたなびく長いサイドテールを揺らしながら、陸上部の練習を見に来た綾花が嬉しそうに元樹に対して手を振っている。
それは、昼下がりの放課後に場違いなほどの幻想的な光景だ。
「当たり前だ」
今はここにいない愛しい彼女に対して、元樹は頭をかきながらとりなすように言う。
脳裏に焼きついた、そのあどけなく見える笑顔に、元樹はぎゅっと絞られるような心地がした。
まるで彼女は、彼にとっての黎明の空のようだった。
元樹は吸い込まれるように、今日もその色に惹きつけられていたのだった。




