番外編第五章 根本的に出逢えた奇跡を信じている
二家族旅行から数日後の朝、いつもと同じように、拓也と綾花は駅で待ち合わせて学校近くの駅で降り、ホームを通って改札口を出る。
そして、学校に着くと正門から校舎まで歩き、昇降口から教室へと向かう。
だが、今日もその間、昂が一度も綾花の前に姿を現わさなかった。
必ずといっていいほど、綾花と強引に登校しようとして、昂はいつも拓也からたしなめられていたはずだ。
その昂が今日もまた、姿を現わさない。
「綾花、行くぞ」
不意に声をかけられたことにより、振り返った綾花は、拓也が真剣な瞳で自分を見つめていることに気づいた。
「待ってよ、たっくん!」
教室の前だというのに、綾花は人目もはばからず、拓也に勢いよく抱きついてきた。そして、不安そうにきょろきょろと辺りを見回すが、何もないことに気づくとほんの少しだけ表情に寂しさを滲ませた。
「綾花、どうかしたのか?」
拓也が素直に疑問を口にすると、綾花は掠れた声で答える。
「今日も舞波くん、休みなんだなと思って…‥…‥」
「まあ、一定期間の停学処分だからな。たっぷり絞られていて、しばらくは来れないんだろう」
「…‥…‥舞波くん、大丈夫かな」
綾花は複雑そうな表情で視線を落とすと熟考するように口を閉じる。
拓也はできるだけ適当さを感じさせない声で答えた。
「元々、舞波は単位が足りなかったらしいから、これで留年は確定したも同然だろうな」
「…‥…‥そうなんだ」
拓也の説明を聞きながら、綾花は不安そうにぽつりとつぶやいた。
以前からの無断欠席、深夜徘徊、中間、期末試験での度重なる単位不足が災いした上に、今回の停学処分を受けて、ついに昂は留年へと追い込まれてしまったらしい。
「あいつのことだから、例え、留年しても、うまいこと立ち回ってくるだろう」
拓也が、そんな綾花のつぶやきに顔を歪めて答えた。
「…‥…‥うん、そうだよね。どんな時も、舞波くんは無類の力を発揮するもの」
ほんわかな笑みを浮かべて思い出したように言う綾花を、拓也は何とも言えない顔で見つめた。
しかし、すぐに顔を引き締めると、拓也は気づかうように綾花の顔を覗き込む。
「綾花、あれから体調の方は大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
拓也の問いかけに、綾花は持っている鞄に視線を向けると、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
すると突然、教室のドアが開いて茉莉と亜夢が飛び出してきた。
廊下だというのに、茉莉と亜夢は人目もはばからず、綾花に勢いよく抱きついてくる。
「おはよう、綾花」
「わあーい、綾花だ~」
「ふ、ふわわっ…‥…‥。ちょ、ちょっと、茉莉、亜夢」
「綾花、布施くんから、だいたいの事情は聞いたわよ!あっ、井上くんもおはよう」
言いながら、茉莉は軽い調子で右手を軽く上げて、綾花の隣に立っていた拓也に挨拶する。
「はあ~。俺は相変わらず、綾花のついでか?」
顔をうつむかせて不服そうに言う拓也の言葉にもさして気にした様子もなく、茉莉は真剣な表情でこう話し始めた。
「綾花、旅行の時、原因不明の頭が痛くなる病気になって入院しかけたって聞いたけど、大丈夫なの?」
「…‥…‥えっ、入院?」
茉莉のその言葉に、自分がーー進が『雅山あかり』として過ごした入院生活の日々の出来事をふと思い出し、綾花は少し照れくさそうに俯いてしまう。
だが、その言葉を聞いた途端、亜夢は両手を広げて嬉々として声を上げた。
「綾花、大丈夫なんだ~!」
「もう、亜夢。そんなに早く治るわけないでしょう。綾花、体調が悪くなったら、すぐに私達に言ってね」
のほほんといった調子で言う亜夢をたしなめながらも、茉莉はどこか晴れやかな表情を浮かべて笑った。
「ありがとう、茉莉、亜夢」
茉莉と亜夢に励まされて、綾花は花咲くようににっこりと笑ってみせる。
「よお、綾」
「元樹くん」
その様子を今まで教室の窓から見守っていた元樹が綾花と茉莉達のやり取りに割って入ると、綾花は元樹の方を振り向き、彼の名を呼んだ。
「綾、体調は本当に大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫だよ」
再度、確認するかのように重ねて尋ねてくる元樹に、綾花はしっかりと頷いてみせる。
そんな中、拓也が人差し指で頬を撫でながら、言い出しづらそうに告げた。
「な、なあ、綾花。そろそろ、授業が始まるだろうし、教室に入らないか?」
「…‥…‥う、うん」
あわてふためいたように拓也の元に歩み寄った綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て、元樹は少し名残惜しそうにーーそして羨ましそうな表情をして言う。
「はあ~。明後日からの春休みが終わったら、いよいよ、俺達も二年生になるんだな…‥…‥」
腕を頭の後ろに組んで椅子にもたれかかっていた元樹の瞳が、拓也の隣で嬉しそうにはにかんでいる綾花へと向けられた。
「なあ、綾。春休みに入っている間でも、何か困ったことがあったら、いつでも俺に言えよな」
「…‥…‥えっ?」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、元樹の顔を見つめたまま、瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
綾花以上に動揺したのは拓也だ。
何気ない口調で言う元樹の言葉に、拓也は頭を抱えたくなった。
「まあ、いいじゃんか!停学処分になっているとはいえ、拓也だけで、あの舞波から綾を守るのは難しいしな!」
「ーーっ」
決死の言葉を元樹にあっさりと言いくるめられて、拓也は悔しそうに唇を噛みしめた。
こうして、神出鬼没な昂のことを気にしながら、綾花達は教室へと入っていったのだった。
放課後ーー。
屋上のドアを開くと、拓也達を呼びよせた人物はすでにそこで待っていた。
こちらに背を向け、黒髪の長いサイドテールを風で煽られながら金網のはるか向こうの夕闇色の空を見つめる綾花の背中が妙に寂しそうに見える。
放課後に屋上で話をするのもどうかと考えたが、幸い、今日は屋上は閉散としていて人気はなく、拓也達の話に耳を傾ける者はいなかった。
「綾花」
「よお、綾」
「たっくん、元樹くん」
拓也と元樹が屋上の入口付近の金網に寄りかかってから呼びかけると、振り返った綾花は慌てて拓也達のもとへと駆けていった。
警戒するように辺りを見渡すと、拓也は怪訝そうに綾花に尋ねる。
「どうかしたのか?」
「…‥…‥あのね、たっくん。前に、私がーー進が、あかりに憑依した時に言われたことなんだけど」
拓也の率直な疑問に、綾花は言いにくそうに意図的に目をそらす。
そんな綾花に対して、元樹は何気ない口調で問いかけた。
「なあ、綾。もしかして、雅山の家族からこのまま、雅山として生きてほしいって言われたのか?」
「ーーなっ」
それは拓也にとって、予想しうる最悪な答えだった。
「…‥…‥うん」
「やっぱり、そう言ってきたか」
憂いの帯びた綾花の声に、元樹もわずかに真剣さを含んだ調子で穏やかに言葉を紡ぐ。
「綾花。綾花がーー上岡が憑依した雅山は、本当に綾花が度々、憑依していないと死んでしまうのか?」
「うん、春斗くんはーーあかりのお兄さんはそう言っていた」
拓也が核心に迫る疑問を口にすると、綾花は物憂げな表情で空を見上げた。
「ごめんね、たっくん、元樹くん」
しばらくして俯き、ぽつりぽつりと小声で謝ってきた綾花に、拓也はわずかに眉を寄せた。
「何がだ?」
両手をぎゅっと握りしめていた綾花が、隣に立っている拓也の言葉でさらに縮こまる。
綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「私、やっぱり、あかりを死なせなくない。だから、あかりとして生きようと思うの」
「ーーなっ」
その言葉は、綾花の想像をはるかに越えて拓也を強く刺激した。
咄嗟に口を開きかけた拓也を制して、元樹は眉を寄せてから言う。
「綾、それは綾としてだけではなく、雅山としても生きようというのか?」
「うん。あかりが生きるために私の心の一部が必要だというのなら、私、分けてあげたいの」
元樹の問いかけに真剣な口調で答えて、綾花はまっすぐ元樹を見つめる。
「だって、私はもう、綾花と進、二人分の心を持っているから」
「ーーっ」
元樹が顔を片手で覆い、深いため息を吐くのを見て、綾花は困ったように声をかけた。
「も、元樹くん」
「綾。はっきりいって、俺は綾と上岡と雅山、三人分も生きるのは、どう考えても無理だと思っている。それでも、綾はやってみるっていうのか?」
ぽつりとつぶやかれた元樹の言葉は、確認する響きを帯びていた。
そんな元樹の言葉に、綾花は幾分、真剣な表情で頷いてみせる。
「…‥…‥うん。私、あかりとしても生きる!」
「おい、綾花!」
「うっ…‥…‥。だって、私、あかりの家族を悲しませたくないもの」
拓也が厳しい表情で綾花を見ると、綾花はほんの少しむくれた表情でうつむき、ごにょごにょとつぶやく。
相変わらずズレたことを口にする綾花に、拓也は思わず頭を抱えたくなった。
「三人分、生きる…‥…‥か」
「…‥…‥やっぱり、ダメかな」
口調だけはあくまでも柔らかく言った拓也に、綾花はおずおずと不安そうな表情を向ける。
拓也はもはや諦めたように息をつくと、空を見上げながら言う。
「…‥…‥分かった」
「えっ?」
その言葉に、綾花は驚いたように目を見開いた。
拓也は綾花の両手を取ると、淡々としかし、はっきりと言葉を続ける。
「だけど、絶対に無理はするな。少しでも何かしらの異変があったら、すぐに俺達に言うこと。いいな?」
「…‥…‥うん、ありがとう、たっくん」
綾花がぱあっと顔を輝かせるのを見て、拓也は思わず苦笑してしまう。
その暖かな手のぬくもりを感じながら、拓也は元樹に視線を移した。
「元樹、そういうことだから、今回も協力してくれないか?」
「ああ」
何のてらいもなく言う拓也に対して、元樹は片手を掲げると了承の意を示した。
「しかし、いつ綾花がーー上岡が雅山に憑依するのかだな。雅山と違って、こちらはもとに戻る時しか分からないしな」
拓也が静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始めた。
ふと脳裏に、ツーサイドアップに結わえた銀色の髪の少女ーー上岡として振る舞っている時の綾花の姿がよぎる。
気持ちを切り替えるように何度か息を吐き、まっすぐに綾花を見つめ直した拓也は思ったとおりの言葉を口にした。
「まあ、そこは綾花の両親と上岡の両親、星原や霧城、それに上岡の担任にも協力してもらって、俺達で何とかフォローしていくしかないか」
拓也がそう告げるや否や、綾花は拓也の腕にしがみついて嬉しそうに切々と訴える。
「たっくん、ありがとう!ありがとう!」
その言葉に、拓也は心臓が一際大きく脈打つのを感じた。
綾花はーーそして上岡は、いつだって自分の運命に翻弄されながらも他人のことばかり考えている。
それはどこまでも危うく、とてつもなく優しいーー。
綾花と上岡、そして雅山。
近くて遠い、背中合わせの三人。
誰よりも近いのに、お互いが自分自身のため、触れ合うこともできなければ、言葉を交わすことも許されない。
だけどーー。
会えなくても、言葉を交わせなくても、三人は繋がっている。
心を通してなら、想いを伝えられるし、悲しみや苦しみも半分こにすることができる。
手を伸ばせなくても、お互いがお互いの涙を拭えると信じているのだろう。
「綾、ちょっといいか?」
拓也の腕にしがみついている綾花の肩に手を置いた後、元樹はまるでごく当然のことのようにこう言った。
「右手を出してくれないか?」
「右手?」
綾花が訳が分からぬまま、右手を差し出すと、柔らかではあっても有無を言わせない手つきで、元樹は綾花の手を取るとその甲に口づけをした。
「ううっ…‥…‥」
「なっ!?」
その突拍子のない行動に、綾花が輪をかけて動揺し、拓也は目を見開いて狼狽する。
だが、元樹は平然とした態度で綾花にこう続けた。
「あのさ、綾。綾が三人分、生きるというのなら、俺は綾の負担を少しでも減らしたい。だから、これはその証だ」
「おい、元樹!」
「拓也。綾、一人で三人分、生きるのは無理かもしれないが、俺達で綾の負担を少しでも受け持てば、不可能も可能にできるだろう」
苛立たしそうに叫んだ拓也に、元樹ははっきりとそう告げる。
恥ずかしそうに赤らんだ頬にそっと指先を寄せる綾花の頭を、拓也はため息を吐きながらもいつものように優しく撫でてやった。
「…‥…‥そうだな。綾花が、綾花と上岡と雅山の三人分生きると決めたのなら、俺達は綾花の負担を少しでもなくしてみせる」
「何か困ったことがあったら、すぐに俺達が助けるからさ」
「…‥…‥うん。ありがとう、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹の強い言葉に、綾花は泣きそうに顔をゆがめて力なくうなだれたのだった。




