番外編第四章 根本的に彼と彼女のつむぐ日々④
「綾がーー上岡が憑依したという雅山あかりに一度、会ってみようと思う」
「雅山に?」
翌朝、元樹から思いもよらない誘いを受けて、拓也は不意をうたれように目を瞬いた。
人目のつくホテルのラウンジで話をするのもどうかと考えたが、幸い、今日は早朝ゆえに、ラウンジは閉散としていて人気は少なく、拓也達の話に耳を傾ける者はいなかった。
「ああ。あれから、綾に詳しい話を聞いてみたんだが、どうも舞波は旅行初日にこの近くの病院で分魂の儀式における『捕捉魔術』を使ったみたいなんだ。もっとも、今回の場合、綾も雅山も、お互いの記憶は残らないようになっているみたいだけどな」
「…‥…‥旅行初日、ホテルでしばらく舞波の姿が見当たらなかったのは、『対象の相手の元に移動できる』魔術を使って、雅山が入院している病院に行っていたからか」
拓也の疑問に答えるように、元樹はぐっと顎をひくと意味ありげに続けた。
「恐らくな。『対象の相手の元に移動できる』魔術は短距離しか移動することができないようだが、雅山が入院している病院はここから近いみたいだからな」
「…‥…‥でも、元樹くん。病院に行っても、あかりとは会えないかもしれない」
元樹が物憂げな表情で天井を見上げていると、綾花は断ち切れそうな声でそうつぶやいた。
「綾花、どういうことだ?」
拓也が不思議そうに綾花に聞き返すと、綾花は少しだけ表情を曇らせる。
「あかりは今、入院中で、家族や親戚以外の人とは面会謝絶だから、多分、行っても会えないと思うの。きっと病院に行っても、受付の人から、あかりは入院していないって言われると思う」
「面会謝絶!?」
意外な事実に、拓也が驚愕の表情を浮かべた。
そんな二人のやり取りに、元樹は自分の予測を確信へと変える。
「なるほどな。入院の有無を知らせない家族と親戚のみの面会謝絶か」
「…‥…‥それはつまり、俺達は雅山と会うことができないってことなのか?」
「ああ。恐らくな」
怪訝そうな顔をする拓也に、元樹はきっぱりとこう答えた。
それは、仮定の形をとった断定だった。
「…‥…‥ごめんね、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹がこれからのことに関して頭を悩ませていると、席に座り膝の上に置いた手を握りしめていた綾花が拓也達に声をかけてきた。
「何がだ?」
隣に座る拓也が怪訝そうに首を傾げると、綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「…‥…‥せっかくの二家族旅行だったのに、こんなことになっちゃってごめんね」
「ああ、何だ。そのことか」
一点の曇りもなくぽつぽつとつぶやく綾花に、拓也は一瞬、先程の問題のことを忘れて思わず、ふっと息を抜くように笑う。
「気にするな。俺も元樹も、それに綾花の両親、上岡の両親も、綾花と同じく、今回の旅行そのものを楽しんでいる。それになにより、大好きな綾花のーー」
ためだ、そこまで言う前に。
突然、綾花は立ち上がると、今にも泣き出してしまいそうな表情で、拓也に勢いよく抱きついてきた。
反射的に立ち上がり、綾花を抱きとめた拓也は、思わず目を白黒させる。
「…‥…‥綾花?」
いつもどおりの花咲くようなーーだけど、少し泣き出してしまいそうな笑みを浮かべる綾花に戸惑いとほんの少しの安堵感を感じながら、拓也は訊いた。
いろんな意味で混乱する拓也の耳元で、綾花は躊躇うようにそっとささやいた。
「ううっ…‥…‥、たっくん、ありがとう」
ぽつりぽつりと紡がれる綾花の言葉に、拓也の顔が目に見えて強ばった。綾花の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「わ、私もね、たっくん、大好きだよ」
「…‥…‥ああ、俺も綾花が大好きだ」
泣きじゃくる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
「ふわわっ」
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て対抗心を覚えたのか、気がつくと元樹は立ち上がり、右手を伸ばすと、綾花の腕を無造作につかんでいた。
「…‥…‥も、元樹くん?」
顔を覗き込まれた綾花が、一瞬、泣くのを止めて、きょとんとした表情で顔を上げる。そして、元樹と視線が合うと、今度は恥ずかしそうに俯いて頬を赤らめた。
それにつられて、綾花の顔を覗き込んでいた元樹も、顔を真っ赤に染めて思わず視線を逸らしてしまう。
「おい、元樹!」
自分とは違い、綾花に抱きつかれているはずの拓也からの意外な反応に、元樹は一瞬、目を丸くした後、今度は声を立てて笑った。
そのまま笑い出したい自分を抑えながら、元樹は言う。
「はははっ、拓也らしいな。まあ、俺も拓也と一緒で、綾のことがすげえ大好きだけどな!」
「一緒にするな!」
「絶対に負けないからな」
苛立たしそうに叫んだ拓也に、元樹ははっきりとそう告げる。
綾花が泣きやむまで頭を撫で続けていた拓也は、不意に綾花から視線を外して自分に言い聞かせるような声で言う。
「例え、舞波の魔術で、綾花が二人になってしまっても、今、目の前にいる綾花ももう一人の綾花も、綾花は綾花だ」
「そうだな。綾は綾だ」
「…‥…‥うん。ありがとう、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹の何気ない励ましの言葉に、綾花はようやく顔を上げると嬉しそうに笑ってみせる。
「綾。昨日、俺が言っていた、綾と一緒に行ってみたい場所に、これからみんなで行ってみないか?」
「行ってみたい場所?」
元樹からの突然の誘いに、綾花は思わず、不思議そうに小首を傾げた。
だが、元樹はそれには返事を返さずに、さらに先を続ける。
「今日一日限定なんだけどさ、半額で水中観光船に乗れるみたいなんだよな」
「そうなんだ」
綾花が感慨深げにそうつぶやくと、元樹は吹っ切れた表情を浮かべて一息に言い切った。
「なあ、綾。一緒に行かないか?」
有無を言わさず、にんまりとした笑みを浮かべて再度、誘いをかけてきた元樹の姿に、拓也は苦々しく眉を寄せるのだった。
「うわぁっ!」
いそいそと水中観光船の窓に手を伸ばしかけた綾花が嬉しそうに言う。
半額ということもあって、夕方からの乗船ということになってしまったのだが、クジラの形をした半潜水型の船は、水中の綺麗な珊瑚や熱帯魚など、普段、見ることができない光景を楽しむことができた。
「熱帯魚さんに早く会いたいな~」
これからさらに会える深海魚に心踊らせて、綾花は花咲くようにほんわかと笑ってみせた。
「ーーっ」
その時、顔を輝かせていた綾花が、不意に苦しそうに頭を押さえる。
その様子を見て、慌てて駆け寄ってきた綾花の母親が、不安そうに綾花に声をかけてきた。
「綾花、大丈夫なの?」
「う、うん、大丈夫だよ」
ぎこちなくそう応じる綾花の様子に目を瞬き、少しだけ首を傾げながら、綾花の母親は先を続ける。
「綾花。また、綾花の中の上岡くんの心の一部が雅山さんに憑依してしまっていたの?」
「…‥…‥う、うん。でも、あかりの家族は元々、あかりに私がーー宮迫琴音が憑依するって分かっていたみたいだから、問題ないみたいなの」
指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらず視線をそらした綾花に、綾花の母親は首を横に振ると問いかけるような瞳を綾花に向けた。
「そういうことじゃないの。私は綾花のことを心配しているの」
「…‥…‥そ、それは、憑依が戻る時に、ちょっと頭が痛くなるだけだからーー」
綾花が綾花の母親に否定の言葉を告げようとする前に、綾花の父親が言葉を挟んできた。
「綾花はもっと、自分のことを大切にしなさい!」
「…‥…‥うっ、ごめんなさい」
言葉に詰まった綾花は顔を真っ赤に染め、もういっそ泣き出しそうだった。
顔を俯かせて涙を潤ませている綾花に、綾花の父親は思わず顔をゆるめていつものように優しく頭を撫でる。
「綾花、怒鳴ってしまってすまない。だけど、雅山さんのご家族が一度、死んでしまった雅山さんのことを生き延びさせようと必死に考えているようにーー」
そして続いた綾花の父親の言葉は、あまりにも唐突で想像だにしない告白だった。
「僕達も、そして上岡さん達も、綾花のことをーー上岡くんのことを第一に考えているんだ。綾花が辛い思いをするのを黙って見過ごせない」
「あっ…‥…‥」
綾花の父親のその言葉に、不意打ちを食らった綾花はただただ、うろたえるしかなかった。
そんな彼らの様子を見かねた拓也は、一息置くと吹っ切れたような表情を浮かべて言う。
「おじさん、おばさん、心配しないで下さい。星原達とそれに上岡の担任にも協力してもらって、俺達で何とかフォローしてみます」
「ああ。でも、綾、辛い時はすぐに俺達に言えよな」
「…‥…‥ありがとう、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹がそれぞれの言葉でそう答えると、綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだ。
その隣には、進の両親がお互い心配そうにーーそして戸惑いながらも、穏やかな表情で綾花を見守っていた。
そんな中、何かを思い出したらしい表情を浮かべると、元樹は綾花に声をかけてきた。
「なあ、綾。見てみろよ」
「えっ?」
不思議そうに目を瞬かせる綾花をよそに、元樹は意味ありげな笑みを浮かべると、とある方向を指差した。
「うわぁっ!」
元樹の視線を追った先には、青いルリスズメダイの群れの姿があった。
華やかなルリスズメダイの眩しさを目の当たりにして、綾花は思いもかけず動揺してしまう。
その魅力に圧されるように、綾花は思わず目を輝かせた。
「すごく綺麗だね」
「ああ。きっと、綾は熱帯魚を見たら喜んでくれるって、俺、思ったんだよな」
「ううっ…‥…‥」
元樹の言葉に、綾花の顔が輪をかけて赤くなった。
綾花のそのリアクションに、拓也は元樹が何故、この水中観光船を誘ったのか察すると同時に不満そうに眉をひそめる。
なおも綾花に語りかける元樹に対して、拓也が不本意そうに口を開こうとしたところで、綾花がおずおずと声をかけてきた。
「ねえ、たっくん。元樹くんが言っていたんだけど、もうすぐ赤い珊瑚礁が見えてくるみたいなの。たっくんも一緒に見よう?」
先程までの緊迫した空気などどこ吹く風で、今か今かと了承の言葉を待っている綾花に、拓也は思わず顔をゆるめていつものように優しく頭を撫でる。
「ああ、そうだな」
「ありがとう、たっくん」
綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだのだった。
「我は悪くない!ただ、あかりちゃんの父上からあかりちゃんを生き延びさせてほしいと頼まれ、しかもその魔術書まで探し出してもらったから、仕方なくやったまでだ!」
「…‥…‥ほう、それで」
全身から怒気を放ちながら、昂の母親は昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
一方、その頃、強制的に家に連れ戻された昂は、母親から今回の件を執拗に問いただされていたという。
そして、綾花と進の両親、そしてあかりの両親への一心不乱の平謝りと一定期間の停学処分の結果、何とか綾花と進の家から絶縁されることだけは免れたのだった。
こうして、二泊三日の二家族旅行は波乱の予感を醸しつつも、終わりを迎えたのだった。




