番外編第二章 根本的に彼と彼女のつむぐ日々②
「たっくん、早く帰ろう!」
二人だけの夕暮れ時の帰り道にて、幼い頃の綾花が無邪気に笑いながら、ペンギンのぬいぐるみを掲げて自分の住んでいるマンションとは違う方角に向かって走って行こうとしていた。
それはいつか見た、脳裏に刻まれた彼方の記憶。
桜の木が立ち並ぶ川沿いの遊歩道を歩きながら、幼い頃の自分と彼女が仲睦ましげに帰っていく。
幼い頃に見た、儚く、でもーー絶対に忘れられない遠い想い出。
それは、幼なじみだけが見ることができる宝物だろうか。
幼なじみであり、彼女でもある綾花の笑顔を思い出しながら、拓也はそう思った。
「おのれ…‥…‥」
翌朝、昂はラウンジで悔しそうにうなっていた。
昨夜、昂が意図したとおりに、魔術書を極秘で手に入れ、綾花とある少女に分魂の儀式における『補足魔術』を使い、あとは魔術の効果を待てばいいという状況にできた。
その点では、昂の目論見はほぼ成功したと言えるかもしれない。
しかし、である。
ひとつだけ、昂が見誤っていたことがあった。
それは、綾花の両親と進の両親に事の次第がバレた、ということだった。
必然的に、昂の両親にも知れ渡ることとなり、昨夜、ホテルの電話越しから怒り心頭の昂の母親にたっぷりと絞られてしまったのだ。
当然のことながら、極秘で手に入れた魔術書もあっさりと没取されてしまった。
何故、我がこのような目に遭わねばならぬのだ。
しみじみと感慨深く昂が物思いに耽っていると、不意に綾花が少し真剣な顔で声をかけてきた。
「昂、昨日、大丈夫だったか?」
「あ、綾花ちゃん」
あくまでも進らしい綾花の励ましの言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
そのやり取りを、拓也はラウンジにて複雑な表情を浮かべながら見守っていた。
拓也は綾花に何か声をかけようとして口を開き、でも何も言葉は見つからず、伸ばしかけた手を下におろした。
今の綾花は、舞波の魔術の影響で、上岡として振る舞っているだけだ。
分かっている。
しかし、拓也の心は大きく動揺した。
奇妙な対抗心が芽生えて、拓也は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
綾花との会話を中断させられて、昂は一瞬、むっと顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに立ち上がると話をひたすら捲し立てまくった。
「井上拓也、覚えておくがいい!今や、綾花ちゃんは我の魔術の影響で進として振る舞ってしまうのだ!つまり、今日のお昼頃まで、貴様はいつもの綾花ちゃんには会えぬということだ!」
「ーーっ」
昂が不適な笑みを浮かべて意味深な宣戦布告を告げると、拓也は悔しそうに言葉を詰まらせる。
「…‥…‥まあ、もっとも、我の魔術の効果はこれだけでは終わらぬがな」
その言葉に拓也が絶句する中、昂が誰にも聞こえないような声で付け加えるようにぼそっと呟く。
「よお、綾、拓也」
「布施」
「元樹」
元樹がラウンジに入ってくると、綾花と拓也が振り返って相次いで言う。
「相変わらず、綾は上岡として振る舞ってしまうんだな」
「あ、ああ」
元樹の言葉に、綾花は気まずそうに意図的に目をそらす。
そんな綾花に対して、元樹は何気ない口調で問いかけた。
「なあ、綾。もしかして、綾の両親の前で上岡として振る舞ってしまうことを気にしているのか?」
「…‥…‥それは」
「心配するなよ、綾」
戸惑いの声を上げる綾花の台詞を遮って、元樹はきっぱりと告げた。
「俺も最初は戸惑ったけど、今では上岡として振る舞っている綾も、いつもの綾も、同じ綾だと思っている」
「…‥…‥布施」
元樹の即座の切り返しに、綾花は思わず、目を丸くし、驚きの表情を浮かべてしまう。
そんな綾花に、元樹は屈託なく笑うと意味ありげに続けた。
「最初は戸惑うかもしれないが、上岡の両親の時のように、きっと綾の両親はすぐに受け入れてくれると俺は思うな。また、何か困ったことがあったら、すぐに俺達が助けるからさ」
「布施、ありがとうな」
元樹の言葉に綾花が輝くような笑顔を浮かべるのを目撃して、拓也は先程まで考えていた自身の考えを改めるように、そして少し照れくさそうに言った。
「綾花、旅行、思いっきり楽しもうな」
「ああ。ありがとうな、井上」
拓也の何気ない励ましの言葉に、綾花は嬉しそうに笑ってみせた。
そんな中、昂はまっすぐに綾花を見つめると、にんまりとほくそ笑む。
「綾花ちゃんがもとに戻り、そしてあの者が綾花ちゃんになった時ーーその時こそ、綾花ちゃんはもう一人増えるはずだ。しかし、何故、その前段階で、綾花ちゃんが進として振る舞ってしまうという現象が起こってしまったのだ?」
昂がぽつりとつぶやいた謎めいた独り言は、誰の耳にも届くことはなかった。
「たっくん、元樹くん、舞波くん。イルミネーション、綺麗だったね」
華やかなイベントライブショーを観覧し、また、豪華絢爛なイルミネーションを見ることができて、綾花は幸せそうにはにかんだ。
時刻はそろそろ、夜もふけた午後九時であった。
ホテル内にあるショップは様々な動物のアクセサリーが置いてあるという、綾花にとってはまるで夢のような場所だった。
昂が告げていたお昼も過ぎ、目を輝かせて至福の表情で、茉莉と亜夢達のお土産を探すいつもどおりの綾花を見遣ると、拓也は安堵の表情を浮かべて言った。
「ははっ、綾花がもとに戻って良かった。…‥…‥俺、心配だったんだ。このまま、綾花がもとに戻らないんじゃないかって」
「そ、そんなことないもの」
「本当か?昨夜、もとに戻らないって分かった時の綾花はあんなに慌てていたけどな」
拓也は咄嗟にそう言って表情を切り替えると、面白そうに綾花に笑いかけた。
指摘された綾花は思わず赤面してしまう。
「…‥…‥ううっ」
「…‥…‥冗談だ」
「…‥…‥うっ、たっくんの意地悪」
そう言ってふて腐れたように唇を尖らせる綾花の頭を、拓也は優しく撫でてやった。
いつものほんわかとした綾花とのやり取りに、拓也は一瞬、綾花が一時的にもとに戻らなかったことなど忘れそうになってしまう。
だが、目の前から聞こえてきた声が、非情にも拓也を現実へと引き戻した。
「うむ、おかしいのだ。綾花ちゃんがもとに戻り、そしてあの者が綾花ちゃんになったというのに、綾花ちゃん自身に何の変化も起きないとは」
「…‥…‥どういう意味だ」
「貴様らに答える必要はない」
嫌悪の眼差しを浮かべた拓也に対して、昂は嘲るような笑みを向けた。
「何を企んでいる?」
「絶対に、何か企んでいるだろう」
緊迫した空気の中、拓也が牽制するように昂を睨むと、元樹もまた鋭く切り出す。
一触即発の状態にも、昂は動じなかった。
「何も企んでおらん。何もな」
その切り捨てるような鋭い言葉を前にしても、昂は不適に肩をすくめてみせるだけだった。
「綾、何か変わったことはないか?」
不意に元樹にそう問われて、綾花は人差し指を立てるときょとんとした表情で首を傾げてみせる。
「うーん。変わったこと、変わったこと…‥…‥って、あれ?」
「…‥…‥綾花?」
突如、目を瞬かせて混乱する綾花に、拓也が怪訝そうに声をかけた。
しかし、拓也の疑問に答える余裕もないのか、ますます困惑して、綾花は不思議そうに言った。
「ええっーー!な、なんで?」
「綾花、どうかしたーー」
「綾、もしかして、今度は上岡として振る舞うことができないのか?」
綾花、どうかしたのかーー。
そう告げる前に先じんで、元樹の言葉が飛んできて、拓也は口にしかけた言葉を呑み込む。
「うん」
「なっーー」
元樹の言葉に、綾花が困ったようにこくりと頷くのを見て、拓也は心底困惑した。
今度は、上岡として振る舞うことができない…‥…‥?
舞波は一体、何を企んでいるんだ?
そんな拓也の疑心を尻目に、綾花は今度は突然、頭を押さえて苦しみ始めた。
「ーーっ。ううっ…‥…‥あ、あれ?」
「綾花、どうしたんだ!」
立っているのも辛そうな綾花のもとに駆け寄ると、拓也は必死な表情で焦ったように言う。
綾花は目をぱちくりと瞬かせると、顔を上げて不思議そうにつぶやいた。
「たっくん、今いきなり、私の中に進として振る舞った時の記憶がよぎったの。それに私ーーううん、進が、今まで知らない女の子になっていたみたい」
そうして口にされたのは、思いもよらない言葉だった。
これには拓也と元樹も、この計画を企んだ当の張本人である昂も唖然とした。
「むっ?進として振る舞った時の記憶だと?あの魔術は確か、綾花ちゃんの心の一部があの者に憑依することによって、あの者を生き返させるという魔術のはずだ。一体、どういうことなのだ?」
「綾花?」
「綾、上岡として振る舞った時の記憶ってどういうことだ?」
不思議そうに問い返してくる昂と状況がいまいち呑み込めない拓也と元樹が、綾花をまじまじと見た。
拓也達の姿を視界に捉えると、急速に綾花の勇気は萎えていく。それでもギリギリのところで踏みとどまり、残された全ての勇気を動員して綾花は告げた。
「私ーーいや、俺、夕方から今まで、何故か知らない女の子に憑依していたみたいなんだ!」
その瞬間、拓也も元樹も、そして昂でさえも凍りついたように動きを止めた。
舞波昂が、瀬生綾花に分魂の儀式における『補足魔術』をかけた翌日からーー。
綾花の心の一部になったはずの上岡進の心の一部だけが、偶発的に四時間だけ、見知らぬ少女に憑依してしまうという謎の現象が起こるようになってしまった。




