第五十章 根本的に彼女が彼女であること
「おのれ~」
先を進んでいくごとに現れる進の家に行くことへの生徒達の妨害から逃れるため、昂が逃げ込んだ先は路地裏だった。
家を出た瞬間から、同じ学校の生徒達や教師、挙げ句の果てには警察官らしき人物から尋問を受けてしまい、その度に昂は禁断の魔術を使って難を逃れてきたのだ。
昂はそれでも人影がないか確認してから、そのまま進の家がある方向へと視線を動かす。
「奴らは不死身のゾンビか?我を目の敵にしおって!我は進の家に行かねばならぬと何度告げても追ってくる!」
忌々しそうにつぶやいた昂は一人、淡々と言葉を連ね続ける。
「このままでは、綾花ちゃんが綾花ちゃんのご両親に本当のことを話してしまうではないか」
胸に手を当てて深呼吸をすると、昂はどうすれば追っ手を振り払って進の家に行くことができるのかを考え始めた。
だがすぐに考えるのを止め、昂は魔術を使おうと片手を掲げる。
「うむ、とりあえず、ここはーー」
『対象の相手の元に移動できる』魔術を使うべきだな。
昂がそう続けようとしたところで、路地裏の奥から誰かの声がした。
「いたぞ、舞波だ!」
男子生徒のかけ声に合わせて、さらに数名の生徒が左右両方から路地裏に駆け込んでくる。
あっという間に囲まれた昂は、彼らが全員『放送部』に所属していることを開口一番に聞かされた。
「1年C組の舞波昂さん。この間の学校に着ぐるみを着てきたことについて、少しお話、いいですか?」
放送部の男子生徒の一人からマイクを突きつけられ、昂はうめくように叫んだ。
「こ、これでは進の家に行くことも、魔術を使うこともままならないではないかーー!!」
なおも逃走を図ろうとするが、完全に囲まれていてとても逃げられないことを悟り、昂はがっくりとうなだれるのだった。
「はあ…‥…‥」
進の家のリビングで、拓也は窓の近くに置かれた進が手に入れたであろうゲームの大会のトロフィーとこの間のゲームセンターの大会の優勝賞品であるゲームのレアグッズなどを見ながら、綾花と元樹を待っていた。
長方形のテーブルには、綾花と拓也と元樹、進の両親、そして綾花の両親の分のポットとティーカップが置かれてある。
これから綾花の両親に全てを打ち明けるというのに、テーブルには自分一人という相も変わらずの居心地悪さに、拓也は思わず息をつく。
昂の禁断の魔術による妨害を防ぐため、元樹は今、廊下で陸上部の仲間達と連絡を取り合っている。
また、綾花は茉莉と亜夢達に、拓也も昨日、友人達から昂の魔術を防ぐための協力を了承してもらった。
結局、作戦の全貌については、元樹から詳しくは聞かされてはいなかった。何でもできる限り、人数が多い方がいいらしい。
どういう作戦で、舞波に禁断の魔術を使わせるのだろうか。
そして、禁断の魔術が使えなくても他の魔術を使用することによって、巧みに自分の都合よく状況を変革することができる舞波に、どのような秘策でここに来れないようにするのか。
拓也が一人、頭を悩ませていると、不意に綾花の声が聞こえた。
「たっくん」
拓也のいるリビングへとひょっこりと顔を覗かせた綾花は、少し浮かない顔をしていた。緊張しているのか、かすかに肩を震わせている。
拓也は綾花に視線を向けると、はっきりと言った。
「綾花、大丈夫だ。きっと、おじさんとおばさんは綾花のことをーーそして上岡のことを分かってくれる」
「…‥…‥でも、お父さんとお母さん、びっくりするよね」
綾花は顔を曇らせて俯くと、ぽつりとそうつぶやいた。決して泣いてはいなかったが、代わりにその表情は乾いていた。
乾ききった微笑を浮かべ、綾花は続けた。
「きっと、お父さんもお母さんも、今の私にーーううん、俺に会っても混乱するだけだろうし」
口振りを変えた綾花は俯き、一度、言葉を切った。
だけど、すぐに顔を上げると、綾花は苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「俺のーー綾花の中に、俺がーー進がいるってそんな馬鹿げたこと、誰が信じるかよ」
「…‥…‥綾花」
「失踪、それにこの間の家を飛び出してしまった件といい、ホント、俺、両親に迷惑ばかりかけているよな」
綾花は遠い目をして、今来たばかりの玄関に繋がる廊下を振り返った。
そんな綾花を、拓也は何とも言えない顔で見つめていた。
言葉が見つからない。
そんなことはない、すべては舞波が目論んだことではないか、と口で否定することは簡単だったが、以前、自分が綾花にこだわり、綾花に『上岡として振る舞うな』と告げてしまったあの光景を思い出した今では、間違ってもそんな台詞は言えなかった。
嫌だった。
あの時の拓也は、綾花が上岡として振る舞うのが嫌だった。
今の綾花は根本的に綾花の中にある上岡の心が出てきているだけであって、上岡は綾花の心の一部に過ぎない。
あの時も今も、分かっているつもりだった。
だけど、本当は何も分かっていなかったのだろう。
あの時は何もできなかった。
拓也は何度も、己の無力さを噛みしめた。
でも、今は違う。
拓也には拓也なりに、綾花にーーそして上岡にできることがある。
「なあ、綾花」
拓也が声をかけたことによってようやく綾花はこちらを振り向いたが、やはり綾花としての反応はなく、そのまま無言で拓也を見つめている。
その様子に、拓也は少しばつが悪そうな表情を浮かべて言った。
「ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』に出演する前に、こうして上岡の家で対談の練習をしたことがあったよな」
「ああ」
綾花がそう頷くと、拓也は持ってきていた鞄からペンを取り出し、綾花の方へと向ける。
「ーーほら、綾花はどうしておじさんとおばさんに話して、今の綾花を受け入れてくれないと思ったんだ?」
マイクのように差し出されたペンの先端をじっと見つめて、綾花は少し照れくさそうにこう言った。
「いや、普通、あり得ない出来事だからかな」
拓也の問いかけに、綾花は目を丸くし、驚きの表情を浮かべながらも答えた。
戸惑う綾花をよそに、拓也は先を続ける。
「そのあり得ない出来事を、俺と元樹は信じているし、受け入れている。上岡の両親、上岡の担任もだ。どうしてだと思う?」
「うん?」
意味深なその台詞に、綾花は不思議そうに首を傾げる。
拓也は真剣な眼差しで、きっぱりと断言した。
「綾花が綾花だからだ。そして、上岡が上岡だからだ」
「井上らしいな」
屈託のない笑顔でやる気を全身にみなぎらせた綾花を見て、拓也は胸に滲みるように安堵の表情を浮かべる。
「ーーありがとう、たっくん」
綾花が再び、口振りを変えてそう言った時、リビングのドアが開けられた。
「拓也、綾」
「元樹」
「元樹くん」
焦って来たような声に、拓也と綾花が振り返って相次いで言う。
「舞波の方は何とかなりそうだ」
「そうか」
頭をかきながらとりなすように言う元樹に、ようやく拓也はほっとしたように微かに笑ってみせた。
「あとは、綾の両親を説得するだけだな」
「ああ」
元樹の言葉に、拓也は緩みかけた表情を再び、引き締め直す。
そんな二人に、綾花は幾分、真剣な表情で声をかけた。
「…‥…‥あのね、たっくん、元樹くん。私、お父さんとお母さんにちゃんと話してみる」
「…‥…‥綾花」
聞いた瞬間、思わず心臓が跳ねるのを拓也は感じた。知らず知らずのうちに、拳を強く握りしめてしまう。
「いつまでも、お父さんとお母さんに、そして父さんと母さんに心配させちゃダメだよね」
うつむきがちにそう言った綾花だったが、しかし、言葉を継ぐために顔を上げた。
「うまく伝わらないかもしれないけれど、一生懸命、話してみるね」
「ああ、俺達も手伝うな」
「困ったことがあったら、すぐに助けるからな」
拓也と元樹のその言葉を聞いて、綾花は嬉しそうに柔らかな笑みをこぼしたのだった。
綾花の両親が進の家にやって来たのは、その日のお昼頃だった。
綾花達とともに、綾花の両親と進の両親がそろって神妙な顔で、進の家のリビングにあるダイニングテーブルの椅子に座っている。
そうならざるを得ない出来事が、これから告げられようとしていた。
「綾花、僕達に話しておきたいことって何なんだ?」
「…‥…‥う、うん」
綾花の父親の質問に、綾花はほんの一瞬、戸惑うように息を呑んだ。
そんな綾花の反応に、綾花の父親は表情を緩めて軽く肩をすくめてみせる。
「…‥…‥ゆっくりでいい。綾花なりに話してほしい」
「…‥…‥うん」
綾花の父親の言葉に、綾花は自分に言い聞かせるように頷く。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい。前に元樹くんが話してくれた、ここにきていた理由は本当の理由じゃないの」
「すみません」
進の家のリビングのダイニングテーブルに綾花達が着席してからしばらく経った後、綾花と元樹は意を決したように立ち上がり、頭を下げて謝ってきた。
その光景に、綾花の両親は完全に呆気に取られてしまう。
「なっーー」
「えっ…‥…‥?」
綾花の両親は一瞬、綾花と元樹が何を言っているのか分からなかった。
複雑な表情を浮かべた綾花の父親が、戸惑うように言う。
「綾花、どういうことだ?」
「私は確かに瀬生綾花だけど、上岡進でもあるの」
そうして口にされたのは、思いもよらない言葉だった。
これには綾花の父親も、横で話を聞いていた綾花の母親も唖然とした。
「綾花、何を言っているんだ?」
「…‥…‥綾花?」
不思議そうに問い返してくる綾花の父親と状況がいまいち呑み込めない綾花の母親が、綾花をまじまじと見た。
二人の姿を視界に捉えると、急速に綾花の勇気は萎えていく。それでもギリギリのところで踏みとどまり、残された全ての勇気を動員して綾花は告げた。
「私の中には、瀬生綾花としての心だけじゃなくて上岡進としての心もあるの!」
その瞬間、綾花の両親は凍りついたように動きを止める。
彼女の衝撃的な言葉は、緊迫したその場の空気ごと全てをさらっていった。




