第四十四章 根本的に彼女のために彼ができること
「ただいま、お母さん。心配かけてごめんなさい」
「綾花!」
玄関のドアを開けながら、開口一番、小声で謝ってきた綾花を見るなり、綾花の母親は調度を蹴散らすようにして綾花の傍に走り寄ると、華奢なその体を思いきり抱きしめる。
あまりにも突然の出来事だったため、綾花はすぐには反応することができず、されるがままに抱き寄せられていた。
「…‥…‥綾花、綾花、ごめんね。おかえりなさい」
「ううっ、お母さん、ごめんなさい」
溢れる気持ちは、言葉にならずに熱となって喉元にせり上げる。
相当、心配させていたのだろう。
綾花をぎゅっと抱きしめながら、涙をぽろぽろとこぼれ落ちす綾花の母親の姿に、綾花は胸が締めつけられるような気がした。
「遥香、綾花のことで、大切な話があるんだ」
綾花に抱きついている綾花の母親を見て、綾花の父親が申し訳なさそうに言う。
「…‥…‥ええ。綾花、リビングに夕食を置いているから、落ち着いたら食べに来てね」
「…‥…‥うん」
綾花の父親の言葉に躊躇うように顔を俯かせる綾花の母親と同様に、綾花もまた、不安そうに身体を縮ませてこくりと頷く。
自分の部屋へと入ると、これからしばらく進の家に行くことができなくなってしまったことを悩みに悩むように、綾花は枕元に置いているペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「ペンギンさん、また、父さんと母さんのところに行けるよね」
独り言のようにぽつりとつぶやくと、綾花はペンギンのぬいぐるみを抱きかかえたまま、どこか切なげな表情で窓の外を眺めていた。
「何故だーー!何故、こんなことになったのだ!!」
一方、その頃、魔術で今回の件を知った昂は、頭を抱えて虚を突かれたように絶叫していた。
まさに、昂の心中は穏やかではない状況だった。
床には、奇妙な絵柄が描きこまれた魔法陣。
手には、魔術書と聖水の入ったガラスの小瓶。そして周囲には乱立する蝋燭が置かれてある。
都市部から外れた場所に立つ一軒家。
全ての灯りを消したその薄暗い部屋の中で、怪しげな雰囲気を漂わせる小道具に囲まれながら、昂は心底困惑しながらも一心不乱に呪文を唱え続けていた。
綾花に進が憑依したことが、綾花の両親にバレてしまう可能性がある。
恐らくそれが、これから最も起こり得る絶望的な状況だろう。
もし綾花の両親に事の次第がバレてしまったら、きっと自分は断固拒否されてしまって、彼女に会うことさえもままならなくなってしまうかもしれない。
まさしくそれは、彼にとって避けねばならない最悪の事態であった。
「待っているのだ、綾花ちゃん!これが成功すれば、我は今までどおり、綾花ちゃんと気兼ねなく会えるはずだ!」
自分自身に言い聞かせるように、昂はにんまりとほくそ笑みながら詠唱をし続ける。
よもや、この後、この計画を企んだ当の張本人である昂ですら驚愕してしまう出来事が待ち構えているとは、この時の彼には知るよしもないことだった。
「おまえは一体、何がしたいんだ?」
翌朝、かたことと揺れる列車の車内で窓の外を通り過ぎる住宅地やショッピングモールなどの景色を眺めながら、拓也は拳を強く握りしめて唸った。
「ううっ~」
その後ろで、綾花は行きの列車の中で身を縮め、何とか拓也と同じ手すりに掴まりながらも不安そうにーーだけどそれに触りたそうにじっと見つめている。
拓也は不満そうに額に手を当てると、薄くため息をついてその人物の方へと振り返った。
「何故、そんな格好でここにいる?」
拓也の問いかけに、その人物ーー昂はこの上なく不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「前に告げたであろう!綾花ちゃんが行くのなら、どこにでも我は行くと!綾花ちゃんの通学時間は前もって、全て下調べ済みだ!」
「…‥…‥そういうことじゃない」
居丈高な態度で大口を叩く昂に、拓也は低くうめくようにつぶやいた。
「何故、そんな格好で学校に登校しようとしているんだ!」
拓也の目の前で腕を組んでいる昂は、いつもの制服ではなく、何故かペンギンの着ぐるみを被っていた。
「決まっているではないか!昨日の件で落ち込んでいる綾花ちゃんに元気を取り戻してもらうために、綾花ちゃんの好きなペンギンの格好をしているだけだ!」
昂は綾花に向かって、無造作に片手を伸ばすとそう叫んだ。
二人と対峙する昂の物言いは相変わらず、尊大不遜な態度が際立っている。
それを聞いてげんなりとする拓也をよそに、昂はますます誇らしげに胸を張って、得意げに言葉を続ける。
「綾花ちゃん…‥…‥いや、進。ついに、我はあの禁断の魔術を完成させるに至ったぞ!」
「…‥…‥うっ、禁断の魔術?」
昂が己を奮い立たせるように自分自身に対してそう叫ぶと 、綾花は躊躇うように不安げな顔でつぶやいた。
「我の魔術のあらゆる理論を駆使して、ようやく実現化することができたのだ!『生徒手帳』を再度、利用することができぬ今、昨日の件を解決するには、もはや禁断の魔術を使うしかないと我は考えた!」
「…‥…‥ひょっとして」
昂のその言葉に、綾花は何事か気づいた様子でつぶやく。
「綾花、また、『交換ノート』や『生徒手帳』のようなものなのか?」
拓也が綾花に聞き返すと、綾花は振り返り、緊張をみなぎらせた表情でこう告げた。
「うん。舞波くんが究極の魔術を産み出そうとしていた高校受験の前ーー中学の時に、禁断の魔術を使おうとしていたことがあったの。あの時は、究極の魔術と同じようにうまくいかなかったんだけど」
「な、なんだ、それは?」
拓也は綾花から昂の禁断の魔術の話を聞くと、頭を抱えてうめいた。
「…‥…‥ごめんね、たっくん。禁断の魔術ーー、まだ、それしか、舞波くんから教えてもらっていないの」
「…‥…‥よくは分からないが、今回もろくでもないものなのだけは確かだな」
顔を俯かせて戸惑うような表情を浮かべる綾花を見て、拓也は緊張で顔を引き締めた。
舞波のことだ。
『交換ノート』や『生徒手帳』を用いた時のように、また何か、ろくでもないことを考えているに違いない。
悶々と苦悩していると、そんな不安さえ拓也の頭をもたげてくる。
舞波の魔術で、さらに究極や禁断の魔術と聞くと、さすがに嫌な予感しかしてこない。
「今日の放課後、早速、禁断の魔術を披露してみせるのだ。前のように、綾花ちゃんが進としてーー琴音ちゃんとして振る舞った状態で会うのもよいが、直接、綾花ちゃんとして会える方が確実であろう。いささか、強引で危険を伴う魔術だが、綾花ちゃんの悩み事もきっと解決へと導けるはずだ。期待していてほしい」
「…‥…‥ありがとう、舞波くん」
ペンギンの着ぐるみを身に纏ったまま、拳を振り上げてやる気をみなぎらせる昂に、綾花は意味ありげな表情で昂を見遣ると優しく微笑んだ。
「お父さんとお母さんに、私のーー進の家に行くことを許してもらえなかったのは悲しかったけれど、みんなが私のことを心配してくれて、そして協力してくれるって言ってくれたことがすごく嬉しい」
「うむっ。当然ではないか!なにしろ、綾花ちゃんは我の彼女なのだからーー」
ただでさえ、ペンギンの格好で周囲の注目を集め続けていたというのに、昂が高らかに足を踏み鳴らして宣言するのを受けて、その場にいた乗客達がみな、不思議そうにこちらに視線を向けてきた。
「ーーばっ!?」
とっさに拓也が右手で昂の口を塞ぎ、事なきを得る。
拓也は状況の苛烈さに参ってきた神経を奮い立たせるようにして口を開いた。
「…‥…‥行くぞ、綾花」
「えっ?」
「あっーー!!待て!!」
後から追ってきた昂を振り払うかのようにして、拓也は綾花の手を取って足早に前の車両へと移動したのだった。
「はあっ?禁断の魔術…‥…‥って、また舞波の魔術か?」
綾花とともに少し遅れて登校してきた拓也から聞かされた昂の魔術話に、頭を悩ませながらも、元樹はとっさに浮かんだ言葉を口にする。
額に手を当てて呆れたように肩をすくめると、拓也は弱りきった表情で答えた。
「ああ。何でも今回は、あの『交換ノート』を産み出そうとしていた高校受験の前ーー中学の時に使おうとしていた魔術らしい」
「そうなのか?」
やや驚いたように首を傾げた元樹に、どうにも腑に落ちない拓也がさらに口を開こうとしたところで、綾花がおずおずと声をかけてきた。
「ねえ、たっくん、元樹くん。…‥…‥茉莉と亜夢に、昨日のこと、謝ってきてもいい?」
先程までの緊迫した空気などどこ吹く風で、今か今かと了承の言葉を待っている綾花に、拓也は思わず顔をゆるめていつものように優しく頭を撫でる。
「ああ」
「ありがとう、たっくん」
綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだ。
そして、綾花は自分の机の近くで綾花達のやり取りを不安そうに見守っていた茉莉と亜夢のもとへと駆けていく。
その様子をぼんやりと眺めながら、元樹は拓也に近づくと、拓也の肩をぽんと叩いた。
「なあ、拓也。俺も少しだけ、舞波の魔術の披露とやらに付き合ってもいいか?」
「なっ!」
意表を突かれて、拓也は思わず言葉を詰まらせる。
あえて意味を図りかねて拓也が元樹を見ると、元樹はなし崩し的に言葉を続けた。
「拓也だけで、舞波の魔術から綾を守るのは大変だろう?まあ、俺は部活があるから、そんなに長い間は付き添えないけどな」
「元樹、ありがとうな」
元樹の言葉に、拓也は苦笑しながらも頷いてみせた。
舞波は『対象の相手の元に移動できる』という魔術を使うことができる。
例え、舞波に会うのを避けていても、いきなり綾花の前に現れて強引に魔術を使おうとするはずだ。
拓也は苦悩するように軽く肩をすくめて一息つくと、今朝から疑問に思っていたことを口にした。
「それにしても、舞波は今回、何がしたいんだろうな」
「確かにな。まあ、綾のためにというのは間違いないが、舞波自らが強引で危険を伴う魔術と告げるなんて絶対、他にも何かありそうだよな」
「ああ」
思案するように視線を逸らした拓也につられて、元樹は横目で茉莉達と他愛ない会話を交わしている綾花を窺い見る。
その視線に気づき、振り返った綾花は、そこで元樹と目が合ってしまう。
ほのかに頬を赤らめた綾花はうつむくと指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらずそのまま、視線をそらした。
昨日の件を気にしてか、身体を縮こませて気まずそうに視線を逸らすという、明らかに意識しているような綾花の態度に、元樹は思わずほくそ笑んでしまう。
綾の両親と上岡の両親のために。
そして、なによりーー誰よりも愛しい少女のために。
元樹は胸に灯った炎を大きく吹き上がらせた。
それでも、どうしても漏れてしまう笑みを我慢しながら、自嘲するでもなく、吹っ切るように元樹はがりがりと頭をかいて、
「まあ、それでも、綾は俺達が守るけどな」
と、一息に言った。
あくまでも屈託なく笑ってみせる元樹に、拓也は難色を示すように怪訝そうな表情で顔をしかめるのだった。




