第四十一章 根本的に現実はどこまでも残酷で
「ううっ…‥…‥、ついに今日、発売なんだよね」
オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ3』の発売日当日、綾花が自分の教室の前で妙に感情を込めて唸っていると、教室のドアが開いて茉莉と亜夢が飛び出してきた。
廊下だというのに、茉莉と亜夢は人目もはばからず、綾花に勢いよく抱きついてくる。
「おはよう、綾花」
「わあーい、綾花だ~」
「ふ、ふわわっ…‥…‥。ちょ、ちょっと、茉莉、亜夢」
「綾花、布施くんから、だいたいの事情は聞いたわよ!あっ、井上くんもおはよう」
言いながら、茉莉は軽い調子で右手を軽く上げて、綾花の隣に立っていた拓也に挨拶する。
「はあ~。俺は相変わらず、綾花のついでか?」
顔をうつむかせて不服そうに言う拓也の言葉にもさして気にした様子もなく、茉莉は真剣な表情でこう話し始めた。
「綾花、これからはいつもどおり、学校に来れるんだよね?」
「…‥…‥う、うん」
茉莉のその言葉に、『宮迫琴音』として登校していた日々の出来事をふと思い出し、綾花は少し照れくさそうに俯いてしまう。
だが、その言葉を聞いた途端、亜夢は両手を広げて嬉々として声を上げた。
「綾花、いつでも学校に来れるんだ~!」
「さすがにいつでもっていうのは無理かもしれないけど、綾花が普通に学校に来れるようになって良かったー」
のほほんといった調子で言う亜夢をたしなめながらも、茉莉はどこか晴れやかな表情を浮かべて笑った。
「ありがとう、茉莉、亜夢」
茉莉と亜夢に励まされて、綾花は花咲くようににっこりと笑ってみせる。
「よお、綾」
「元樹くん」
その様子を今まで教室の窓から見守っていた元樹が綾花と茉莉達のやり取りに割って入ると、綾花は元樹の方を振り向き、彼の名を呼んだ。
「あのさ、今日ーー」
「綾花ちゃん~!」
さらに元樹が綾花に話しかけようとしたその時、聞き覚えのあるけたましい声が遠くから聞こえてきた。
突如、聞こえてきたその声に苦虫を噛み潰したような顔をして、拓也は声がした方向を振り向く。案の定、綾花めがけて廊下を走ってくる昂の姿があった。
躊躇なく思いきり綾花に抱きつこうとしていた昂に、拓也は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
抱きつくのを阻止されて、昂は一瞬、顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに話をひたすら捲し立てまくった。
「ゲーム雑誌に掲載されていた、ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』の写真を見たのだ!…‥…‥なんということだ。三者面談などというものに捕まってしまったばかりに、我としたことがこのような重大なサプライズを見逃してしまったとは!」
そう語りながら、昂は持ってきたゲーム雑誌を隅々まで凝視する。
そこには、ペンギンのようなフードを被り、淡い青色のジャンパーとデニムのスカートを着て、拓也達とともにパーソナリティーを務める綾花のーー琴音の写真が掲載されていた。
オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』で、綾花がいつも操作しているキャラと同じ格好をしている綾花の姿は文句なく可愛らしかった。
まさにこの写真は、昂にとって宝物の一つだと言ってしまっても過言ではない。
茉莉は綾花の前に立っている昂に訝しげな眼差しを向けると、二度三度と瞬きを繰り返して聞いた。
「…‥…‥舞波くん。今まで舞波くんの揉め事で綾花が度々、お休みしないといけなかったのに、また、綾花の周りを付きまとっているの?」
「うむ、当然だ!なにしろ、綾花ちゃんは我の彼女ーー否、我の将来の結婚相手だからな!」
茉莉が少し怒ったようにそう告げると、よく見ろと言わんばかりに自分の顔と綾花の顔を指差しながら、昂は自慢げに胸を張ってみせる。
「もう、なに言っているのよ!舞波くん」
一瞬で顔を真っ赤に染め、赤らんだ頬にそっと指先を寄せる綾花を守るように、元樹は瞬時に身構えると拓也とともに昂の前に立ち塞がった。
そんな二人の姿を見るなり、茉莉はいつも以上にテンションを上げて、だけど、あくまでも真剣な表情でこう語り始めた。
「ねえ、亜夢、井上くん、布施くん。あの神出鬼没な舞波くんから、絶対に綾花を守ろうね」
「ああ」
「当たり前だ」
「亜夢も、綾花、守る~」
拓也に続いて、元樹と亜夢も賛同の意思を表明する。
「頑張ろうね」
拓也達の熱意に励まされて、茉莉は嬉しそうに両拳を握りしめてみせた。
「えっと…‥…‥」
「な、なんなのだ! これは! 」
意味が分からず、一人、気圧される綾花を尻目に、昂は両拳を振り上げると不服そうに声を荒らげたのだった。
いつもと変わらぬ日々。
それは、これからもずっとずっと変わらず続いていくのだと、綾花達はこの時、そう思っていたーー。
「最近、綾花の様子がおかしいの」
それは、綾花の母親のそんな言葉から始まった。
一瞬、綾花の父親は綾花の母親が何を言っているのか分からなかった。
「思春期なんだし、色々あるんじゃないのか?」
何気ない綾花の父親の言葉に、綾花の母親は顔を曇らせて俯くと首を横に振った。
「最近、帰りが遅いことが続いたから、それとなく聞いてみたのだけど、何か隠し事をしているみたいにぎこちない態度だったの。拓也くんに聞いてみても、何故かよそよそしいし、何かあったのかもしれない」
「確かにおかしいな」
綾花の父親が顎に手を当てて、真剣な表情で思案する。
すると、綾花の母親は言いづらそうに、おずおずと言葉を続けた。
「それに前に、帰宅途中の綾花を見かけたから声をかけようと思ったんだけど、知らない人の家に入っていったのよね。しかも、その家の奧さんらしき人のことを『母さん』って呼んでいたの」
「…‥…‥母さん?どういうことだ?」
意外な事実に、綾花の父親は目を瞬き、怪訝そうに首を傾げた。
その様子を見守っていた綾花の母親は浮かない顔をしていた。自分の娘が自分ではなく、赤の他人を母親だと呼んでいたのだから無理もない。
綾花の母親は頬に手を当てると、困ったようにため息を吐いた。
「分からないの。…‥…‥本当はあなたにこんなことを頼んじゃいけないことは分かっているんだけど、綾花が帰って来たら、少しそのことに対して問いただしてくれないかしら?」
「…‥…‥僕は、ただの鳥越苦労だと思うがな」
すがるような思いで懇願してくる綾花の母親の姿を見て、綾花の父親は罰が悪そうに眉をひそめたのだった。
綾花の住むマンションは最寄りの駅から少し歩いた先にある。
進の家に寄った後、いつものようにオートロックを解除し、エレベーターで六階へと行くと綾花は先程、進の家で拓也とともにプレイしていた最新作のゲーム、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ3』のことを思い出し、玄関のドアに向けてふにゃっと頬を緩めた。
ーー明日も、たっくんと一緒にゲームがしたいな~。
「おかえりなさい、綾花」
「おかえり、綾花」
頭を振ってドアを開けると、母親の出迎えだけではなく、いつもは忙しくてこの時間帯にはいないはずの父親の姿があって、綾花は思わず少し戸惑った表情をみせてしまった。
「うん…‥…‥ただいま」
ぎこちなくそう応じる綾花の様子に目を瞬き、少しだけ首を傾げながら、綾花の母親は先を続ける。
「綾花。また、帰りが遅い日が続いているみたいだけど、何かあったの?」
「…‥…‥う、ううん、何もないよ。ただ、たっくんと一緒にお友達の家で遊んでいて、帰りが遅くなっただけなの」
指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらず視線をそらした綾花に、綾花の母親は問いかけるような瞳を綾花に向けていた。
「うーん、本当かしら?前に、帰宅途中の綾花を見かけたから声をかけようと思ったんだけど、綾花、知らない人の家に入っていったでしょう?」
「…‥…‥そ、それは、お友達の家でーー」
綾花が綾花の母親に否定の言葉を告げようとする前に、綾花の父親が言葉を挟んできた。
「本当か?その家の奧さんらしき人のことを、『母さん』って呼んでいたらしいな」
「あっ…‥…‥、ううっ…‥…‥」
その言葉に、綾花は口に手を当てて思わず動揺する。
困惑する綾花に、綾花の母親は必死の表情を浮かべて叫んだ。
「綾花、お願い!本当のことを話して!」
「ううっ…‥…‥言えないの。だって、本当のことを話したら、お父さんとお母さんが悲しむもの」
弱音のように吐かれた綾花の言葉に、綾花の父親は自分でもあまり気持ち良くないことを自覚しつつ責めるように言う。
「なら、もう知らない人の家に行くんじゃない」
「知らない人じゃないもの」
その言葉に、綾花はほんの少しふて腐れた表情で俯き、ごにょごにょとつぶやく。
「だったら、本当のことをきちんと話しなさい!」
「ううっ…‥…‥」
「綾花!」
「…‥…‥言えない。言えないもの!!」
綾花の父親の一喝に、感情を爆発させた綾花の声が玄関先にこだまする。
綾花の両親は、その今にも泣き出してしまいそうな表情に思わず動揺した。
「綾花!」
「綾花、待ちなさい!」
その隙に、綾花は踵を返すと、両親の制止を振り切り、その場から走り去っていった。
「…‥…‥はあ。少し、きつく言い過ぎたか?」
頭を抱えてため息をつくと、綾花の父親は、先程、出て行ってしまった愛しい一人娘に想いを馳せる。
「探してくる」
「…‥…‥ええ」
そう言い捨てると、綾花の父親は傘を持ち、不安そうな綾花の母親に見送られながら、足早にマンションを後にした。
暗い雨の降る夜だった。
リビングで進の父親の帰りを待っていた進の母親は、直後に鳴ったインターホンの音にぼんやりと意識を傾ける。
リビングのドアを開けて、インターホンがある部屋へと向かうと、進の母親は不思議そうに問いかけた。
「…‥…‥はい、どなたですか?」
「…‥…‥ううっ、か、母さん」
インターホンから、綾花と思われる少女の声が聞こえてきた。
慌てて進の母親は玄関へと向かうと、ドアを開けて綾花を出迎える。
しかし、玄関先にいたのは、何故か泣きじゃくっている綾花の姿だった。
「ど、どうしたの、ことーー…‥…‥」
「母さん」
驚きににじむ表情のまま、発せられた進の母親の言葉は、同時に開いた綾花に先んじられて掻き消える。
「お父さんとお母さんが、もう、父さんと母さんに会ったらダメって言うの。でも、私、これまでのように、父さんと母さんに会いたい」
言葉の意味を一瞬にして悟ると、進の母親は驚きの表情を浮かべ、すぐにみるみる眉を下げて哀しそうな顔をした。
「…‥…‥会いたい。会いたいの」
「…‥…‥進」
流れ出る涙は止まらない。
雨に打たれ、透きとおった涙をぽろぽろとこぼす綾花の姿に、進の母親の顔が目に見えて強ばる。
目の前で泣き続けている綾花に向かって、進の母親は足を踏み出し、手を伸ばし、綾花をがむしゃらに抱き寄せていた。
「進、大丈夫だから…‥…‥。私達は、これからもずっと、あなたの家族なのだから…‥…‥」
進の母親のゆっくりと落ち着いた声が、綾花の耳元に心地よく届いた。
胸の中で目を見開いた綾花は、進の母親の強い言葉に嬉しそうに顔を歪めて力なくうなだれた。
その日の夜、拓也が部屋で雑誌を読んでいると躊躇いがちなノックの音がした。
うん?
母さんか?
見れば、時刻は夜の九時を回ったところであった。
先程、インターホンが鳴って誰かが来たようだったので、その用件なのかもしれない。
「母さん、どうかしたか?」
「拓也くん」
拓也がそう言った瞬間、耳に飛び込んできたその声を聞いて、脳天から現実に叩き込まれたように感じて慌てて部屋のドアを開けた。
「綾花のおじさん!?」
ドアを開けると、すぐそばに綾花の父親が立っていて、拓也は驚愕した。
拓也の顔を見るなり、表情を曇らせて顔を俯かせると、綾花の父親はやがて声を落としてつぶやいた。
「…‥…‥綾花が、綾花がいなくなってしまったんだ」
「綾花が!」
聞いた瞬間、心臓が跳ねるのを拓也は感じた。指先がわずかに冷える。
「綾花、どうかしたんですか!」
拓也が率直に疑問を口にすると、綾花の父親は掠れた声で答えた。
「綾花が知らない人の家に入っていったと聞いたから、少しきつく言い過ぎてしまってな…‥…‥。そしたら、そのまま、飛び出して出て行ってしまったんだ…‥…‥」
「ーーっ」
不意打ちを食らった拓也はただうろたえるしかなくて、あまりにも唐突で想像だにしなかった出来事に顔が青くなるのを押さえることができなかった。
俺はーーいや、俺達は忘れていたのだ。
綾花に上岡が憑依したことによって、それがもたらすであろう恐怖をーー。
綾花が、いまや残酷な世界に生きているということをーー。
どれだけ目を背けても、どれだけ隠し続けても、いつか来る未来には抗えない。
近い未来、拓也は元樹と全ての元凶である昂とともに残酷な現実を知ることになる。
綾花がーー、綾花の家族と上岡の家族との板挟みになるという事実とともにーー。




