第三十四章 根本的に彼女の呼び方を考えてみる
「ううっ…‥…‥」
翌朝、自分の教室の前で、妙に感情を込めて唸る綾花の姿があった。 教室のドアを開けようと恐る恐る手を伸ばすのだが、すぐに思い止まったように手を引っ込めてしまう。
「昨日、お休みしちゃったから、茉莉も亜夢も心配しているよね」
それを何度か繰り返した後、綾花がぽつりとそう言った。
「心配するな、綾花」
「えっ?」
ため息とともにそう切り出した拓也に、綾花は目をぱちくりと瞬いた。
「俺と元樹の方で、ちゃんとフォローしておいた。だから、大丈夫だ」
「…‥…‥うん」
こともなげに告げる拓也のその言葉を聞いて、綾花は嬉しそうに柔らかな笑みをこぼす。
そうして教室のドアを開けた瞬間、茉莉と亜夢が突然、綾花に抱きついてきた。
「おはよう、綾花」
「わあーい、綾花だ~」
「ふ、ふわわっ…‥…‥。ちょ、ちょっと、茉莉、亜夢」
「 綾花、布施くんから、だいたいの事情は聞いたわよ!あっ、井上くんもおはよう」
言いながら、茉莉は軽い調子で右手を軽く上げて拓也に挨拶する。
「はあ~。俺は相変わらず、綾花のついでか?」
顔をうつむかせて不服そうに言う拓也の言葉にもさして気にした様子もなく、茉莉はさも意外そうにこう話し始めた。
「綾花は以前、隣のクラスの上岡くんに助けてもらったことがあったのよね。どこで知り合ったの?」
「…‥…‥う、うん。まあ、いろいろあってね」
「もう、綾花。それ、答えになってないってば!」
綾花が少し困ったようにはにかんでそう答えると、茉莉は不満そうに口を尖らせる。
だが、少し言いにくそうに躊躇いをみせた後、茉莉は周囲を窺うようにしてからこそっと小声で綾花につぶやいた。
「ねえねえ、綾花」
「どうしたの?茉莉」
言い募る茉莉に、綾花は不思議そうに小首を傾げてみせる。
意味ありげに微笑みながら、茉莉が綾花に訊いた。
「上岡くんって、どう思う?」
「えっ?」
その言葉に、綾花はきょとんとした顔をした。
だがすぐに、綾花は茉莉に向かって花咲くような笑みを浮かべるとありていに答えてみせる。
「私だよ」
「…‥…‥えっ?」
今度は、茉莉が唖然とする番だった。
「ーーっ!?」
それを見かねた拓也が、とっさに右手で綾花の口を塞ぐ。
綾花がきょとんとした顔で顔を上げると、拓也は焦ったように綾花に目配りをしてみせた。
綾花はハッとした。
「あっ、その、綾花はわた、わたしーー渡し船のような奴って言おうとしたんだよな?ほ、ほら、上岡は人望厚い奴みたいだし」
拓也が誤魔化すように必死に言い繕うのを見て、綾花は追随するようにこくりと首を縦に振った。
「う、うん。渡し船って言おうとして、渡しになっちゃったの」
「…‥…‥うーん、いまいち、例えになっていないけど。…‥…‥まあ、綾花らしいか」
綾花らしいまっすぐな答えに、茉莉はことさらもなく苦笑する。
茉莉は興味津々な表情を浮かべると、今度は拓也に訊いた。
「ねえ、井上くん」
「どうしたんだ?星原」
人差し指を立てて問いかける茉莉に、拓也は不思議そうに首を傾げてみせる。
茉莉はいたずらっぽく笑うと、意味深な表情で続けた。
「井上くんは、上岡くんのこと、気にならないの?綾花が何かに例えるほど、井上くん以外の男の子のことをこんなに気にしているのに」
「ーーなっ!?」
思いもかけない言葉を投げかけられて、拓也は唖然とした。
「あっーー、その、上岡は論外だ。まあ、いろいろとあってな」
まさか、綾花と上岡はもはや一心同体だから問題外だとは言えず、拓也はしどろもどろに曖昧な返事を返した。
それをどう解釈したのか、茉莉は呆れたように肩をすくめると、弱りきった表情で口を開いた。
「…‥…‥むっ、井上くんも、綾花と同じこと、言ってる」
「同じこと、言ってる~」
「ほら、星原、霧城、もうすぐ先生が来るぞ」
納得していないのか、両拳を突き出して言い募る茉莉と茉莉と同じ言葉を繰り返す亜夢に、拓也は呆れたようにため息をつく。
「はいはい」
「むうっ」
拓也の言葉にふて腐れたようにぼやきながらもそそくさと自分の席に戻る茉莉と亜夢に倣って、綾花と拓也も自分の席に座る。
そこで、綾花はある事に気づき、拓也に訊いた。
「ねえ、たっくん。布施くんは、今日はお休みなの?」
「元樹なら、今日は陸上部の朝練で少し遅れるって連絡がーー」
「はあはあ…‥…‥。何とか、間に合った」
拓也の言葉を遮るかたちで、始業のホームルームが始まる寸前の時間帯に慌てて教室に入ってきた元樹を見て、綾花は目を瞬かせた。
「みなさん、おはようございます」
「「おはようございます」」
だが、綾花達がいつもの挨拶をする前に、すぐに先生が来て始業のホームルームが始まる。
綾花は先生によってホワイトボードに書き込まれる昨日の課外授業の補足説明などをぼんやりと眺めながら、昨日の課外授業のことを思い出していた。
ーー私、布施先輩に本当に勝てたんだね。
何度、思い返しても心踊らせるバトルに、綾花が嬉しそうにはにかんでいると、不意に誰かが綾花に声をかけてきた。
「瀬生さん」
1年B組の担任が綾花の机の前まで行くと、ぽつりとこうつぶやいた。
「1年C組の先生から話は聞いていたのだけど、大変だったみたいね」
「えっ?…‥…‥は、はい」
その微妙な言い方に、綾花は分からないなりにとりあえず頷いてみせた。
「だいたいの事情は聞いているから、お休みする時は私か、隣のクラスの先生にでも話してね」
「あ、ありがとうございます」
先生、どんな説明をしたんだろう?
疑問に思いながらも、綾花があたふたしながら頭を下げると、1年B組の担任はにこりと穏やかに微笑みながら教壇へと戻っていく。
「綾花」
左後ろの席に座る拓也が、そんな綾花に対して小声で呼びかけた。
「先生がうまくフォローしてくれているから心配するな」
「あっ…‥…‥」
その言葉に、綾花は口に手を当てると思わず唖然として拓也の方を振り返った。
気まずそうに視線をそらした拓也に、不意をつかれたような顔をした後、綾花は穏やかに微笑んだ。
「うん。ありがとう、たっくん」
「ああ」
独り言のようにつぶやいた拓也に、綾花ははにかむように微笑んでそっと俯く。
とその時、不意に感じた横からの視線ーー。
振り返った拓也は、そこで元樹と目が合ってしまう。
途端に元樹はすぐに視線をそらし、一度だけ綾花をちらりと見てから、まるで顔を覆い隠すかのように机に突っ伏した。ふと、綾花を見つめていた時に一瞬だけだが、ほのかに頬を赤く染めていたような気がする。
元樹の一連の行動に一瞬、呆気に取られた拓也だったが、そこで以前、綾花に上岡が憑依したことを知る前のーー教室で綾花のことを見つめていた元樹の姿を連想してしまう。
『俺は瀬生が好きだ!』
あの時のようにーー綾花に何かを告げたそうな視線に送る元樹の態度に、拓也は焦りと焦燥感を抑えることができずにいた。
だからこそ、
「拓也、瀬生、ちょっといいか?」
昼休みになると同時にかけられた、元樹の声は無視することができなかった。
元樹に連れられて訪れた校舎裏は、お昼休みだというのに相変わらず人気のない場所だった。
元樹はそれでも人影がないか確認してから、おもむろに口を開く。
「瀬生、頼む!そろそろ、俺のことを名前の方で呼んでくれないか?」
「な、なんだ?それは」
予想もしていなかった元樹からの突然の懇願に、拓也は思わず唖然として首を傾げた。
だが、元樹はそれには返事を返さずに、さらに先を続ける。
「ほら、舞波も、以前は上岡の影響で瀬生から名前呼びされていたって言うし、俺だけずっと名字呼びっていうのはさ」
「…‥…‥ううっ…‥…‥で、でも」
綾花はうろたえ、そして困り果てた。
突然、名前呼びしてほしいと言われても、どうしたらいいのか分からなかったのだ。
元樹はそんな綾花の気持ちを汲み取ったのか、 手をぱんと合わせて懇願した。
「少しずつで構わない。なかなか慣れないかもしれないけど、ただ、俺が瀬生のことをその…‥…‥綾花って呼びたいだけだから」
「…‥…‥う、うん」
元樹のその言葉に、綾花はみるみるうちに顔を真っ赤に染めて俯いてしまう。
元樹自身はそれで説明責任を果たしたと言わんばかりの顔をしていたが、拓也は不服そうに顔をしかめてみせた。
「あのな、元樹」
拓也が呆れたような声で言うと、元樹はこともなげに言う。
「まあ、いいじゃんか!拓也はずっと瀬生からあだ名で呼ばれていたかもしれないが、俺はまだ名字呼びだしな。なあ、いいだろう?瀬生」
元樹の最後の言葉は、綾花に向けられたものだった。
「頼む!」
「…‥…‥う、ううっ」
幾分真剣な顔の元樹と困り顔の綾花が、しばらく視線を合わせる。
先に折れたのは綾花の方だった。
身じろぎもせず、じっと綾花を見つめ続ける元樹に、切羽詰まったような表情で、綾花が拓也に視線を向けてくる。
そんな綾花を見て、拓也は重く息をつくと肩を落とした。
おそらく、この場に拓也も呼んだのは、綾花が拓也のことを気にして元樹の名前呼びを拒否するのを防ぐためだったのだろう。
「…‥…‥分かった。だけど、『綾花』以外の呼び方でだ」
「ありがとうな、拓也」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる拓也に、元樹は屈託なく笑った。
『綾花』以外の呼び方。
それは以前、見た『未来型アルバム』とは違う呼び方ということになってしまうが、それでも構わないと元樹は思った。
拓也が内心、不満を感じていると、元樹は今度は綾花に話の矛先を向けてきた。
「その、ありがとうな、瀬生…‥…‥じゃなくて、そうだな、『綾』でいいか?」
「…‥…‥う、うん。布施くん…‥…‥じゃなくて元樹くん」
恥ずかしそうに俯くと指先をごにょごにょと重ね合わせ、そう答える綾花に、元樹は一瞬だけ逡巡した後、今度は声を立てて笑った。
そのまま笑い出したい自分を抑えながら、元樹は言う。
「ははっ、凄いな。俺、今、すげえ幸せじゃんか!」
「…‥…‥俺は、逆に怒りが爆発しそうだ」
拓也は険しい表情で腕を組むと、むしろ静かな口調でそう言った。
「拓也は瀬生じゃなくて…‥…‥綾から、いつもあだ名呼びなんだから、別に問題ないだろう」
「我は納得いかぬ!何故、貴様が綾花ちゃんから、名前呼びをされているのだ!」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で誰かがそう吐き捨てた。
「…‥…‥何故、ここにいる?」
突如聞こえてきたその声に、拓也は自分でもわかるほど不機嫌な顔を浮かべて振り返った。
その理由は、至極単純なことだった。
昂が腕を組みながら、さらりと隣の綾花に声をかけているのが拓也の目に入ったからだ。
しかも、今までの状況を把握しているかのような言い回しに、拓也は不満そうに眉を寄せる。
また、『対象の相手の元に移動できる』という魔術を使ったのか?
見れば、元樹もいきなり現れた神出鬼没な舞波に虚を突かれたように目を白黒させていた。
「何故、ここにおまえがいるんだ?」
涼しげな表情が腹立たしくて、拓也はもう一度、同じ台詞を口にした。
「何故、我だけ名字呼びなのだ!綾花ちゃん、我も前と同じように名前で呼ぶべきだ!」
「おまえは綾花が上岡としてーー宮迫琴音として振る舞っている時に、いつも名前で呼ばれているだろう。それに綾花が上岡として振る舞うのを条件に、名字呼びでいいということになったはずだ」
拓也の言葉を散々無視して居丈高な態度で大口を叩く昂に、拓也は低くうめくようにつぶやく。
しかし、そんな拓也の言葉すらも無視して、昂は人差し指を拓也と元樹に突き出すと不敵な笑みを浮かべて言い切った。
「 綾花ちゃんは我と同じクラスメイトになり、そして我の彼女になったのだ!彼氏である我のことを、綾花ちゃんが名前呼びするのは至極当然のことだ!」
露骨な昂の挑発に、元樹は軽く肩をすくめてみせると拓也に訊いた。
「舞波って、毎回、よく分からない理屈を言ってくるよな?」
「…‥…‥ああ」
問いかけるような声で言う元樹に、頭を抱えながら拓也は頷いてみせた。そして、昂に向き直ると、きっぱりとこう告げる。
「綾花は俺の彼女だと言っているだろう!」
「我は認めておらぬ!」
「おまえに認めてもらう必要はない!」
「おまえこそ、勝手に瀬生のーー綾の彼氏を気取るなよ!」
傲岸不遜なまでに自信満々な台詞を昂が吐き出すと、拓也と元樹は思わず、ムキになって昂を睨み付けた。
「…‥…‥ねえ、たっくん、布施くん…‥…‥じゃなくて元樹くん、舞波くん」
いつまで経っても埒が明かない昂との折り合いの中、綾花から遠慮がちな声をかけられて、拓也は昂から綾花へと視線を向ける。
綾花は所在なさげな顔で、おずおずと拓也達を見ていた。待ちくたびれたのか、焦れたようにサイドテールをそわそわと揺らしている。風が吹いて、彼女の長いサイドテールの黒髪が大きく煽られた。
「そろそろお昼に行かない?」
綾花が躊躇うように、不安げな顔でそう問いかけてくる。
拓也は顔を片手で覆い、深いため息をつくと、状況の苛烈さに参ってきた神経を奮い立たせるようにして口を開いた。
「…‥…‥ああ。行くぞ、綾花」
「う、うん!」
「あっーー!!綾花ちゃん、我と一緒にお昼ご飯を食べるべきだ!!」
そう絶叫して後から追ってきた昂とともに、拓也は元樹とともに綾花の手を取ると自分の教室へと戻っていったのだった。




