第三十章 根本的に彼女との繋がりを探して
翌朝、拓也がいつもの駅ではなく、進の家の前で綾花を待ち構えていると、家のドアが開いて小さな人影が飛び出してきた。
進の家の前だというのに、小柄な少女ーー綾花は人目もはばからず、拓也に勢いよく抱きついてくる。
「たっくん、おはよう」
「おはよう、綾花」
太陽の光に輝く銀色の髪を揺らして柔らかな笑みを浮かべた綾花を目にして、拓也は思わず苦笑する。
そんな綾花の手を取ると、拓也は淡々としかし、はっきりと告げた。
「今日、一人で大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
「本当か?綾花の場合、一人にするとすぐに迷子になりそうだけどな」
拓也は咄嗟にそう言って表情を切り替えると、面白そうに綾花に笑いかけた。
指摘された綾花は思わず赤面してしまう。
「…‥…‥ううっ、そんなことないもの」
「…‥…‥冗談だ」
「…‥…‥うっ、たっくんの意地悪」
そう言ってふて腐れたように唇を尖らせる綾花の頭を、拓也は優しく撫でてやった。
一息置くと、拓也は吹っ切れたような表情を浮かべて言う。
「綾花、何か困ったことがあったら、いつでも駆けつけるからな」
「…‥…‥ありがとう、たっくん」
そう答えた綾花の笑顔は、陽の光にまばゆく照らされていつもより眩しく見えた。
「おのれ…‥…‥」
昂は、自分の席で悔しそうにうなっていた。
この日、昂が意図したとおりに、綾花は宮迫琴音として自分のクラスに在籍していた。
その点では、昂の目論見はほぼ成功したと言えるかもしれない。
しかし、である。
ひとつだけ、昂が見誤っていたことがあった。
それは、1年C組の担任と進の両親に事の次第がバレた、ということだった。
必然的に、昂の両親にも知れ渡ることとなり、昨夜、たっぷりと絞られてしまったのだ。
何故、我がこのような目に遭わねばならぬのだ。
しみじみと感慨深く昂が物思いに耽っていると、不意に綾花が少し真剣な顔で声をかけてきた。
「昂、昨日、大丈夫だったか?」
「あや…‥…‥琴音ちゃん」
あくまでも進らしい綾花の励ましの言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
そのやり取りを、拓也は廊下にて複雑な表情を浮かべながら見守っていた。
拓也は綾花に何か声をかけようとして口を開き、でも何も言葉は見つからず、伸ばしかけた手を下におろした。
今の綾花は、上岡としてーー宮迫琴音として振る舞っているだけだ。
それに、今の綾花と俺には何の接点もない。
分かっている。
しかし、拓也の心は大きく動揺した。
奇妙な対抗心が芽生えて、拓也は教室に入ると綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
綾花との会話を中断させられて、昂は一瞬、むっと顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに立ち上がると話をひたすら捲し立てまくった。
「井上拓也、覚えておくがいい!今や、琴音ちゃんは我のクラスメイトだ!つまり、貴様と琴音ちゃんとは何の接点もないわけだ!」
「ーーっ」
昂が不適な笑みを浮かべて意味深な宣戦布告を告げると、拓也は悔しそうに言葉を詰まらせる。
「…‥…‥そんなことない!俺はーー」
「井上」
拓也がそう言って昂に訴えかけようとした矢先、不意に綾花の声が聞こえた。
拓也が振り向くと、綾花はてらいもなく言う。
「今日は一緒に来てくれてありがとうな」
「いや…‥…‥」
拓也はそう答えたが、あくまでも進だという意識が強いせいか、言葉に戸惑いの色を隠せなかった。
そんな中、教室へと向かう廊下の途中で、元樹は隣の教室で不愉快そうに腕を組んだ拓也と少し気まずそうな表情を浮かべる綾花の姿を見かけた。
二人と対峙する昂の物言いは、相変わらずーーいや、いつも以上に尊大不遜な態度が際立っている。
「よお、宮迫」
「布施」
元樹が拓也と綾花のやり取りに割って入ると、綾花は元樹の方を振り向き、彼の名を呼んだ。
「なあ、星原達に学校に来れない理由を聞かれたら、俺が考えて答えておいてもいいか?」
「うん?俺は別に構わないけど」
元樹の問いかけに、綾花は拍子抜けするほど、あっさりとそう答えてみせた。そして唇を引き結ぶと、拓也と顔を見合わせる。
「…‥…‥俺も、それで構わない」
「おい、井上!」
拓也はそれだけを言い捨てると、いてもたってもいられなくなったのか、踵を返すと呼び止める綾花を無視してその場から立ち去っていった。
「あれ、井上くんと…‥…‥布施くん?」
始業のホームルームが始まるぎりぎりの時間帯に慌てて教室に入ってきた拓也と元樹を見て、茉莉は目を瞬かせた。
「井上くん、今日は綾花と一緒じゃないんだ?綾花は、今日は休みなの?」
茉莉が不思議そうに訊くと、少し不機嫌な拓也の代わりに元樹が目を細めて切り出す。
「ああ、瀬生は今日は休みだ」
「もしかして、綾花、病気か何か?」
茉莉はわずかに目を見開いた後、神妙な表情で元樹に訊いた。
「違う。今日は、舞波のせいで休みなんだよ」
「えっ?舞波くんのせいって、どういうこと?」
呆気にとられたような茉莉を見て、元樹もまた決まり悪そうに視線を落とす。
「昨日、舞波のもめ事に、瀬生が巻き込まれてな」
まるで苛立つように意識して表情を険しくした元樹の姿に、確信に満ちた表情で茉莉は顎に手を当て思案し始める。
「うーん。綾花、やっぱり、舞波くんに何か弱みを握られているのね」
「…‥…‥あ、ああ」
まさか、今日は瀬生は『宮迫琴音』として登校しているからとは言えず、元樹は曖昧な返事を返した。
今まで元樹と茉莉のやり取りを傍観していた拓也だったが、意を決したように茉莉の方を振り向くと、神妙な面持ちで話し始める。
「その星原…‥…‥、綾花のことなんだが、しばらく学校を休みがちになるかもしれない」
「ええっ!」
「綾花、休みなの~!」
茉莉の言葉にかぶせるように、ひょっこりと茉莉達の前に姿を現した亜夢が悲痛な声を上げる。
すると、茉莉は不満そうに唇を尖らせて拓也達に聞いた。
「それも、舞波くんのせい?」
「…‥…‥ああ。舞波のせいでもあるな」
拓也が噛みしめるように頷くと、心外そうに両手を震わせながら、茉莉はあふれ出る感情を声に乗せて吐き出した。
「もう!綾花がそんな目にあっているのに、井上くんも布施くんも、どうしてあの舞波くんと仲良くしているのよ?」
「うっ、それは…‥…‥」
痛いところを突かれて、拓也は言葉を詰まらせた。
その様子を見かねた元樹が、真剣な表情で拓也達の会話に割って入ってくる。
「星原、霧城、誤解するなよ。これは、瀬生のためでもあるんだ」
元樹の言葉に、心動かされるものがあったのだろうか。
幾分、表情をゆるめて、茉莉が尋ね返す。
「布施くん、それってどういうこと?」
「ほら、隣のクラスの上岡が今、行方不明になっているだろう」
「上岡くん?」
元樹の言葉に、茉莉は訝しげに小首を傾げてみせる。
呆気に取られている拓也に目配りしてみせると、元樹はさらに続けた。
「瀬生は以前、上岡に助けてもらったことがあってな。それ以来、上岡と仲が良かった舞波や隣のクラスのみんなと、頑張って仲良くなろうと努力しているんだ」
それでも腑に落ちないような様子で、茉莉はなおも元樹に訊いた。
「それならそうと、綾花、どうしてそのことを私達に話してくれなかったのかな?」
「むうっ~」
茉莉の不服そうな言葉を引き継いで、不審そうに頬を膨らせて亜夢は言う。
「言い出せなかっただけだろう。瀬生は変なところで引っ込み思案なところがあるからな」
「それでも、綾花がたまにしか学校に来れないのは舞波くんのせいよね?」
核心に迫りそうな茉莉の質問に、元樹は頷いた。
「ああ。ただ、そのことに関しては、詳しくは言えない。だけど、頼む!星原達にも、瀬生がいつでも学校に来れるように協力してほしいんだ!」
元樹がふてぶてしい態度できっぱりとそう答えると、茉莉は意味ありげな表情で元樹を見た。
「ーーなんだ?」
元樹が戸惑ったように訊くと、茉莉はにっこりと笑って言った。
「別に。ただ、布施くん、ううん、井上くんも綾花のこと、大切に思ってくれていて嬉しいなと思ってー」
「星原は、協力してくれるのか?」
噛みしめるようにくすくすと笑う茉莉に、怪訝そうに元樹が訊ねる。
「まあー、綾花のためだし、布施くんには、布施先輩のことでいろいろと助けてもらっているからね」
「あっ!亜夢も、綾花が早く、いつでも学校に来れるように協力する~!」
「ありがとうな、星原、霧城」
茉莉と亜夢の言葉に対して屈託なく笑う元樹に、拓也は訝しげに眉をひそめる。
「おい、元樹。どうする気だ?」
「舞波がこれ以上、問題を起こさないように俺達で見張ろうと思う」
「舞波を?」
予想外の元樹の言葉に、拓也は少し意表を突かれる。
元樹はつかつかと近寄ってきて、拓也の隣に立つと、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で言った。
「下手をしたら舞波の策略で、瀬生は高校生活をずっと『宮迫琴音』として振る舞い続けないといけなくなるかもしれない」
「…‥…‥そういうことか」
苦々しい表情で、拓也は隣のクラスの方を見遣る。
目下、一番重要になるのは、舞波の行動だ。
舞波の目的は、綾花を自分と同じクラスにさせることだ。
綾花を上岡としてーー『宮迫琴音』として振る舞わせることを発端として、このまま、綾花を自分のクラスに留めておくつもりなのだろう。
それだけは、何としても防がなければならない。
「井上くん、布施くん、さっきはごめんね」
「…‥…‥あ、ああ」
茉莉が手を合わせて謝罪してくると、拓也は何とか強引に愛想笑いで橋を繋ぐ。
拓也達の顔を見るなり、茉莉はいつも以上にテンションを上げて、だけど、あくまでも真剣な表情で語り始めた。
「ねえ、井上くん、布施くん。あの神出鬼没な舞波くんから、絶対に綾花を助け出そうね」
「ああ」
「当たり前だ」
「亜夢も、綾花、守る~」
拓也に続いて、元樹と亜夢も賛同の意思を表明する。
「頑張ろうね」
拓也達の熱意に励まされて、茉莉は嬉しそうに両拳を握りしめてみせた。
こうして、授業が始まる前から波瀾の予感を醸しつつ、実質、初となる綾花の『宮迫琴音』としての学校生活は幕を開けようとしていたのであった。




