第二十九章 根本的に現実は理想とは程遠い
『進を綾花ちゃんにしてしまえばいい』
あの時、夢見るような表情を浮かべてうっとりと言った自分の言葉が、まるで走馬灯のように昂に甦る。
夕闇色の教室を背景に、長い銀色の髪の少女が立っていた。
昼下がりの放課後の教室に、場違いなほど幻想的な光景。
「…‥…‥うむっ。やはり、琴音ちゃんは可愛いのだ」
先生が来て拓也達が今回の件について話し始めても、昂は自分の席に座ったまま、銀色の髪の少女ーー綾花をぼんやりと眺めながら、顎に手を当てまんざらではないという表情を浮かべていた。
「おい、舞波!聞いているのか!」
あくまでも進としてーー宮迫琴音として振る舞っている綾花を満喫できてご機嫌な様子の昂に、1年C組の担任は突き刺すような眼差しを向ける。
それでも綾花に見とれる昂を現実に戻したのは、1年C組の担任のこんな言葉だった。
「舞波、井上達から全ての事情を聞かせてもらった。この後、じっくり話を聞かせてもらうからそのつもりでな」
「我は納得いかぬ!」
唐突に席から立ち上がると、昂は憤慨した。
「何故、この我が呼び出しなどを受けねばならんのだ!」
「それだけのことをしたからだ!」
昂の抗議に、1年C組の担任は不愉快そうに言葉を返した。
打てば響くような返答に、昂が思わず、たじろいていると、1年C組の担任は気を取り直したように綾花達に向き直り、話を切り出してきた。
「つまり、瀬生と宮迫は同一人物だが、舞波の魔術の影響で私も含め皆が、どちらもこの高校に在籍しているという誤った認識になっているわけだな」
「はい」
拓也が頷くと、1年C組の担任は困惑したように続けた。
「しかし、私は宮迫はともかく、瀬生の担任ではないため、彼女の方の出席日数はかなり厳しいと思うが」
「無理なのは、承知の上です」
1年C組の担任の言葉を打ち消すように、拓也はきっぱりとそう言い放った。
「ただ、上岡のことを知っていて、さらに舞波の魔術のことを理解しているのは上岡と舞波の担任である先生しかいないと思ったんです。俺達の担任は、そういうことにはうといので」
拓也はそこまで告げると、視線を床に落としながら請う。
「どうかお願いします!」
「先生、お願いします!」
「俺からも、お願いします!」
拓也に相次いで、綾花と元樹も粛々と頭を下げる。
その様子に、1年C組の担任は額に手を当ててため息をつくと朗らかにこう言った。
「はあ…‥…‥。それにしても、あの舞波に、上岡以外で友人がいるのは少し変だとは思っていたが、まさか、上岡が瀬生に憑依した影響だったとは」
「…‥…‥すみません、先生。驚かせて…‥…‥。でも、本当に俺は上岡進なんだ」
淡々と口にする1年C組の担任に、綾花は申し訳なさそうに謝罪した。
すると物言いたげな瞳で、1年C組の担任は綾花のことを見つめてくる。
「瀬生は、本当に上岡でもあるんだな」
「ああ」
再度、確認するかのように重ねて尋ねてくる1年C組の担任に、綾花だけではなく拓也と元樹も頷いてみせた。
こちらに背を向けたまま、1年C組の担任は腕を組んで考え込む仕草をする。
「この間の追試の件といい、舞波が関わるとろくでもないことばかり舞い込むな」
1年C組の担任が、呆れたようにため息をつく。
「全く持って信じられない話だが、どうやら全て本当のことのようだ」
驚き半分、納得半分の声で、1年C組の担任が続ける。
「わかった。私の方で出来る限りのことをしてみよう」
「あ、ありがとうございます」
1年C組の担任が幾分、真剣な表情で頷くと、綾花達は嬉しそうに顔を輝かせる。
しかし、単なる事実の記載を読み上げるかのような、低く冷たい声で、1年C組の担任はさらに言葉を続けた。
「だが、舞波。おまえにはこの後、じっくり話を聞かせてもらうつもりだから覚悟しておけ!」
「我は残らん!!」
1年C組の担任の言葉を打ち消すように、昂はきっぱりとそう言い放った。
「残れば、我は綾花ちゃんと一緒に下校できぬではないか!」
「当たり前だ」
昂が心底困惑して叫ぶと、拓也はさも当然のことのように頷いてみせた。
動揺したようにひたすら頭を抱えて悩む昂に、綾花はおそるおそる、といった風情で昂に近づいていった。
「おい、昂」
「進、頼む!今すぐ、我を助けてほしいのだ!」
「…‥…‥またかよ」
綾花の方に振り返り、両手をぱんと合わせて必死に頼み込む昂に、綾花は苦り切った顔をして額に手を当てた。
あまりにも勝手極まる昂の言い草に、拓也は不満そうに顔をしかめてみせる。
「はあっ…‥…‥。行くぞ、綾花」
「ーーあっ、うん」
拓也の心情を察したのか、綾花の表情は先程までの進の表情とはうって変わって、いつもの柔らかな綾花のそれへと戻っていた。
そんな中、進から綾花への豹変ぶりという、あまりにも衝撃的な光景を見せられて、1年C組の担任は二の句を告げなくなってしまっていた。
「…‥…‥綾花ちゃん!我も一緒にーー」
「昂くんはダメ!」
すかさず、1年C組の担任の隙をついて、昂は綾花のもとへ向かおうと身を翻したのだが、綾花の様子を見に教室へとやってきた進の母親によってあっさりと腕をつかまれてしまう。
「な、何故、進の母上がここにいるのだ!?」
予想もしていなかった衝撃的な出来事に、昂は絶句する。
進の母親は昂の方を見遣ると、目を伏せてきっぱりと言った。
「琴音のーー進のことが気になったから様子を見に来たの。昂くん、あれほど、魔術を使わないようにと言ったのにも関わらず、また、魔術を使ったそうじゃない!」
「…‥…‥そ、それは」
にべもなく言い捨てる進の母親に、昂は恐れをなした。
昂は若干逃げ腰になりながらも、昂は進の母親から拓也達へと視線を向ける。
「…‥…‥お、おのれ~!井上拓也!そして、布施元樹!貴様ら、進の母上に根回しして、我を綾花ちゃんと一緒に下校させぬようにするのが狙いだったのだな!」
「自業自得なだけだろう」
「ああ」
昂が罵るように声を張り上げると、拓也と元樹は不愉快そうにそう告げた。
「…‥…‥おのれ」
歯噛みする昂が次の行動を移せない間に、拓也は元樹とともに綾花の手を取ると昂の制止を振り切り、教室から立ち去っていったのだった。
更衣室に立ち寄り、いつもの格好に戻った綾花と元樹とともに昇降口に辿り着いた拓也は、綾花に振り返ると一呼吸置いて言った。
「綾花、先生に協力してもらえることになって良かったな」
「うん、たっくんと布施くんと舞波くん、そして、母さんのおかげだよ」
穏やかな表情で胸を撫で下ろす綾花を見て、拓也も胸に滲みるように安堵の表情を浮かべる。
すると両手を広げ、生き生きとした表情で綾花はさらにこう言う。
「たっくん、布施くん、ありがとう!」
「ああ」
拓也が頷くと、綾花は嬉しそうに顔を輝かせた。
その不意打ちのような日だまりの笑顔に、元樹は思わず見入ってしまい、慌てて目をそらす。
「あ、ああ」
「元樹、協力してくれてありがとうな」
ごまかすように人差し指で頬を撫でる元樹に、拓也も続けてそう言った。
少し間を置いた後、綾花は人差し指を立てるときょとんとした表情で首を傾げてみせる。
「ねえ、たっくん。明日は、私は『宮迫琴音』として登校したらいいんだよね。なら、しばらく宮迫琴音として登校して、落ち着いたら交互にしたらどうかな?」
「それはダメだ」
綾花の当然の疑問に、拓也はきっぱりとそう言ってのけた。
うーん。
一度、『宮迫琴音』としての学校生活に慣れてから、交互にした方がいいんじゃないのかな?
ますます困惑して、綾花は不思議そうに聞き返す。
「えっ、なんで?」
「『宮迫琴音』として登校するのは、隣のクラスのみんなと打ち解ける間だけだ。長く続けるのは他の人にバレる可能性が増すことにも繋がるし、綾花がずっと休んでいたら、星原や霧城達が心配するだろうし、それにーー」
「拓也もさ、俺達のクラスに、早く瀬生が戻ってきてほしいんだろう」
いつもそばにいるはずの綾花が、いない時があるのは嫌だからーー。
そう告げる前に先じんで言葉が飛んできて、拓也は口にしかけた言葉を呑み込む。
首を一度横に振ると、代わりに拓也は不満そうに元樹に言った。
「あのな、 元樹」
「なあ、拓也もそう思うよな?」
元樹から重ねて問われて、拓也は意を決したように息を吐くと必死としか言えない眼差しを綾花に向けた。
「…‥…‥ああ。綾花には、俺達のクラスにできるだけ早く戻ってきてほしい」
「あっ…‥…‥」
拓也からあくまでも真剣な眼差しでそう告げられて、綾花はただただぽかんと口を開けるよりほかなかった。
「…‥…‥うん」
しかし、すぐに意味を図りかねると遅れて襲ってきた恥ずかしさやらこそばゆさやらで、綾花は顔を覆った。顔が一瞬で桜色に染まってしまう。
綾花と同じく顔を赤らめながらも、話を切り替えるように拓也は言った。
「な、なあ、綾花。そろそろ時間も遅いし、帰らないか?」
「…‥…‥う、うん」
あわてふためいたように拓也の元に歩み寄った綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て、元樹は少し名残惜しそうにーーそして羨ましそうな表情をして言う。
「はあ~。俺は今から部活だからな…‥…‥」
腕を頭の後ろに組んで昇降口の壁にもたれかかっていた元樹の瞳が、拓也の隣で嬉しそうにはにかんでいる綾花へと向けられた。
「なあ、瀬生。宮迫琴音として振る舞っている間、何か困ったことがあったら、いつでも俺に言えよな」
「…‥…‥えっ?」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、元樹の顔を見つめたまま、瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
綾花以上に動揺したのは拓也だ。
何気ない口調で言う元樹の言葉に、拓也は頭を抱えたくなった。
「おーい、元樹!部長が早く部活に来いってさ!」
とその時、陸上部の生徒の一人が手を振って元樹に呼びかけた。
「ああ!それじゃあ、また明日な!」
拓也が何かを言う前に、元樹は陸上部の仲間のもとに駆け寄るとそのまま部室へと向かっていく。その姿からは、先程の言葉などないがしろにされているようだった。
無意識に表情を険しくした拓也に、綾花は幾分、真剣な表情で声をかけた。
「…‥…‥あのね、たっくん。さっきの話だけど、私、クラスのみんなに琴音としてちゃんと話をしてみる」
「…‥…‥綾花」
聞いた瞬間、思わず心臓が跳ねるのを拓也は感じた。知らず知らずのうちに、拳を強く握りしめてしまう。
「いつまでも、悩んでいちゃダメだよね」
うつむきがちにそう言った綾花だったが、しかし、言葉を継ぐために顔を上げた。
「進の時と違って、うまく伝わらないかもしれないけれど、一生懸命、話してみるね」
「ああ。困ったことがあったら、俺も手伝うな」
「ありがとう、たっくん」
拓也のその言葉を聞いて、綾花は嬉しそうに笑みをこぼしたのだった。




