第二十八章 根本的に彼と彼女の相違点
「ううっ…‥…‥舞波くん、いるかな?」
綾花は困り果てたように、隣の教室の前で立ち往生していた。
昼休みになると、綾花は思いきって拓也と元樹とともに、今朝、茉莉が話していた『宮迫琴音』としての自分が隣のクラスに在籍しているのは何故なのか、昂に尋ねようとして隣の教室へと赴いていた。
かってのクラスメイト達の声に恐縮しながらも、綾花は教室の中をそっと窺い見る。
「貴様ら、何の用だ。断っておくが、我は何故、琴音ちゃんが我のクラスにいることになっているのかなど知らぬぞ」
「…‥…‥おい」
綾花達が教室に入ってくるなり、進んで席を立ち、自ら自白してきた昂に、拓也はげんなりとした顔で辟易する。
綾花は昂の顔を見るなり、切羽詰まった表情で言い募った。
「舞波くん!それって、どういうこと?」
「むっ。実は今朝、綾花ちゃんに渡した『琴音ちゃんの生徒手帳』は、あの『未来型アルバム』や『交換ノート』と同じく、我が魔術で産み出したものでな。例え、実在しない架空の人物だったとしても、以前からこの学校に在籍していたように認識されるのだ」
「ええっ!それって、私が舞波くんのクラスに最初からいたようになるの!?」
素っ頓狂な声を上げた綾花に、昂はさも当然というように頷いた。
「うむ。そうすれば、進の時の同じように、我と綾花ちゃんはめでたく入学当初から同じクラスだったという現状になれるという寸法だ。綾花ちゃんは我と同じクラスになれて、我はいつでも綾花ちゃんに会うことができる。まさに、一石二鳥だ」
「…‥…‥どこがだ」
間一髪入れず、この作戦の利点を語って聞かせた昂に、拓也は苛立たしげに顔をしかめる。
だが、昂は拓也と元樹を見遣ると、不満そうに眉をひそめてみせた。
「しかし、一度、使った者は再度、利用することができぬ。そして、琴音ちゃんの正体を知っている者には認識されぬようだ。改良の余地があるな」
「そうなんだ」
「…‥…‥なんだ、それは」
神妙な表情でつぶやく綾花に対して、拓也は呆れたようにため息をつく。
そこで、元樹は昂の台詞の不可思議な部分に気づき、昂をまじまじと見た。
「…‥…‥一度、使ったって、まさか、おまえ、高校受験の際にも使ったのか?」
「無論だ!なにしろ、まだ、『交換ノート』が未完成だったのだからな!そうでもしなければ、ギリギリ合格などで我がこの高校に受かるわけがないではないか!」
「…‥…‥頭が痛くなってくるな」
昂が至極真面目な表情でそう言ってのけると、元樹は思わず呆気に取られてしまう。
拓也は額に手を当てて呆れたように肩をすくめると、弱りきった表情で口を開いた。
「はあ…‥…‥。何度も言うが、おまえ、魔術は謹慎処分になっていたんじゃなかったのか?」
「綾花ちゃんのためなら、謹慎処分など我の知ったどころではない」
苦虫を噛み潰したような拓也の声に、不遜な態度で昂は不適に笑う。
「ねえ、舞波くん」
しばらく考えた後、綾花は俯いていた顔を上げると昂に言った。
「どうかしたのか?綾花ちゃん」
「ごめんね。私、やっぱり、舞波くんと同じクラスにはなれない」
きっぱりとそう言い切った綾花に、昂は心底困惑して叫んだ。
「な、何故だ!?」
予想もしていなかった衝撃的な言葉に、昂は絶句する。
彼女が発したその言葉は、昂にとって到底受け入れがたきものであった。
拓也と元樹と昂を交互に見遣ると、綾花は申し訳なさそうに頭を下げた。
「…‥…‥だって、たっくん、布施くん、茉莉、亜夢、クラスのみんなと離ればなれになりたくない…‥もの…‥…‥」
言葉に詰まった綾花は顔を真っ赤に染め、もういっそ泣き出しそうだった。
綾花の決意の固さに、一瞬、昂がたじろいた。
それでも必死に、昂は理由をひねり出そうとする。
「わ、我はたまに、琴音ちゃんとして登校してほしいだけなのだ。綾花ちゃん、そんなこと言わず、我の頼みを聞いて…‥…‥」
説得を試みようとして、だが、その声は昂の喉の奥で尻すぼみに消えてしまった。それは綾花の表情を見たからだ。綾花が涙を潤ませているのを、確かに昂は目撃したのだ。
昂は焦ったように言った。
「…‥…‥むむっ、わ、分かったのだ、綾花ちゃん。ならば、我は綾花ちゃんではなく、進に請う」
「進に?」
戸惑った顔で、綾花は昂の顔を見た。
昂は頷くと、綾花にこう告げる。
「我が補習を受けている時、進は言っていたな。進としてみんなに会いたいと」
「うん」
眉根を寄せて、綾花は視線を手元に落とす。くるんと巻かれたサイドテールが、ふるふると首を振った動作に合わせて揺れる。
「進としては会えぬかもしれぬが、琴音ちゃんとしてなら、クラスのみんなにまた、会うことができるではないか」
「…‥…‥クラスのみんなに」
なりふり構わず、浮き足立ったように言い募る昂に、綾花は戸惑うように揺れていた瞳を大きく見開いた。
そんな綾花を放置したまま、昂は容赦なく話を進めていった。
「前のようにメッセージを送るのもよいが、直接、会った方が確実であろう。もちろん、綾花ちゃんが進としてーー琴音ちゃんとして振る舞ってくれるというのなら、我はできる限りの尽力をつくそう」
綾花は即答できなかった。
進としてーー琴音として振る舞ってほしいと言われても、どうしたらいいんだろう?
切羽詰まったような表情で、綾花が拓也に視線を向ける。
すると拓也は綾花から顔を背けて、沈痛な面持ちで言った。
「…‥…‥俺は嫌だ。綾花には…‥…‥このままでいてほしい」
「…‥…‥うん」
拓也の嘆き悲しむ姿に、綾花はどうしようもない気持ちになって言葉を濁らした。
そんな綾花を、拓也は何とも言えない顔で見つめる。
舞波の考えに否定的だったはずの綾花は、上岡として説得された途端、先程までの自分の言動を百八十度、覆してしまった。
上岡は綾花の心の一部に過ぎない。
だけど言い換えれば、上岡の心はいい意味でも悪い意味でも、綾花の心に影響を与えてしまうということだ。
拓也は頭を抱えると、もはや諦めたように息をつく。
「…‥…‥分かった」
「えっ?」
その言葉に、綾花は驚いたように目を見開いた。
拓也は綾花の両手を取ると、淡々としかし、はっきりと言葉を続ける。
「だけど、絶対に、綾花だとバレないようにすること。いいな?」
「…‥…‥うん、ありがとう、たっくん」
綾花がぱあっと顔を輝かせるのを見て、拓也は思わず苦笑してしまう。
その暖かな手のぬくもりを感じながら、拓也は元樹に視線を移した。
「元樹、そういうことだから、今回も協力してくれないか?」
「ああ」
何のてらいもなく言う拓也に対して、元樹は片手を掲げると了承の意を示した。
「しかし、綾花が上岡としてーー宮迫琴音として振る舞っている間、当の綾花自身はどうするかだな。ずっと欠席としているわけにはいかないし、無断で休んでいることを知ったら、綾花の両親は困惑するだろうしな」
拓也が静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始めた。
ふと脳裏に、ツーサイドアップに結わえた銀色の髪の少女ーー上岡として振る舞っている時の綾花の姿がよぎる。
気持ちを切り替えるように何度か息を吐き、まっすぐに綾花を見つめ直した拓也は思ったとおりの言葉を口にした。
「まあ、そこは上岡の両親と、上岡の担任にも協力してもらって、俺達で何とかフォローしていくしかないか」
拓也がそう告げるや否や、綾花は拓也にしがみついて嬉しそうに切々と訴える。
「たっくん、ありがとう!ありがとう!」
「うむ。綾花ちゃん、大船に乗ったつもりで、我に全てを任せるべきだ!」
「ふわっ、ちょ、ちょっと、舞波くん」
それだけ言い終えると、ついでのように昂が綾花の背中に抱きついてきた。
「おい、舞波!綾花から離れろ!」
「我は綾花ちゃんから離れぬ!」
ぎこちない態度で拓也と昂を交互に見つめる綾花を尻目に、拓也は綾花から昂を引き離そうと必死になる。だが、昂は綾花にぎゅっとしがみついて離れようとしない。
「ふわわっ」
激しい剣幕で言い争う拓也と昂に対抗心を覚えたのか、気がつくと元樹は右手を伸ばし、綾花の腕を無造作につかんでいた。
「…‥…‥ふ、布施くん?」
顔を覗き込まれた綾花が、きょとんと顔を上げる。そして、元樹と視線が合うと、今度は恥ずかしそうに俯いて頬を赤らめた。
それにつられて、綾花の顔を覗き込んでいた元樹も、顔を真っ赤に染めて思わず視線を逸らしてしまう。
「おい、元樹!」
「おのれ~、貴様!我が、綾花ちゃんに抱きついているのを邪魔するとは許さぬでおくべきか!」
自分とは違い、綾花に抱きついているはずの拓也と昂からの意外な反応に、元樹は一瞬、目を丸くした後、今度は声を立てて笑った。
そのまま笑い出したい自分を抑えながら、元樹は言う。
「はははっ、拓也らしいな。まあ、俺も拓也と一緒で、瀬生を離すつもりなんて毛頭ないけどな!」
「一緒にするな!」
「あっ、悪い。舞波とは違うから安心しろよ」
呆れ顔の拓也にそう言われても、元樹は気にすることもなく思ったことを口にする。
「ううっ…‥…‥」
そんな中、激しい剣幕で言い争う拓也と昂と元樹に、綾花は身動きが取れず、窮地に立たされた気分で息を詰めていたのだった。
「うーん」
放課後の更衣室にて、綾花は思い悩んでいた。
銀色の髪はツーサイドアップに結わえており、姿見の前で腰に手を当てて悩ましげに首を傾げている。
「…‥…‥なんか、変な感じだよな」
小さな呟きは、誰にも聞こえない。
ほんの少しの焦燥感を抱えたまま、綾花は遠い目をする。
これから、自分のーー進の担任に全ての事情を話すとあって、綾花は若干、緊張感をみなぎらせていた。
綾花と琴音が同一人物であることを1年C組の担任に分かりやすく説明するため、今回はあえて最初から進としてーー琴音として振る舞っている。
昂が産み出したあの生徒手帳のおかげで、昨日までの琴音の出席日数は全て出席ということになっているが、これからはそういうわけにはいかない。
少なくとも、自分のーー進の担任の力が必要不可欠だろう。
そう思い至ってーーだがすぐに、綾花は頬を膨らませると、さも重要そうにこう言い足した。
「ああっ!…‥…‥もう、先生になんて言えばいいんだよ!」
勢いよくそう叫ぶと、綾花は乱れたツーサイドアップを整えながら不服そうに唇を噛みしめる。
両親の時と同じように信じてーーいや、受け入れてもらえるだろうか?
かっての自分のクラスに行って、1年C組の担任に全てを打ち明ける。
そう決めた今でも、それは進の心にしこりとして残っていた。
話したいーーだが、怖い。
二律背反にさいなまれ、綾花が困ったようにため息を吐いた時、ちょうどノックの音が響いた。
「琴音、準備できたの?」
「ああ」
しばらくして更衣室のドアが開けられると、サポートとして駆けつけてくれた進の母親が、穏やかな声で綾花に話しかけてきた。
「井上くんが、今から先生に話すからって、琴音にも来てほしいみたいよ」
「井上が?」
綾花が、きょとんとした顔で目を瞬かせる。
その様子を見て、進の母親は嬉しそうにくすりと笑みをこぼしていた。




