第二十六章 根本的に彼の作戦には穴がある
「綾花ちゃん~!」
いつもと同じように学校に行く前に、拓也が綾花と駅で待ち合わせていると、拓也の耳に勘の障る声が遠くから聞こえてきた。
突如、聞こえてきたその声に苦虫を噛み潰したような顔をして、拓也は声がした方向を振り向く。
案の定、綾花めがけて歩道を突っ走ってくる昂の姿があった。
躊躇なく思いきり綾花に抱きつこうとしていた昂に、拓也は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
抱きつくのを阻止されて、昂は一瞬、顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに話をひたすら捲し立てまくった。
「昨夜、ついにあの魔術道具が完成したのだ!」
「…‥…‥ねえ、舞波くん」
意気揚々と意気込みを語る昂に、綾花は魔術と聞くと心配そうに小首を傾げてみせる。
そして、さらに表情を曇らせると、綾花は沈痛な面持ちで昂に訊ねた。
「…‥…‥また、舞波くんのことだから、変なこと、企んでない?」
「おまえ、この間の旅行でも、魔術は謹慎処分だと言われていただろう!」
「あの魔術道具のためなら、謹慎処分など我の知ったどころではない」
綾花に相次いで、不服そうな顔をした拓也に、不遜な態度で昂は不適に笑う。
「綾花ちゃん…‥…‥いや、進。ついに、我はあれを完成させるに至ったぞ!」
「…‥…‥うっ、あれ?」
昂が己を奮い立たせるように自分自身に対してそう叫ぶと 、綾花は躊躇うように不安げな顔でつぶやいた。
「我の魔術の集大成を駆使して、ついに実現化することができたのだ!」
「…‥…‥ひょっとして」
昂のその言葉に、綾花は何事か気づいた様子でつぶやく。
「綾花、舞波の魔術の集大成って?」
拓也が綾花に聞き返すと、綾花は振り返り、緊張をみなぎらせた表情でこう告げた。
「前に、舞波くんが究極の魔術道具を産み出そうとしていたことがあったの。あの時はうまくいかなかったんだけど」
「な、なんだ、それは?」
拓也は綾花から昂の究極の魔術道具の話を聞くと、頭を抱えてうめいた。
「…‥…‥ごめんね、たっくん。究極の魔術道具ーー、まだ、それしか、舞波くんから教えてもらっていないの」
「…‥…‥よくは分からないが、ろくでもないものなのだけは確かだな」
顔を俯かせて戸惑うような表情を浮かべる綾花を見て、拓也は緊張で顔を引き締めた。
舞波のことだ。
綾花に上岡を憑依させた時のように、また何か、ろくでもないことを考えているのかもしれない。
悶々と苦悩していると、そんな不安さえ拓也の頭をもたげてくる。
舞波の魔術で、さらに究極の魔術道具と聞くと、さすがに嫌な予感しかしてこない。
「見るのだ、綾花ちゃん!これが、究極の魔術道具ーー」
疑問を消化できずに固まる拓也をよそに、昂はビシッと綾花を指差して殊更に持ってきていた魔術道具を鞄から取り出す。
「『交換ノート』だ!この二冊のノートは対になっており、片方に書いた文章はもう片方にも現れる。これさえあれば、明日の追試の時でも、綾花ちゃんから答えを教えてもらえるという寸法だ!綾花ちゃんが気に入るようにと、綾花ちゃんのノートの表紙はペンギンの写真に張り替えてある!」
「…‥…‥こ、交換ノート?」
「ペンギンさんの写真!」
あまりにも意外な昂の言葉に、拓也は呆然としてうまく言葉が返せなかった。
しかし、呆れ果てる拓也を尻目に、綾花は両手を握りしめて期待に満ちた眼差しで目を輝かせた。
視点を転じて、拓也は綾花に向かって声をかける。
「綾花、舞波の追試の手伝いはするな」
「…‥…‥う、うん」
その言葉に、綾花はほんの少しふて腐れた表情でうつむき、ごにょごにょとつぶやく。
「なにぃーー!」
拓也のその何気ない言葉を聞いて、昂は大言壮語に不服そうに声を荒らげた。
「貴様、我と綾花ちゃんの楽しい交換ノートのやり取りの時間を邪魔する気か!!」
露骨な昂の挑発に、拓也は軽く肩をすくめてみせる。
「どこが、究極の魔術道具だ!ただのカンニングノートだろう!」
「何を言う!我の素晴らしい頭脳をフル稼働してさまざまな書物を研究した結果、赤点必至の我が追試を突破するにはこの方法がもっとも最適だという結論が出たのだ。まあ、高校受験の時はあいにく、このノートを産み出すことはできなかったゆえ、ギリギリ合格という不本意な結果だったわけだが」
「…‥…‥だからそれは、ただのカンニングノートだ」
大げさな昂の講釈に、拓也はげんなりとした顔をする。
だけど、昂も折れなかった。
「むっ!交換ノートだと告げておるではないか!この交換ノートは、未来の支配者たる我の重要な一歩となり得る存在になるであろう!…‥…‥まあ、魔術の心得さえも知らぬ貴様には分からぬことゆえ仕方あるまいな」
「…‥…‥おい」
昂があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で拓也がそう吐き捨てた。
すると、昂は意味ありげに綾花を見据えながら、歌うようにつぶやく。
「綾花ちゃんとの交換ノート、綾花ちゃんとの交換ノート…‥…‥」
「行くぞ、綾花」
「…‥…‥う、うん」
呪詛のように、謎めいた単語を昂が口の中で小さく反芻している間に、拓也は綾花の手を取ると足早に駅を後にした。
「綾花、大変ー!大変ー!」
それは、亜夢のそんな言葉から始まった。
いつもなら、綾花が教室のドアを開けた瞬間、茉莉が綾花に抱きついてきたりするものなのだが、この日は違った。
茉莉ではなく、亜夢が動揺をあらわにして綾花に抱きついてきたのだ。
さすがに綾花も、驚きを隠せずに言った。
「…‥…‥ど、どうしたの?亜夢」
「実はさっき、綾花の机に突然、ペンギンの表紙のノートが現れたのよ」
綾花が躊躇うように不安げな顔で聞くと、綾花の机の近くにいた茉莉が強ばった顔で抱きついている亜夢の代わりに答えた。
「はあ…‥…‥。どう考えても、十中八九、舞波の仕業だな」
綾花達のやり取りをひそかに見守っていた拓也は、頭を抱えるとげんなりとした顔で肩を落とした。
拓也は既に、昂が綾花の机にペンギンのノートを出現させたことを確定事項としていた。
なにしろ、そう考えならざるを得ない出来事が、先程、既に起こっていたからだ。
綾花が気に入るペンギンの表紙でノートというと、先程、昂が掲げてみせた、あの『交換ノート』しか思いつかない。
あの時、舞波がいつものように綾花を追って来なかったのは、魔術でノートを送りつける算段があったからだろう。
何よりも決定的だったのが、綾花の机にいきなり、ノートを出現させたということだ。
そのような離れ業をやってのけるのは、恐らく舞波しかいないだろう。
「えっ?舞波くんが?」
きっぱりとそう言い切った拓也に、綾花は不思議そうに小首を傾げる。
「うーん、あり得るわね。亜夢のクッキーを奪った時みたいに、プレゼントと称したノートを、綾花に強引に送りつけようとしているのかもしれない」
釈然としない茉莉の言葉に、綾花は持っていた鞄をぎゅっと掴み俯くと噛みしめるようにつぶやく。
「…‥…‥舞波くん、そんなに追試、不安なのかな?」
「追試?」
綾花の言葉を聞き留めて、茉莉が複雑な表情を浮かべる。
切羽詰まったような綾花の声に、亜夢はようやく綾花を解放すると目を瞬かせてとつとつと訊ねた。
「綾花、舞波くんの追試とあのノート、関係あるの~?」
「うん。それがーー」
深く大きなため息をつくと、綾花は促されるまま、今回の件を茉莉達に話し始めたのだった。
「うーん、なるほどね」
昂の追試の話を聞き終え、茉莉は困ったようにため息をついた。
「だから、舞波くんは綾花の机の上にあのノートを出してきたのね」
「むうっー!舞波くん、携帯、持っていないから、綾花にノート、渡そうとしたー!」
茉莉が腑に落ちたように声を絞り出すと、亜夢はがばっと顔を上げてはっきりとそう告げた。
亜夢の唐突な行動に少し驚きつつも、拓也は頷くとこともなげに言う。
「ああ、そうだな。心配するな、あやーー」
拓也がそう言って綾花に声をかけようと手を伸ばしかけて、
「気にするなよ、瀬生」
と、聞き覚えのある意外な声に遮られた。
「元樹」
虚を突かれたように瞬くと、拓也は振り返ってそう言う。
拓也達と同じく、綾花の机の上に置かれたノートに気がついた元樹は唇を強く噛みしめてこう告げた。
「どうせ、舞波の仕業だろう?なら、逆に送り返せばいいだけのことだ」
「…‥…‥うん」
「俺が渡してきてやる」
きっぱりと告げられた元樹のその言葉に、俯いていた綾花の顔が輪をかけて赤くなった。
「ーーなっ」
その様子を見ていた拓也は思わず絶句する。
そして視線を転じると、元樹に向かって声をかけた。
「おい、元樹!」
「ペンギンのノート、送り返す~!」
複雑な心境を抱く拓也とは裏腹に、亜夢は両手を掲げると日だまりのような笑みを浮かべてそう叫んだ。
すると、茉莉が顎に手を当てて、さもありなんといった表情で言う。
「…‥…‥うーん。ねえ、綾花。私、思ったんだけど、送り返すよりも、もっと効果的で実用性のある方法があると思うの」
「…‥…‥実用性?」
「実用性~!実用性~!」
神妙につぶやく綾花の真似をするように、亜夢がいきいきとした表情で同じ言葉を繰り返すのだった。
「うおおおおおおっ!」
昂は目の前に置いた一冊のノートを眺めながら、ひたすら絶叫していた。まさにご機嫌の極みにある。
綾花にもう一冊のノートを渡し、明日の追試への万全の準備を果たしたのだから、当然のことだったのかもしれない。
ところが、その昂の上機嫌はほんの少しの時間しかもたなかった。
昼休みの休み時間の合間に、昂は早速、自分の席の机に置いた交換ノートに何か書き込まれていないかどうか確認しようとした。
しかし、そこには昂が全く予想もしていなかったことが書き込まれていたのである。
「な、なんなのだ! これは! 」
そう叫びながら、昂は隅々までノートを凝視する。
そこには、このような内容の文章がずらりと並んでいた。
『舞波、井上から聞いたが、明日の追試に魔術を使ってカンニングをする気だったらしいな。発見次第、親を呼ぶのでそのつもりでな』
『これ以上、綾花に変なことをするな!』
『部長から話はいっていると思うが、陸上部の部室に変な脅迫状を送りつけてくるな!』
『布施先輩や布施くんも言っていたんだけど、陸上部の部室に『綾花ちゃんは我のものだ!』という変な脅迫状を送らないで下さい!』
『亜夢のクッキー、食べた~』
綾花との期待に満ちた交換ノートの内容は、すでに1年C組の担任、拓也、元樹、茉莉、亜夢達からの昂への苦情ノートへと早変わりしていた。
さらに読み進めると、綾花達のクラスだけではなく、他のクラス、そればかりか他学年の生徒や教師に至る者達にまで苦情が書き込まれている。
挙げ句の果てには、魔術で生じた賠償請求についてのことまでが事細かに記述されていた。
「許せぬ! 許せぬぞ!!」
座っていた椅子から反射的に立ち上がると、昂は浮き足立ったように激怒した。
激怒しすぎて、他のクラスメイト達から思いっきり冷めた眼差しを向けられ、避けられていたことにも気づかずに昂は叫んだ。
「何故、我と綾花ちゃんの楽しい交換ノートの内容が、こうも見るも無惨な内容に早変わりしているのだ!おのれ、井上拓也!そして、綾花ちゃんに二度も口づけをしてのけた、あの不届き千万な布施元樹という輩め!」
憤慨に任せて、昂はひとしきり拓也と元樹のことを罵った。ひたすら考えつく限りの罵詈雑言を口にしまくって、八つ当たりをした。
昂は再び、席に座ると、真面目に読むのも馬鹿馬鹿しくなったノートのページを乱暴にめくっていく。
しかし、ぞんざいなその指の動きが、ある箇所を目にした途端、ぴたりと止まった。
『舞波くん、ペンギンさんのノート、ありがとう。明日の追試、頑張って』
「‥…‥…う、うむ」
そのノートに書き込まれていた唯一のーーそして、あくまでも進らしい綾花の応援メッセージに、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
目の色を変え、昂は何度も何度もその一文を読み返す。
「やはり、綾花ちゃんからのメッセージは、我にとって何よりの特効薬なのだ~」
先程までの怒りはどこへやら、昂は顎に手を当てまんざらではないという表情を浮かべると愉快そうに笑ったのだった。




