第二十五章 根本的に泣いてしまう前に
綾花達がゲームコーナーに行っている間、進の母親は旅館の部屋で一人、アルバムをめくっていた。
記憶を辿るように、進の母親は楽しげに思い出をめくり続ける。
進が初めてゲームに触れた時の思い出。
進が中学の入学式で出会った際、散々、振り回されたという昂くんを家に連れて帰ってきた時のこと。
昂くんの魔術で進が小さくなってしまい、ハラハラしながら見守ったこともあった。
それに昂くんの憑依の儀式のせいで、進が瀬生さんの心の一部となったという事実を聞かされた時は本当に驚いた。
どれを思い出しても、すべて鮮明に思い出すことができる。
それを証明するかのように、進の母親は楽しくてたまらないとばかりに、きゅっと目を細めて頬に手を当てた。そして、笑顔を咲き誇らせる。
その幸せでかけがえのない日々は、これからも紡がれていくことになるのだろう。
進とーー琴音と一緒に。
これからも、進と一緒にいたい。
進の母親は切にそう願った。
だけど、その時だ。
進の母親はあることに気づく。そして、思い出す。
進はもう、瀬生さんの心の一部だということに。
つまり、今の進の帰るべき場所は、自分達の家ではないのだ。
だが、それは既に分かりきっていたことだ。
舞波さん達とも話し合い、既に受け入れ、覚悟していた現実。
だけど、こうして綾花とーー進と楽しい時間を過ごし、期待を膨らませたことで、進の母親は改めて思い知らされてしまったのだ。
もう、進とは一緒には暮らせないのだということを。
旅行が終われば、また離れ離れになってしまうのだということを。
もうーー進のそばにいられる時間は限られているのだということを。
「…‥…‥進」
その名を呼ぶ進の母親の声は硬く、どこかほんの少しだけ寂しげだった。
「父さん、母さん、ありがとう。旅行、すごく楽しかった」
「ああ」
一泊二日の旅行から戻った後、感極まり、今にも泣きそうな表情で駅前広場に立った綾花に対して、進の父親は淡々と言った。
「琴音…‥…‥いや、進。また、いつでも家に帰ってくるんだぞ」
「うん」
涙を潤ませた綾花が進の父親の言葉にしっかりと頷くと、拓也達が待っている駅のホームへと駆けていく。
進の両親は改札口の先へ、ゆっくりと遠ざかっていく綾花の背中をどれだけ長い時間、見送っていただろう。
綾花が見えなくなった後も、進の両親はその幻影を見るかのようにずっと時計台の前に立ち尽くしていた。
自転車や通行人が、自分達の目の前を通りすぎていくのをぼんやりと眺める。
「琴音、行ってしまいましたね」
不意に、進の母親が寂しげに口を開いて自分の胸に手を当てる。
進の母親は、綾花がいた場所を食い入るように睥睨しながら肩を震わせていた。
その眼差しは、執拗に綾花にーー進にこだわり、進のことを考えていた自分と重なって見えてしまい、進の父親は苦笑する。
「また、いつでも会えるだろう」
そんな彼女に、進の父親は何でもないことのようにさらりとした口調で答えた。
「…‥…‥それは、そうですけれど」
進の母親は進の父親に振り返ると、悲しげにぽつりとつぶやく。
綾花に進が憑依していると知り得てから、ずっと封印していた想いーー。
進の母親は、対面する進の父親をまっすぐに見据えてその言葉を口にした。
「…‥…‥進に帰ってきてほしい」
すがるような思いで進の母親が言うのを見て、進の父親の顔が目に見えて強ばった。
その様子を見て、進の母親は決まりの悪さを堪えるようにーー、そして躊躇うように何度も何度も声を詰まらせる。
そうしてようやく口にされたのは、思いもよらない言葉だった。
「…‥…‥私は…‥…‥私は、琴音にーー進に家に帰ってきてほしい」
昂が綾花に告白し振られたその日、進は忽然と姿を消し、綾花の心の一部となった。
その日、きっと、進としての人生は終わりを迎えるはずだった。
だけど、そうはならなかった。
何故なら、今まさに進はここにーー、綾花として生き続けているのだからーー。
進に帰ってきてほしいーー。
そう恋い焦がれても、その代償はあまりにも大きすぎて間の当てられない現実を前に、進の母親は静かに目をつむった。気を抜くと、目から涙がこぼれ落ちそうになってしまう。
進の父親は、そんな彼女を自身のもとへとそっと抱き寄せる。
抱き寄せたまま、進の父親は言った。
「母さん、進はーー」
「父さん!母さん!」
進の父親がそう言って進の母親に声をかけようとした矢先、不意に綾花の声が聞こえてきた。
声がした方向に振り向くと、先程、駅のホームへと駆けていったはずの綾花が二人の姿を見とめて何気なく手を振っている。
驚愕する進の両親の元へと駆けよってきた綾花が顔を上げて、てらいもなく言った。
「あのさ、母さん。今日、元気なかったみたいだけど、大丈夫か?」
「…‥…‥進、どうして?」
綾花としてではなく、あくまでも進として振る舞ってみせる綾花に、進の母親は意外そうにおずおずと声をかける。
すると、綾花は難しい顔をして言った。
「いや、母さん。今日、元気なかったみたいだったから、ひょっとして俺が旅行の間、あまり、進として振る舞っていなかったせいなのかと思って気になって戻ってきたんだ」
「そうなの」
顎に手を当てて考え込む仕草をする綾花に、進の母親は少し困ったように苦笑する。
しばしの間、沈黙が続いた。
あくまでも真剣な表情でこちらを見つめてくる綾花に、進の母親は無言でその綾花の視線を受け止めていた。
そんな時間がどれほど続いたことだろうか。
進の母親がふっと息を吐き出した。そして引き締めていた口元を少し緩めると、さもありなんといった表情で言った。
「…‥…‥やっぱり、進には何でもお見通しなのね」
「当たり前だろう。俺と父さんと母さんは、家族なんだから」
「…‥…‥あっ」
腰に手を当ててきっぱりと言い切った綾花に、進の母親は口に手を当てて思わず唖然とする。
それはショッピングモールに行った時に、自分が綾花にーー進に告げた言葉だったからだ。
自分自身が口にした台詞をぶつけられて、呆気にとられたような進の母親を見遣ると、綾花もまた決まり悪そうに視線を落とす。
「あっ、いや、だからさ。母さんも一人で悩まないで、俺にもちゃんと相談しろよな」
その綾花の声を聞いた瞬間に、進の母親の心の中で何かが決壊した。
進の母親は調度を蹴散らすようにして綾花のそばに駆け寄ると、小柄なその身体を思いきり抱きしめた。
「…‥…‥母さん?」
「進…‥…‥進…‥…‥」
綾花が率直に疑問を抱いて小首を傾げても、噛みしめるように進の母親は何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
居心地悪そうに綾花が顔を俯かせていると、進の母親は綾花を抱きしめたまま、こう続けた。
「進、また、いつでも帰ってきてね。私達はあなたの家族なのだから…‥…‥。これからもずっと、あなたの家族なのだから…‥…‥」
進の母親のゆっくりと落ち着いた声が、綾花の耳元に心地よく届いた。
「ああ!」
綾花が顔を上げてそう意気込むと、進の母親は嬉しそうに微かに笑みを浮かべてみせた。
もう、進と一緒に暮らしたりはできないけど、こうして会いたい時に進と会うことはできる。
進のそばにいられる時間は前よりも限られてしまったけど、それでも進はここにいる。
私達の家族として、ちゃんと目の前にいる。
進の母親は今にも溢れそうな涙を必死で堪え、綾花の顔を見つめた。そして、きっぱりと宣言する。
「…‥…‥あっ、でも、今はこうして抱きしめさせてほしいかな」
「あっ、うん」
「ありがとう、進」
照れくさそうに頬を撫でる綾花に、進の母親は予期していたようにくすりと笑った。そして人差し指を立てると、さらに言葉を続ける。
「それからもう一つ、私のわがままに付き合ってくれない?」
「うん?」
意味深なその台詞に、綾花は不思議そうに首を傾げる。
その隣には、進の父親が穏やかな表情で二人を見守っていた。
「わあっ!」
綾花が空を見上げて歓声を上げた。
綾花達はあの後、進の両親に連れられて近くで行われていた航空祭に赴いていた。
デモンストレーションを行う航空機の佇まいは、圧倒的な存在感を誇り、泰然とした凄みがあった。
航空機が飛行しても全く顔色を変えない昂の隣で、綾花と拓也と元樹は目を皿にして飛行する航空機を眺めていた。
「すごいな」
晴れやかな空を背景に、フライトする華やかな航空機の数々に、拓也は思わず目を奪われてしまう。
「航空祭ではやっぱり、ブルーインパルスによるアクロバット飛行が目玉だよな!」
「そうなんだな」
「そうなんだ」
元樹の説明に、拓也と綾花が振り返って相次いで言った。
すると何故か持ってきていたマイクをむんずと掴み、昂はあらん限りの絶叫を絞り出した。
「綾花ちゃん、いつか我が綾花ちゃんをブルーインパルスに乗せてみせるのだ!!」
「ちょっと、舞波くん。変なことしないでって言ったのに」
得意げにぐっと拳を握り、天に突き出して高らかにそう言い放つ昂に、綾花は口元に手を当てて恥ずかしそうにおろおろとつぶやく。
「甘いな、綾花ちゃん!我はしたのではない!我は告げたのだ!」
「…‥…‥なんだ、それは?」
「…‥…‥すげえ、屁理屈だな」
「事実を言ったまでだ」
昂が至極真面目な表情でそう言ってのけると、拓也と元樹は思わず呆気に取られてしまう。
しばらくして昂が示唆していたブルーインパルスによるアクロバット飛行が始まると、昂は歓喜の色を浮かべ、絶叫した。
「こいつは盲点だった!!素晴らしい、素晴らしいぞ、ブルーインパルス!!魔術ではないゆえ、今まで気に留めてはおらんかったが、この過激さ!このスピード!まさに、申し分のない魔術を使う際の道具になるではないか!」
「…‥…‥おい」
吠えまくる昂を横目で見ながら、拓也は軽く嘆息した。
進の母親は昂の方を見遣ると、目を伏せてきっぱりと言う。
「昂くん、魔術の謹慎処分になっているのにも関わらず、また、魔術を使う気なの?」
「…‥…‥そ、それは」
にべもなく言い捨てる進の母親に、昂は恐れをなした。
若干逃げ腰になりながらも、昂は進の母親から拓也へと視線を向ける。
「…‥…‥お、おのれ~!井上拓也!貴様が進の母上に根回しなどしなければ、我は今でも堂々と魔術を使うことができたというのに!」
「自業自得だろう」
昂が罵るように声を張り上げると、拓也は不愉快そうにそう告げた。
そんな間の抜けたやり取りの中、進の両親は一つの結論を出していた。
これからも、進と一緒にいたい、と。
そして、進の帰るべき場所の一つでありたい、と。
ただ一つはっきりしていることがある。
進がーー行方不明になったと聞かされていた息子が今、目の前にいる。
ブルーインパルスによるアクロバット飛行を見てはしゃぐ綾花を眺めながら、進の両親は確かにそう思った。