第三十ニ章 根本的に灰の街に青が降る⑧
「お嬢様、申し訳ございません。ですが、黒峯蓮馬の目的は、あくまでも黒峯麻白の心を宿している瀬生綾花。そして、彼女と心を融合させている上岡進、心を分け与えている宮迫あかりになります」
淡々とした口調の中に、輝明の母親は焔の祖父の抱えたものの根深さを垣間見る。
焔の祖父は、阿南家を守護する役目を携わっている。
それは言ってみれば、たとえ同じ魔術の家系の者でも、阿南家に災禍を振り撒く者は容赦しないという信念の表れでもあった。
たとえ、それが黒峯家に災いを及ぼす者だとしても、阿南家の子息、輝明の関係者なら必ず守り抜かねばならない。
「昨日の借りがある焔と遭遇したとしても、阿南家に対して危害を加えることはないでしょう」
時を止めるという極大魔術。
それは、少なくとも焔の協力なしでは成し遂げられなかったことだ。
なおかつ、黒峯家の会合が迫っている状況である。
今回の焔の協力により、当面は問題を順繰りに片付けていけば良い、という地盤はどうにか確保出来たはずだ。
今、阿南家と敵対すること。
それは、魔術の知識を使う玄の父親も、他の黒峯家の者達も望むところではないに違いない。
下手を打てば、自身も危うい状況に追い込まれるからだ。
瀬生綾花と上岡進。
昂が用いた憑依の儀式によって、二人は心を融合させる結果になった。
後に、玄の父親の魔術の知識を用いることによって、死を迎えた麻白は綾花の心に宿り、人格を結合させるに至る。
しかし、実質、それは生き返ったともいえなくともないが、不完全な形ともいえた。
だからこそ、玄の父親は自身の望みを通そうと、躍起になった。
綾花に麻白の心を宿らせただけではなく、麻白の記憶を施し、本来の麻白の人格を形成させる。
さらには、綾花に麻白としての自覚を持たせようとしていた。
『あなたが娘をーー麻白を生き返そうとしていることは、独りよがいの片思いと一緒よ』
輝明の母親がそう言ったのは、いつの頃だっただろうか。
彼女は、玄の父親の旧知の仲で、彼と同じ魔術に関わる家系の人間。
しかし、彼女の発した想いは、玄の父親には届くことはなかった。
『一番、変わるべきはあなたよ……』
輝明の母親を一瞥した玄の父親は、ゆっくりと笑みを作り上げてからーー表情を消した。
『それでも、私は麻白に戻ってきてほしいんだ……』
玄の父親は悔悛の表情を浮かべながら、彼女に訴える。
『君が理解してくれなくても、私は娘に戻ってきてほしい。君も輝明くんがいなくなったら、私と同じ想いを抱くはずだ』
『それは……』
息子の名を出されて、輝明の母親はそれ以上、何も言えなくなってしまう。
確かに輝明がいなくなったら、彼女もまた、息子を生き返させる方法を求めるのだからーー。
子供の死の間際に、それを助けたいと願うのは輝明の母親も同感だった。
そして、それは今も、決して変わらない不変の事実だろう。
彼にとっても、彼女にとってもーー。
「儂は、阿南家に忠誠を誓っております」
感情の篭った焔の祖父の声が、昔日を呼び起こしていた輝明の母親を現実へと引き戻す。
「阿南家を守ることが、儂の義務であり、信義であります。それは孫の焔とて同様です」
焔の祖父は断腸の思いで座する。
魔術の深遠の果てで、焔の祖父は何を見据えるのだろうか。
玄の父親の旧知の仲で、彼と同じ魔術に関わる家系の人間である輝明の母親は今宵、何を感じるのだろうか。
阿南家に仕える者達はただ、その光景を黙して見守っていた。
この場で何が起ころうとしているのか。
誰しもが、這い寄る魔術の気配に耳をそばだてていた。
その時、緊迫した静謐を壊すような鋭い声が響き渡る。
「相変わらず、辛気臭い話をしてやがるな」
「焔……!」
孫のーー焔の突飛な発言に、頭を下げていた焔の祖父は虚を突かれる。
そして、焔とともに訪れた意外な存在に、阿南家に仕える者達はみんな、戦々恐々と見守った。
「分からないな。どうして、黒峯家は貴重な魔術書の類いを、あの舞波昂という魔術の使い手に渡しているんだ? 何か理由があるのか?」
「輝明、どうしてここに……!」
想定外な人物を目撃したように、輝明の母親の背中を冷たい焦燥が伝う。
韜晦するようなその輝明の母親の反応が、輝明の言動を裏付ける。
内密に行われていたはずの合議に、輝明が赴いた理由。
焔の魂胆を見抜き、焔の祖父は静かな怒りを抱いていた。
「焔。輝明様にこの集いのことを報せたのか。昨日の件といい、貴様、何を仕出かしたのか、分かっておるな……!」
「はあっ? ただ、内密に陽向と黒峯蓮馬に会っていただけだろうが!」
しかし、焔の祖父の警告など、焔は歯牙にもかけない。
「俺は輝明が一番、強い奴になればいいんだ! そのためなら阿南家の機密情報も輝明と共有するし、何でもするぜ!」
「阿南焔。あなたが輝明を強く信頼しているのは分かります。でも、魔術の知識を持っている黒峯蓮馬でも出来ないことは多すぎる……」
「輝明なら、全てを覆せるだろう」
明らかな思考の飛躍があるのに、不自然な確信。
口元には笑みすら浮かべる焔を見て、輝明の母親は不安を交じらせる。
だが、そのことに意識を割いている余裕はなかった。
「あらゆる隔たりも関係ねえ! 俺は阿南家の存在を、他の魔術の家系の者どもにーー世間に認めさせたいんだ……!」
それは何の前触れもなく、唐突に焔によって布告される。
焔が発した意味深な発言は、少なくとも阿南家に仕える者達を震撼させるものだった。
「阿南家を、他の魔術の家系に……?」
阿南家に仕える者達は、焔の話が飛躍しずきてついていけていない。
しかし、焔の祖父は焔の思惑を見据える。
「焔。輝明様の力の開花のために、派手に動いているようだな」
孫の焔が輝明に対して、忠誠のみならず、友誼を結んでいる。
その事実を知っている者は、阿南家の中でもごくわずかだ。
焔は素行が悪いことで知られている。
要らぬことに横やりを入れたりと横暴な態度のところがあり、また一度、決めたことは決して曲げない頑固さを持っていた。
だが、興味を注ぐ輝明に対しては必要以上に干渉し、尽くしたりと、自身の矜持を貫く信念を見せている。
それは焔の家族にとって予期せぬ出来事であり、望外の喜びでもあった。
「それが輝明のためになるんだから、それでいいんだよ!」
焔は抑えようとしても抑えることのできない情動を抱く。
魔術の家系の家主の息子とそれに仕える者の孫。
だが、輝明と焔の関係は、不平等という虚飾を取り払った友誼に基づく。
焔にとって互いの肩書きなど、何の意味も成さない。
それは何よりも美しい美学だと思えた。
輝明に仕える忠臣ーー。
この場所なら、焔はいつまでも自分らしくいられると思った。
「焔、それがおまえの意思なら、それでも良い。だがーー」
奇妙に停滞した心の中で、焔の祖父は念を押す。
「揉め事を起こして、輝明様を巻き込むような大事を仕出かすではないぞ」
「へいへい、肝に免じておくぜ。……一応な」
焔の祖父の毅然とした眼差しと、輝明の母親が見せる真摯な瞳。
その中に隠された不安と戸惑いを、焔は軽い笑いで受け流す。




