第ニ十七章 根本的に灰の街に青が降る③
「玄、大輝!」
少女は泣いていた。
小学校の廊下で、玄と大輝は自分の教室に行ったはずの麻白がランドセルを背負ったまま、慌てて追いかけてくる姿を見かけた。
玄は少し困ったように、妹の顔を覗き込んで言った。
「……麻白、どうした?」
「玄。あ、あたしも黒峯家の会合に出席することになるのかな」
言葉に詰まった麻白は顔を俯かせる。
顔を歪ませた麻白の瞳からは、涙が零れ落ちていく。
「会合……」
意を察した玄が息を呑む。
これは泡沫の夢ーー。
玄は改めて、これが夢だということを自覚する。
マンションに帰宅後、玄は大輝とともに玄の父親から今回の件について説明を受けた。
その際に、黒峯家の会合という斯様な話が飛び出したのだ。
だからこそ、麻白がそのことを知っているはずがない。
玄の父親は、綾花をーー麻白を危険が及ぶかもしれない会合に出席させるつもりはないだろう。
それでも万が一、今の麻白の存在に興味を抱いた者が会合への出席を願い出る可能性があった。
思い出すのは、身体を打つ雨粒の重み。
聞こえるのは、鳴りやまぬ雨音とサイレン。
目の前に広がるのは、あの日の悲哀の光景。
玄と大輝は自分の中で大切にしていたものが、次第に闇に包まれて消えていくのを感じていた。
それでも玄達は夢の中を疾走し、必死に自分の目の前から消えていく大切なものを繋ぎ止めようとする。
そこに護りたい彼女がいるから――。
「麻白!」
「おい、麻白!」
「……玄、大輝!」
不安に怯える麻白の手を取ると、玄は淡々としかし、はっきりと宣言した。
「麻白、大丈夫だ。もしそうなっても、俺達や拓也達も一緒に出席する」
「……げ、玄と大輝達も一緒に出席するの?」
その麻白の涙声に、微妙に拗ねたような色が混じっている気がして玄は苦笑する。
「……ああ。だから、大丈夫だ」
「……う、うん」
そう言って泣きじゃくる麻白の頭を、玄は優しく撫でてやった。
そして、もう片方の手で、震える小さな手に、玄はそっと力を込める。
麻白が泣きやむまで頭を撫で続けていた玄は、不意に背後から声をかけられた。
「おい、そこ、麻白に甘すぎだろう」
「大輝が冷たすぎ」
大輝がここぞとばかりに指摘すると、麻白は不満そうに頬を膨らませてみせる。
「麻白、俺は冷たくないぞ。俺も、玄達と一緒に会合に出席するからな」
麻白のふて腐れたような表情を受けて、大輝は不服そうに目を細めてから両拳をぎゅっと握りしめた。
「でも、大輝は黒峯家の人じゃないよ」
「それでも何とかしてみせるからな」
大輝のふてぶてしい言い分に、麻白は不満を表情に刻ませる。
「大輝らしいな」
玄は優しく微笑むと、妹の悲哀の涙の雫を掬い上げた。
「麻白は必ず、俺達が護ってみせる」
玄は確かな意思とともに、決意の言葉に乗せる。
儚い昔日がささやく。
もう――あの日のありふれた日常に戻ることは出来ないだろう。
残された道はただ一つ、前に突き進むだけだ。
魔術の家系ーー。
その意味を、当人である彼ら自身が理解できぬまま、終ぞ意を決して言を発する。
「魔術の禍根からも護ってみせる……」
昔日の面影を呼び起こしながら、玄は決然とした面持ちで言った。
『私はーー私達はただ、麻白に帰ってきてほしい。帰ってきてほしいんだ……』
以前、総合病院で語った玄の父親の悲痛な願い。
拳を握りしめ、苦悩の表情を晒す玄の父親は、明らかに戸惑っていた。
玄達が綾花を守りたいと願っているように、玄の父親達もまた、麻白に戻ってきてほしいと焦がれている。
すれ違う想いは、玄達と玄の父親達の間に確かな亀裂を生じさせていた。
その想いが時に自分の枷になり、絶望を生む基になる事を知りながらも、玄の父親は今もなお、歪んだ思想を深めている。
「だから、麻白、大丈夫だ」
そんな不安が頭をもたげ始めながらも、玄は麻白の頭を優しく撫でる。
魔術の祝福で空に挙げられた色泡。
見上げた玄の視線の先には、いくつもの色で満たされた希望の光芒が広がっていた。
夢の静寂。現の夢。
玄は妹の涙の跡を辿って、寄る辺もなく明日を目指す。
棚引く雲に、確かな願いを乗せてーー。
「うーん。昂くんに再戦を挑まれた時は辛かったけれど、少し回復出来たみたい」
焔が去った翌日、体力を回復させた陽向は改めて魔術書に媒介して顕在する。
そんな陽向のもとに、陽向の両親が火急の報せを持ってきた。
「黒峯家の会合への招待状?」
「ああ」
陽向の問いに、陽向の父親は先程、玄の父親から送られてきた招待状を見せた。
会合には危険が及ぶ可能性がある。
だからこそ、そこに出席出来る者は限られていた。
「今回の会合には、私達だけではなく、陽向にも出席してほしいそうだ」
「本当! 僕も黒峯家の会合に出席してもいいの?」
陽向の父親の言葉に、陽向はぱあっと顔を輝かせる。
「ああ。ただし、会合に出席させる代わりに、これからも麻白を取り戻すのを手伝ってほしいようだな」
「そうなんだ。だったら、これからも頑張らないといけないね」
陽向は魔術書を手に取ると、嬉しそうにページをめくった。
「叔父さんに頼まれなくても、麻白は僕の数少ない友達の一人なんだから絶対に取り戻すよ」
魔術書を読んでいた陽向は、昔を懐かしむように明るい笑顔で語る。
「そして、昔みたいに一緒に遊ぶんだ」
「そうだな」
「麻白は、陽向の大切な友達だものね」
どこまでも楽しそうな陽向を見て、陽向の両親は穏やかに微笑んだ。
しかし、陽向の脳裏に昨夜見た夢の内容がよぎる。
「……麻白が麻白として生きることを拒んでも、僕達は諦めないよ。麻白に戻ってきてほしいから、僕はその想いを貫きたい」
陽向は苦渋の表情を浮かべたまま、何度も同じ言葉を繰り返す。
生前のーーそして、今の麻白の笑った顔も、泣いた顔も、恥ずかしがる顔も、ふて腐れた顔も、全てが愛おしいと感じる。
それは、玄と大輝だけではなく、陽向にとっても今も昔も変わることのない不変の事実だった。
だけど、陽向は麻白に戻ってきてほしかったーー。
ただそれだけの想いが激しく陽向の心臓を打ち鳴らし、ひとかけらの冷静さをも奪い去ってしまっていた。
痛いような沈黙。
やがて、感情の消えた瞳とともに、陽向はあくまでも自分に言い聞かせるように告げる。
「僕達は、これからも麻白が麻白として生きたいと思うように、働きかけをしていくだけだから」
それは、自身を奮い立たせるための希求。
いつしか陽向にとって、玄の父親の麻白に戻ってきてほしいという望みを叶えることが生き甲斐となっていた。
「麻白は、もう『麻白』としてしか生きられないから」
陽向は拒絶の言葉を連ねる。
あの日、綾花がーー麻白が口にしたほんの小さな希望が呆気ないくらい簡単に砕け散るように語尾を強めた。
「うん、これでいいんだよね。叔父さん、僕達が行っていることは間違っていないんだね」
陽向は迷いを振り払うように、陽向の両親を見上げる。
「玄、麻白、大輝。僕は僕の心を従うよ」
子供のように無邪気にはにかむ陽向を見て、陽向の両親はほっと安心したように優しげに目を細める。
訪れることのない幸福な未来を想像する免罪符として。
朝明けの風は、永遠に繰り返される流転を嘆いて謳い続けていた。




