第二十四章 根本的に彼女には帰るべき場所が二つある
幼い頃の拓也は、毎日が楽しくて仕方がなかった。日々、大好きな幼なじみの女の子と遊んで、家に帰れば優しい笑顔で家族が迎え入れてくれる。
そんな当たり前の幸せな日々。
「たっくん、早く帰ろう!」
二人だけの夕暮れ時の帰り道にて、綾花は無邪気に笑いながら、ペンギンのぬいぐるみを掲げて自分の住んでいるマンションとは違う方角に向かって走って行こうとしていた。
「おい、綾花!そこは、家とは違う方向だろう!」
「あっ…‥…‥」
慌てて、拓也が綾花を呼び止めて事なきを得る。
「…‥…‥うっ、ごめっ」
言葉に詰まった綾花は顔を真っ赤に染め、もういっそ泣き出しそうだった。
そんな綾花の手を取ると、拓也は淡々としかし、はっきりと告げた。
「ほら、綾花が迷子にならないように、俺が家まで送っていってやるから」
「…‥…‥も、もう、迷子にならないもの」
その綾花の硬い声に、微妙に拗ねたような色が混じっている気がして拓也は苦笑した。
「本当か?この間も同じことを言っていたぞ」
「今度はホントにホントだもの!」
「ははっ。そうやってすぐに拗ねるところは、綾花らしいよな」
拓也はそう言って表情を切り替えると、面白そうに綾花に笑いかけた。
指摘された綾花は思わず赤面してしまう。
「…‥…‥ううっ。それ、どういう意味?」
「まあ、気にするな。綾花は綾花ってことだ」
「気になるー」
そう言ってふて腐れたように唇を尖らせる綾花の頭を、拓也は優しく撫でてやった。
いつものやり取りの中、桜の木が立ち並ぶ川沿いの遊歩道を歩きながら、二人は仲睦ましげに帰っていく。
それは俺にとって、どれだけ幸せな光景だったんだろう。
俺は幼い頃から綾花が好きだった。
時が廻り、季節が廻っても、この思いだけは変わらない。
変わるのはーー。
綾花達の一泊二日の波瀾万丈な旅行は、ひとまず休憩をかねて綺麗な浜辺が見える旅館に泊まることとなった。
露天風呂を堪能した後、夕食を終えると二つ予約されている大部屋の片方にて、拓也は元樹と他愛ない会話を交わしていた。
自分の彼女に憑依した男の父親と、すべての元凶であり恋敵の少年と、友人ではあるが同じく恋敵の少年の四人と同室という相も変わらずの居心地悪さに、拓也は思わず息をつく。
「たっくん、見て見て!」
ドアを開けて拓也達のいる部屋へとひょっこりと顔を覗かせた綾花は、目を輝かせて拓也に言った。はにかむとふわりと一回転してみせる。
「なっ…‥…‥」
風呂上がりの水色の花模様の浴衣姿の綾花の眩しさを目の当たりにして、拓也は思いもかけず動揺した。
綾花は恥ずかそうにうつむくと、頬を赤く染める。
「どうかな?」
そわそわとサイドテールを揺らす綾花に、拓也は胸中に渦巻く色々な思いを総合してただ一言だけ言った。
「ああ、よく似合っている」
「ありがとう、たっくん」
瞬間、綾花はぱあっと顔を輝かせた。頬をふわりと上気させて嬉しそうに笑う。
「綾花ちゃん、可愛いのだ!」
「瀬生、様になっているな」
両拳を突き上げて意気込んでそう叫ぶ昂に対して、元樹はあくまでもごく自然な様子で言った。
「ありがとう、舞波くん、布施くん」
「そうでしょう?琴音、似合っているわよ」
綾花が花咲くようににっこりと笑っていると、同じく浴衣姿の進の母親が部屋へと入ってきて綾花に声をかけてきた。
綾花は拓也から離れると、進の母親の元に駆け寄り、何度か目を泳がせると意を決したように口を開いた。
「ねえ、母さん。ちょっと聞いてもいい?」
「どうしたの?琴音」
突然の綾花の言葉に、進の母親は目を白黒させる。
「…‥…‥父さん、今、いないの?」
進の母親にそう尋ねる綾花の声は少し緊張しているように感じられた。
「ええ。さっき、少し散歩してくるって言っていたわね」
「そうなんだ」
何気ない口調で言う進の母親の言葉を聞いて、綾花はほんの少しだけ表情に寂しさを滲ませた。
「綾花、どうかしたのか?」
その様子を見かねて、 拓也が素直に疑問を口にすると、綾花は不安そうに掠れた声で答える。
「父さん、まだ、私に慣れていないのかな?」
ぽつりぽつりと紡がれる綾花の言葉に、拓也の顔が目に見えて強ばった。
拓也はさらに困惑して訊いた。
「…‥…‥はあ?慣れる?」
「だって今日、私が話しかけても、ずっと上の空な感じだったもの」
綾花は顔を曇らせて俯くと、ぽつりとそうつぶやく。
「ははっ、心配するなよ、瀬生。上岡のおじさん、旅館に着いてからずっと、俺達に瀬生のことを聞きまくっていたくらいだからな。きっと、瀬生のことを思い詰めたような強ばった顔で見ていたのは、ただ瀬生にどう話しかけたらいいのか分からなかっただけだと思うぞ」
これ見よがしに、元樹が笑いながら言う。
元樹に指摘されて、綾花ははっとしたようにまじまじと進の母親を見た。
「父さん、まだ、琴音に慣れていないみたいなのよね」
「ああ。旅館に着いてからずっと、俺達に綾花のことを聞いていたんだ。だから、心配するな」
噛みしめるようにくすくすと笑う進の母親の言葉に付け加えるように、拓也はとつとつと語る。
「あっ…‥…‥」
その言葉に、綾花は口に手を当てると思わず唖然として拓也の方を振り返った。
気まずそうに視線をそらした拓也に、不意をつかれたような顔をした後、綾花は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、たっくん」
「…‥…‥あ、ああ」
人差し指で頬を撫でながら独り言のようにつぶやいた拓也に、綾花ははにかむように微笑んでそっと俯く。
綾花達がそんな会話を交わしていると、不意に部屋のドアが開いた。
旅館の廊下から、進の父親が入ってくる。
「父さん!」
それを見るなり、みんながいる前だというのに、綾花は人目もはばからず、進の父親に勢いよく抱きついてきた。
「…‥…‥お、おい、母さん。琴音、どうかしたのか?」
さすがに予測不能な突拍子もない行動だったのだろう。
突然、綾花に抱きつかれた進の父親は困り果てたように、たじたじになりながらうろたえる。
その様子を見て、進の母親はくすりと笑みをこぼした。
「琴音、あなたのことを待っていたのよ」
混乱する進の父親に構わず、進の母親はさらに意味深な言葉を続けた。
「あなたから避けられているのかもって、琴音、ずっと心配だったみたい」
「そ、そうなのか?」
「…‥…‥うん」
進の父親が上ずった声で問いかけると、 綾花は指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらず視線をそらした。
進の父親は重いため息をつくと、真剣な眼差しでただまっすぐ綾花を見つめて言った。
「そうか、すまない。ただ、私は久しぶりに進と…‥…‥いや、琴音と何を話そうか悩んでいただけなんだ」
「そうなんだ」
大切な想い出を語るように穏やかな表情を浮かべた進の父親に、綾花は噛みしめるようにそっと微笑んだ。
「すす…‥…‥いや、琴音は相変わらず、ゲームばかりしているのか?」
進の父親が綾花に進のことを尋ねてくる図は、端から見たら、なにかしら奇妙な光景ではあった。
しかし、そうしたことは全く気に留めずに、綾花は言った。
「うん、もちろんだよ!」
「そうか」
あくまでも進らしい綾花の言葉に、進の父親はほっと安堵の息を吐くと優しく話しかける。
だが、すぐに綾花は悲しそうに俯くと顔を曇らせた。
「…‥…‥でも、前みたいに頻発にはやっていないの。私がゲームをしていたら、みんなに変に思われるから」
「なら、旅館にあるゲームコーナーにでも行ってみるか?」
「本当?」
進の父親が何気ない口調で言うと、飛びつくような勢いで綾花は両拳を突き上げて身を乗り出してきた。
渋い顔の進の父親と幾分真剣な顔の綾花がしばらく視線を合わせる。
先に折れたのは進の父親の方だった。
身じろぎもせず、じっと進の父親を見つめ続ける綾花に、進の父親は重く息をつくと肩を落とした。
「…‥…‥ああ。一緒に行くか」
「うん、父さん」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる進の父親に、綾花はきょとんとしてから弾けるように手を合わせて笑った。
「綾花ちゃん。もちろん、ゲームコーナーには、我とも一緒に行くべきだ!」
すかさず、わざわざ持ってきたらしいゲーム雑誌を掲げて上機嫌でそう言い放つ昂に、うんざりとした顔を向けた後、気を取り直したように拓也は鋭い眼差しで昂を睨みつけた。
「何故、おまえまで一緒に行こうとする?」
当然の拓也の疑問に、昂は打てば響くように答えてみせた。
「綾花ちゃんが行くのなら、どこにでも我は行く!しかし、綾花ちゃんが行かないのなら我も当然、行かぬ!それだけだ!」
「…‥…‥おい」
居丈高な態度で大口を叩く昂に、拓也は低くうめくようにつぶやく。
「悪いが、ゲームコーナーには上岡のおじさんと俺と綾花だけで行く!」
拓也はそう言って昂を強く睨むと、綾花の腕を取ってそのまま部屋から出て行こうとする。
そんな拓也に、昂は人差し指を突き出すとさらに笑みを深めて言い切った。
「綾花ちゃんとゲームコーナーで対戦するべきなのは、初心者である貴様ではなく、我に決まっている!」
追い打ちをかけるように言う昂に、拓也は不満そうに眉をひそめてみせる。
「俺はあの後、綾花からゲームの手ほどきを受けたんだ!前みたいに、あっさり負けはしない!」
そんな拓也の言葉を聞き留めて、腕を頭の後ろに組んで壁にもたれかかっていた元樹が朗らかに言った。
「なあ、拓也。俺も、ゲームコーナーに一緒に行ってもいいか?」
「むっ、面白い。貴様にはいつか、あの時の雪辱を果たさねばならぬと思っておった。我が、進以外の者に負ける要素などあり得ぬ、ーーあり得ぬのだ!次こそは、貴様らに我の真のゲームさばきを知らしめてくれよう!」
「「勝手なこと言うな!」」
そう言い放って嘲るような笑みを浮かべる昂に、拓也と元樹は苛立ちを隠さず、声をそろえてそう言い放った。
「…‥…‥ねえ、たっくん」
いつまで経っても埒が明かない昂との折り合いの中、綾花から遠慮がちな声をかけられて、拓也は昂から綾花へと視線を向ける。
綾花は所在なさげな顔で、おずおずと拓也を見ていた。待ちくたびれたのか、焦れたようにサイドテールをそわそわと揺らしている。
「そろそろ、ゲームコーナーに行かない?」
綾花が躊躇うように不安げな顔でそう問いかけてくる。
拓也は顔を片手で覆い、深いため息をつくと、状況の苛烈さに参ってきた神経を奮い立たせるようにして口を開いた。
「…‥…‥ああ。行くぞ、綾花」
「う、うん!」
「あっーー!!我も一緒に行くと告げておるではないか!!」
そう絶叫して後から追ってきた昂とともに、拓也は綾花と元樹と進の父親と一緒にゲームコーナーに向かったのだった。
「何故、取れぬのだ!」
ゲームコーナー内で、昂が地団駄を踏んでわめき散らしていた。
ゲームコーナーで対戦していた際、隣のクレーンゲームでテーマパークにいたペンギンに酷似したキャラクターのぬいぐるみを見つけたのがすべての始まりだった。
早速、取ってみようと綾花達は試みたのだが、一向に取れる気配はない。
「これ、取れそうで取れないよな」
何度目かの挑戦後、元樹がふてぶてしい態度できっぱりと言う。
「おのれ~、たかだか、ぬいぐるみの分際でここまで我を翻弄しようとは!」
「ありがとう、舞波くん」
クレーンゲームに対して、ところ構わず当たり散らす昂に、綾花は意味ありげな表情で昂を見遣ると優しく微笑んだ。
綾花から予想だにしない言葉が放たれて、拓也はまじまじと綾花を見つめた。
「クレーンゲームでペンギンさんのぬいぐるみが取れなかったのは残念だったけど、みんなで一緒にゲームコーナーに行って対戦したり、クレーンゲームをすることができて楽しかった」
「…‥…‥綾花」
どこまでもどこまでも嬉しそうに笑う綾花を胸を撫で下ろすような気持ちで見ていた拓也は、何故かほんわかと笑う幼い頃の綾花を思い出した。
拓也の脳裏に、幼い頃の綾花と今の綾花が重なり合う。
幼い頃からペンギンが大好きでーー、だけど、上岡が憑依した影響でゲームも好きになってしまった幼なじみの少女。
でも、言い表せないくらいに大好きで、誰よりも大切な女の子。
目の前で笑いかけている少女は、それ以外の何者でもなかった。
拓也が深々とため息をついていると、進の父親は一度目を閉じてから、ゆっくりと開いて言った。
「琴音、母さんも待っているだろうし、そろそろ部屋に戻るか?」
「うん、父さん!」
嬉しそうにそう言うと、そのまま笑顔を残して、綾花は進の父親のもとへと駆けていった。
進の父親も頬をゆるめて、ゆっくりと綾花の方へと歩み寄り、お互いの距離を縮める。
綾花と進の父親の心地よい会話のやり取りーー。
まるでそれは一度、何かしらの事情で引き離された親子が再度、絆を確かめ合う聖なる儀式のようでもあったーー。
俺は幼い頃から綾花が好きだった。
時が廻り、季節が廻っても、この思いだけは変わらない。
変わるのは、彼女の心と彼女の周りの人々ーー。




