第十四章 根本的に戦域の傍観者⑥
大会会場で綾花が口にした想いが、玄の父親の胸に突き刺さる。
『父さん……』
綾花の目には、玄の父親の横顔が言いようのない影りを帯びているように見えた。
『あたし、死んじゃってごめんなさい。ごめんなさい』
『麻白』
流れ出る涙は止まらない。
透きとおった涙をぽろぽろとこぼす綾花の姿に、玄の父親の顔が目に見えて強張る。
『でも、それでもーー私は瀬生綾花でーー俺は上岡進でーーそして、あたしは黒峯麻白。それ以外には、絶対になり得ない』
『ああ。綾花が、綾花と上岡と雅山と麻白の四人分生きているという事実は、確かに存在するんだ』
口振りを変えながら、淡々と告げられる言葉。
そんな綾花の言葉を引き継いで、拓也はただ事実を口にした。
綾花が発した悲哀の声に、玄の父親は凍りついたように動きを止める。
それでも、玄の父親は自身の願いを叶えるまで歩みを止めない。
魔術ーー。
唯一、玄の父親の嘆きに応えてくれたのは、その不可思議な力だけだったのだからーー。
「麻白は麻白だ!」
綾花達の訴えを、玄の父親は頑なに拒む。
「君達がいくら拒んでも、麻白自身が否定したとしても……」
玄の父親はただ、弱音を吐いたように心を病み、顔を俯かせて悲痛な声を漏らす。
「彼女が、麻白だという事実は変わりないのだから……」
癒えない傷口は、悲しみ宿る心に錯落たる幻想を紡ぐ。
まるで、自分自身に言い聞かせるように、玄の父親は自身の理想を体現しようとする。
叶わぬ願いを実現させるためにーー。
その切実な想いは、過ちも真実も嘘も全て赦す幻想へと変えてくれる。
遅過ぎた娘の願いさえ、玄の父親には愛しく感じられた。
「なっ……!」
陽向が入院している総合病院の前に立った拓也は自分でもわかるほど驚きの表情を浮かべていた。
その理由は、至極単純なことだった。
綾花達が赴いた総合病院は、まさに毒気を抜かれるほどの広大な施設だったからだ。
「相変わらず、陽向くんが入院している病院はすごいな」
「黒峯家は住んでいる場所も、使える施設も想定外だよな」
冗談のような広さの総合病院を前にして、拓也だけではなく、元樹も目を大きく見開き、驚きをあらわにする。
「大会会場内と同様、黒峯蓮馬さん達か、黒峯蓮馬さん達の協力者が待ち構えているだろうな」
「そんなことはどうでもよい。我のテリトリーの中で、何度も綾花ちゃんをーー麻白ちゃんを狙い、なおかつ、我の魔術書を奪おうとしているだけでも万死に値する」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で昂がそう吐き捨てた。
「麻白として生きるっていうことは、瀬生綾花さん達を拓じゃなくてーー拓也達から引き離そうとしていることになるんだよな」
狙うという単語を聞いた瞬間、大輝の瞳に複雑な感情が入り乱れる。
そうして消化しきれない感情を抱えたまま、大輝は続けた。
「で、拓也、元樹、俺達はどうすればいいんだよ?」
「陽向くんを説得してほしい。陽向くんは話すのを拒んでくるかもしれないが、何とか穏便に済ませたいんだ」
元樹の提案に、玄は納得したように頷いてみせる。
「……分かった。陽向と話をしてみる」
「玄、ありがとう」
綾花がぱあっと顔を輝かせるのを見て、玄は思わず苦笑してしまう。
そんな中、大輝はそっぽを向くと、軽く息を吐いて言う。
「はあ~。陽向を説得しないといけないのか」
「大輝は順応性なさすぎ」
「おまえらが、順応性ありすぎなんだよ」
綾花の指摘に、大輝は不満そうに唇を噛みしめる。
「とにかく、玄、麻白、そして拓、友樹。陽向の病室まで行くぞ!」
「あっ、大輝、照れている」
「麻白、俺は照れてないぞ。ただ、陽向の病室まで案内しようとしていただけだ」
綾花の嬉しそうな表情を受けて、先導しようとしていた大輝は不服そうに目を細めてから両拳をぎゅっと握りしめた。
「大輝らしいな」
笑ったような、驚いたような。
あらゆる感情の混ざった声が、玄の口からこぼれ落ちる。
だが、その時に吹いた風はまとわりつくような空気で、心地よさとは懸け離れているかのように感じられた。
玄と大輝は総合病院に入ると、受付で陽向との面会の手続きを済ませる。
「今回は突然、現れることはなさそうだな」
その様子を見守っていた元樹が、周囲に視線を巡らせた。
「まずは、陽向くんの病室に行かないとな」
「だけど、どうすれば……」
拓也が生じた疑問の答えは遅滞する事なく、元樹によって示された。
「こればかりは、実際に陽向くんに会ってみないと分からないな。だけど、それでも俺は綾のーー麻白の、そして玄と大輝の願いを叶えたいと思っている」
「ーーっ」
元樹が発した決意に、拓也は一瞬、気後れする。
綾花を護る。
それは拓也が幼い頃から抱いていた信念で、今も決意を固める強い意思だった。
昂による魔術の儀式の騒動。
綾花の家族と進の家族の間に生じた亀裂。
昂が持っている魔術書。
その書物を管理する家系であり、麻白の父親でもある玄の父親との対立。
玄の父親が使う魔術の知識によって、昂と同様に魔術が使えるようになった陽向と出会い。
そして、未だに終わりの見えない彼らとの戦いの領域。
拓也は綾花を護る過程で、何度も己の無力さを噛みしめた。
でも、今は違う。
拓也には拓也なりに、綾花にーーそして上岡と雅山と麻白にできることがある。
そして、今日を生きる麻白は、『あの日』を越えて綾花の心の中に居る。
拓也は記憶を辿るように、大会会場へと視線を巡らせた。
脳裏に今まで出会った多くの人達が過ぎ去り、幾多の光景が遠退いていく。
最後に広がったのは、あまりにも鮮明な過去の景色。
幼い頃、綾花とともに仲睦ましげに歩いた、桜の木が立ち並ぶ川沿いの遊歩道。
それは決して変わることのない憧憬が見せた一瞬の幻だった。
帰れない過去の想い。戻れない日々。今更のように胸を衝く激しい悲しみ。
だが、それでも拓也はその哀切を振り切る。
綾花を護る――。
拓也はその信念を確かなものとするために、前を見据えた。
それは、拓也にとって、今も昔も変わることのない不変の事実だった。
今の綾花は綾花であり、上岡であり、麻白でもある。
そして、綾花と上岡は、雅山と心という命の契りで繋がっている。
それを口にすることは、どこまでも簡単なようで、かなりの重責を担うことであるように拓也には思えた。
だけど、綾花と上岡、麻白、そして玄と大輝は信じている。
俺達と一緒なら、どんな困難でも乗り越えられるはずだと。
なら、俺達なりに綾花達にできることがある。
綾花と上岡と麻白、そして雅山の夢が叶えられるように、陽向との話し合いの場を設ける。
そして改めて、今回の件の協力者について話を伺う。
拓也は綾花達の願いを叶える意思を示すように、想いという名の覚悟を込めた。




