第八章 根本的に明日の君がきっと泣くから⑧
玄の父親が美里とともに、陽向の病室を立ち去り、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第四回公式トーナメント大会のチーム戦の準決勝、Bブロックが始まった頃ーー。
「……面白かったな」
鮮やかな青のよすがを辿り、青年は澄み渡る空を見上げていた。
果てなき自由を謳歌するよりも、宵闇の色に沈む方が良かった。
にわか雨の水を内包した木々では、葉末にまで伝う生命力がある。
その生命力が、この世界に豊かさをもたらしていた。
「輝明のーーあいつの魔力、あの黒峯蓮馬と黒峯陽向なんかより上なんじゃないか。……ったく、最高に気分がいいぜ!」
青年はがらんどうの場所で、先程の出来事を思い起こして歓喜する。
まるで長き、永き封印から解き放たれたように、青年は両手を広げて空を仰いだ。
「輝明は俺が唯一、認めた仕えるべき主君なんだからよ。あいつらより、弱かったら話にならないぜ!」
青年は心中で主君である輝明に忠誠を誓いながらも、その表情は凶悪に笑っていた。
玄の父親が使える魔術の知識。
それは、昂達が使っている魔術とは根本的に異なる。
昂達が使っている魔術は、昂達の魔力、または昂達が産み出した魔術道具を使うことによって事象を変革するものだ。
だが、魔術の知識は、世界の記憶の概念の一部を書き換えて、事象そのものを上書きしたりすることができる。
陽向が掲げる魔導書、『アルバテル』。
玄の父親に自身の願いを口にしたその瞬間、陽向は魔術を使えるようになった。
玄の父親の魔術の知識によって、自身の魂を魔術書に媒介することで一時的に顕在化することができた陽向は、自らが魔術を使えるようになったことをすぐに理解した。
本来の肉体はそのままに、自身の魂が宿った魔術書によって顕在する存在。
そして、魔術書に記載された魔術を行使することができる存在。
魔導書、『アルバテル』ーー。
陽向は、その不可解な存在になった自身をそう名付けていた。
その膨大な魔力は本来、魔術を使える者ーー昂にも引けを取らない強力なものだった。
そして、青年が仕える輝明は、さらにその上を行く存在になるはずだ――。
青年は、主君である輝明がチームリーダーを務める『クライン・ラビリンス』の決勝戦を観戦するために大会会場へと戻る。
「全てを覆すんだろう? なら、輝明、俺にーー世界にその全てを見せてみろよ。てめえはなんせ、俺が唯一、認めた主君、『アポカリウスの王』なんだからよ」
青年は不敵に笑う。
自身が掲げた理想を成すその日を夢見てーー。
「あなたが娘をーー麻白を生き返そうとしていることは、独りよがいの片思いと一緒よ。そう伝えた私も、独りよがいの片思いなのかもしれない」
霧雨も止み、屋敷の向こうでは雲の綻びから青空の一線が覗いていた。
幽かな空色は未だ明るくも、彼女のーー輝明の母親の周囲の空気は湿り、重たく敷居に被さっている。
何故なら、屋敷には、異質とも呼べる魔術の家系の者達が集っていたからだ。
「あなたの孫は何故、あの時、私の許しもなく、黒峯蓮馬と黒峯陽向に力を貸したのですか?」
「お嬢様、孫の身勝手な行動、お許し下さい。ですが、黒峯家は、我が阿南家と同じ魔術の家系。後々のために恩を売っておくことに越したことはありません」
頭を下げていた老人は、そこで意図的に笑みを浮かべる。
「今回の件に遭遇したことで、輝明様の力もいずれ、開花されるでしょう」
「その輝明に、もしものことがあったら、どうしていたのですか?」
顔を上げた老人は、輝明の母親の追及を受け止める。
彼女が見せる真摯な瞳。
その中に隠された不安と戸惑いを、老人は甘んじて受け止めた。
「お嬢様、申し訳ございません。ですが、三崎カケルでしたか。これで、輝明様のご友人とそのご家族の安全も保証されたも同然です」
淡々とした口調の中に、輝明の母親は老人の抱えたものの根深さを垣間見る。
老人は、阿南家を守護する役目を携わっている。
それは言ってみれば、たとえ同じ魔術の家系の者でも、阿南家に災禍を振り撒く者は容赦しないという信念の表れでもあった。
たとえ、それが黒峯家の息女、麻白を死なせる要因となった者だとしても、阿南家の子息、輝明の友人の家族なら必ず守り抜かねばならない。
三崎カケル。
その人物の父親が事故を起こし、麻白を死なせる結果になった。
後に、玄の父親の魔術の知識を用いることによって、麻白は綾花の心に宿る形に成される。
実質、それは生き返ったともいえなくともないが、不完全な形ともいえた。
だからこそ、玄の父親は自身の望みを通そうと、躍起になった。
綾花に麻白の心を宿らせただけではなく、麻白の記憶を施し、本来の麻白の人格を形成させる。
さらには、綾花に麻白としての自覚を持たせようとしていた。
『あなたが娘をーー麻白を生き返そうとしていることは、独りよがいの片思いと一緒よ』
輝明の母親がそう言ったのは、いつの頃だっただろうか。
彼女は、玄の父親の旧知の仲で、彼と同じ魔術に関わる家系の人間。
しかし、彼女の発した想いは、玄の父親には届かなかった。
『一番、変わるべきはあなたよ……』
輝明の母親を一瞥した玄の父親は、ゆっくりと笑みを作り上げてからーー表情を消した。
『それでも、私は麻白に戻ってきてほしいんだ……』
玄の父親は悔悛の表情を浮かべながら、彼女に訴える。
『君が理解してくれなくても、私は娘に戻ってきてほしい。君も輝明くんがいなくなったら、私と同じ想いを抱くはずだ』
『それは……』
息子の名を出されて、輝明の母親はそれ以上、何も言えなくなってしまう。
確かに輝明がいなくなったら、彼女もまた、息子を生き返させる方法を求めるのだからーー。
子供の死の間際に、それを助けたいと願うのは輝明の母親も同感だった。
それは、決して変わらない不変の事実だろう。
「儂は、阿南家に忠誠を誓っております」
感情の篭った老人の声が、昔日を呼び起こしていた輝明の母親を現実へと引き戻す。
「阿南家を守ることが、儂の義務であり、信義であります。それは孫の阿南焔とて同様です」
老人は断腸の思いで座する。
魔術の深遠の果てで、老人は何を見据えるのだろうか。
玄の父親の旧知の仲で、彼と同じ魔術に関わる家系の人間である輝明の母親は今宵、何を感じるのだろうか。
阿南家に仕える者達はただ、その光景を黙して見守っていた。
この場で何が起ころうとしているのか。
誰しもが、這い寄る魔術の気配に耳をそばだてていた。
その時、緊迫した静謐を壊すような鋭い声が響き渡る。
「随分と、辛気臭い話をしてやがるな」
「焔……!」
孫のーー焔の突飛な発言に、頭を下げていた老人は虚を突かれる。
決勝戦が終わったことで、焔は大会会場から戻ってきていた。
「貴様、何を仕出かしたのか、分かっておるな……!」
「はあっ? ただ、内密に動いていただけだろうが!」
しかし、老人の警告など、焔は歯牙にもかけない。
「俺は輝明が一番、強い奴になればいいんだ! そのためなら、何でもするぜ!」
「無理よ。魔術の知識を持っている黒峯蓮馬でも出来ないことは多すぎる……。輝明は……あの子は……」
「輝明なら、全てを覆せるだろう」
明らかな思考の飛躍があるのに、不自然な確信。
口元には笑みすら浮かべる焔を見て、輝明の母親は不安を交じらせる。
だが、そのことに意識を割いている余裕はなかった。
「あらゆる隔たりも関係ねえ! 輝明はなんせ、俺が唯一、認めた主君、『アポカリウスの王』なんだからよ!」
それは何の前触れもなく、唐突に焔によって布告される。
焔が発した意味深な発言は、少なくとも阿南家に仕える者達を震撼させるものだった。




