第二十二章 根本的に彼女の中で彼は生き続けている
「…‥…‥き、元樹」
不意に、背後から名前を呼ばれて、元樹は突っ伏していた机から勢いよく顔を上げた。
視界に映るのは、見慣れた自分の部屋だ。
元樹はうつろな目をこすると、微睡みを邪魔してきた兄の尚之の方へとゆっくりと振り返った。
「何だよ、兄貴。‥…‥…いい気分で寝ていたのに」
「何だ、ではない」
呆れたようにため息をつくと、尚之は眉をひそめて訝しげに元樹を見る。
「今日から友人達と旅行に行くから、出発の時間になったら起こしてくれって頼んできたのは誰だ?」
尚之は腰に手を当てると、不服そうにそうつぶやいてみせた。
「旅行?‥…‥…あっ!」
元樹が携帯で時間を確認すると、ちょうど出発しなくてはいけない時間の少し手前を示していた。
ショッピングモールに行った時に進の母親と交わした約束どおり、綾花達は連休中に一泊二日の旅行に行くことになった。
元樹達の学校の陸上部はいつも全国区の大会で立て続けに入賞し、名をはせてはいるが、前もっての用事で休みを取ることに関してだけは部長も顧問もそこまで追及をしてくることはない。
しかし、その分、朝練と放課後の部活の延長の割り増しを余儀なくされてしまう。
元樹は今回の連休に休みを取るため、部長が連休に休みを取りたい者向けに特別に用意したという、ハードな部活スケジュールをこなしてきたのだ。
「うわっ!」
元樹はおもむろに携帯の時間を見て動揺した。
「兄貴、何でもっと早くに起こしてくれなかったんだよ!」
「僕は何度も起こした。それでも起きなかったのは元樹だろう」
元樹が態度で不満を表明していると、尚之は当然というばかりにきっぱりと告げる。
改めて、尚之は元樹に視線を向けると、前々から疑問に思っていたことを口にした。
「それで、旅行に一緒に行く友人というのは宮迫さんか?」
「はあ?何で、そうなるんだよ?」
「なら、星原さんの友人の瀬生さんか?」
「ーーっ」
再度、図星を突かれて、元樹はぐっと言葉を呑み込む。
「やはり、そうか」
元樹の反応に、尚之はふっと息を抜くような笑みを浮かべる。
元樹はそれまでの気まずげな様子を一変させて、かってない剣幕で尚之に詰め寄った。
「な、何で、兄貴が瀬生のことを知っているんだ!」
「星原さんから、おまえが宮迫さんに似ているという瀬生さんのことが好きだと言うことを聞いた」
「…‥…‥星原、頼むから、兄貴に瀬生のことを言うな」
率直に告げられた事実に、元樹は意外なことでも聞かされたかのように額に手を当てて瞬きを繰り返す。
たまらず、かぶりを振って目をそらした元樹は、はっと思い出したように携帯の時間を見遣る。
「うわっ、やべえ!そろそろ行かないと、まじで待ち合わせの時間に間に合わないじゃんか!」
元樹はおもむろに席を立つと、荷物を持ち、片手を上げて屈託なく笑いながら言った。
「それじゃあ、兄貴、行ってくるな!それと、兄貴まで瀬生のことを誰かに話したりするなよ!」
「ああ、分かっている」
元樹が念を押すようにぼやくと、尚之は真剣な表情でしっかりと頷いてみせた。
必死としか言えないような眼差しを向けた後、元樹は急ぎ足で自宅を後にしたのだった。
「さすがに、すごく混んでいるな」
特急列車の座席に座っていた拓也が、周りを見渡しながら言った。
連休時の混雑も相まって、特急列車は人混みに溢れている。
列車の座席の予約をしていなかったら、恐らく座ることなどできなかっただろう。
同じく隣の席に座っていた綾花は、窓の外を通り過ぎる田園や川辺などの景色を楽しげに眺めていたのだが、しばらくすると同じ景色ばかりが続いたせいなのか、うーん、と眠たそうに目をこすり始めてしまう。
眠気を振り払うようにふるふると首を振ったものの効果はなかったらしく、結局、綾花は拓也の肩にぽすんと寄りかかって目を閉じてしまった。
そのうち、普段より幼い顔をさらした綾花がすやすやと寝息を立て始める。
肩口に感じるそのぬくもりに、拓也はほっと安心したように優しげに目を細めて綾花を見遣る。
「綾花…‥…‥」
寄りかかってくる綾花の華奢な体を拓也がそっと抱き寄せようとした瞬間、後ろの座席に座っていた昂が横から顔を出し、不本意そうにぼやいた。
「貴様、今すぐ、その席を替わるべきだ!そうすれば、もれなく我は綾花ちゃんの寝顔という小さき天使の寝顔を存分に見れるではないか!」
「勝手なことを言うな!」
「…‥…‥うむっ。やはり、綾花ちゃんは寝顔も可愛いのだ」
不愉快そうにそう吐き捨てた拓也を無視して、昂は綾花に視線を転じると顎に手を当てまんざらではないという表情を浮かべた。
「おい!」
寝顔の綾花を満喫できて御機嫌な様子の昂に、拓也は突き刺すような眼差しを向ける。
昂は拓也を見遣ると、不愉快そうに顔を歪めた。
「勝手ではない!そもそも、何故、綾花ちゃんの隣が我ではなく貴様なのだ!」
「そういうおまえこそ、追試と補習はどうした?」
拓也からの当然の疑問に、憤懣やるかたないといった様子で昂は答えた。
「何を言っている?そんなもの、我が連休の間だけ補習をなくしてほしい、と先生に土下座して頼み込んだに決まっているではないか!」
「…‥…‥それは、自慢することじゃないだろう」
昂の言葉に、拓也は呆れたように眉根を寄せる。
「拓也、舞波」
いつまで経っても埒が明かない拓也と昂の折り合いの中、唐突に元樹から言葉を投げかけられて、拓也は昂から元樹へと視線を向ける。
「元樹?」
「声」
拓也の戸惑いとは裏腹に、昂と同じく横から顔を出してきた元樹が人差し指を立ててつぶやく。
「…‥…‥っ」
「…‥…‥むっ?」
元樹に指摘されて、拓也はようやく、ちらちらとこちらに視線を向ける他の乗客達に気づいた。
元樹が不満そうな隣の席の昂を横目に見ながら、ため息をついて言う。
「それにあんまり騒ぐと、瀬生も起きてしまうだろう?」
言うが早いが、元樹は自分と同じ窓際の席の綾花へと視線を向ける。
先程の騒ぎで目が覚めてしまったのではないかと懸念したものの、綾花はいまだに拓也の横で眠っており、元樹は胸に滲みるように安堵の表情を浮かべた。
「そういえば、元樹、部活の方は大丈夫なのか?」
拓也がふと思い出したように、元樹に尋ねた。
「ああ。部長に許可は取ってきた」
「そうなんだな」
元樹のどこか気さくな感じの説明に、拓也は思わず目をぱちくりとさせる。
「あら?進は寝ているの?」
すると、今まで拓也達の会話を黙って聞いていた進の母親が不思議そうに顔を覗かせて口を挟んできた。
元樹達のさらに後ろの座席に座っている進の母親の声を聞いた拓也は、眠り続けている綾花の横顔を見て苦笑しながらも答える。
「はい」
「うーん、そうなの。駅に着く前に、進と少し話をしたかったのだけど仕方ないわね…‥…‥」
そんな拓也の言葉を聞いて、進の母親は少し名残惜しそうな表情をして言う。
その時、隣に座る進の父親がためらいがちに口を開いた。
「なあ、母さん。あまり人前で、彼女のことを『進』だとは呼ばない方がいいのではないのか?」
「何言っているの、あなた。たとえ、外見は変わっても、進は進ですから」
進の父親が軽く肩を竦めてみせると、進の母親は穏やかな声できっぱりとそう告げてみせた。
「いや、私とて進は進だと思うが、それと同時に彼女は瀬生さんでもあるのだろう?誤解を招くような行動は控えるべきだ」
「うーん。なら、この呼び方はどうかしら?」
進の父親がため息混じりに言うと、進の母親は何かを閃いたように口を開いた。そして席から立ち上がり、綾花に近づくと、綾花の頭を優しく撫でる。
「琴音」
「…‥…‥っ」
にべもなくそう呼んでみせた進の母親に、拓也は反発よりも先に驚いた。
どうやら進の母親は、綾花のことをゲームの大会で綾花が名乗った偽名で呼ぶことにしたらしい。
進の母親の相変わらずの順応性の高さに、拓也は唖然とした顔で辟易してしまう。
「これなら、問題ないでしょう?」
「母さんがそう呼びたいのならーー私もそれでいい」
何気ない口調で問いかけてくる進の母親の言葉に、進の父親は呆れたように頭を抱えたのだった。
「綾花ちゃん、可愛いのだ!」
綾花の姿を目にした昂が、拓也が先に告げようとしていた言葉をあっさりと口にして目を輝かせた。
目的地の駅を降り、駅近くの湖のほとりに降り立った綾花の出で立ちは、いつにもまして華やかだった。
いつものサイドテールは解かれており、水色のワンピースに麦わら帽子を被っている。フリルとリボンが愛らしい水色のワンピースは、その可憐な容姿によく似合っていた。
「ありがとう、舞波くん」
陽光に輝く綾花の横顔は、今までに見たこともない喜びに満ちていた。
希望を溢れさせるその顔を見て、拓也はどこか切なさを感じてしまう。
「そうでしょう?琴音、似合っているわよ」
綾花の後に湖のほとりへとやってきた進の母親がにこりと笑って言った。
綾花は拓也達から離れると、進の母親の元に駆け寄り、自身のワンピースの裾を掴むと、進の母親に視線を向けてここぞとばかりに告げる。
「母さん、このワンピース、可愛い」
「そうなの!可愛いでしょう!ショッピングモールで見かけてね、もう、一目惚れだったの」
衣装談義に花を咲かせる二人を前にして、拓也が言い知れぬ疎外感を味わっていると、元樹がやってきて軽い調子で声をかけてきた。
「おっ?瀬生、可愛いな」
「あのな、元樹」
虚を突かれたように瞬くと、拓也は振り返ってそう言う。
「なあ、拓也もそう思うよな?」
元樹から意味ありげに問われて、拓也は意を決したように息を吐くと必死としか言えない眼差しを綾花に向けた。
「あ、ああ。綺麗だ」
「…‥…‥ありがとう、たっくん」
拓也からの称賛に、綾花は照れくさそうに視線をうつむかせると指先をごにょごにょと重ね合わせてほのかに頬を赤らめてみせる。
そんな中、進の父親が綾花の姿を見とめて、ゆっくりと彼女の下へと近づいてきた。
「すすーーいや、琴音は随分とはしゃいでいるな」
「あっ!父さん、どうかな?」
顔を上げてそわそわと麦わら帽子を揺らす綾花に、進の父親は胸中に渦巻く色々な思いを総合してただ一言だけ言った。
「よく似合っている」
「ありがとう、父さん」
瞬間、綾花はつぼみが綻ぶようにぱあっと笑顔になった。嬉しさを噛みしめるように、進の父親の腕にぎゅっとしがみつく。
「ーーっ」
予想外の綾花の反応に、進の父親は不覚にも言葉を失う。
「相変わらず、あなたは慣れないのね」
「…‥…‥当たり前だ。進はこんな感じに甘えてはこなかった」
噛みしめるようにくすくすと笑う進の母親に、釈然としない顔で進の父親がぼやく。
「えっ?」
その言葉に、綾花はきょとんとした顔をした。
だがすぐに、綾花は進の父親に向かって花咲くような笑みを浮かべるとありていに言ってのける。
「父さんは、進の時みたいに振る舞った方がいいの?」
「…‥…‥あっ、そういうわけでは…‥…‥」
そのあどけなく見える笑顔に、進の父親はなんと答えればいいのか分からず、胸がぎゅっと絞られるような心地がした。
「ーーなあ、父さん、これでいいのか?」
「なっ!?」
突然、話し方が変わった綾花の豹変ぶりに、進の父親は思わずうろたえる。
その慌てぶりに、不意に綾花はあることに気づき、顔を俯かせると辛そうな顔をして言った。
「…‥…‥ごめん、父さん。驚かせて…‥…‥。そういえば、父さんは俺がこうして綾花から進として振る舞うのを見るのは初めてだったんだよな?」
「…‥…‥母さんから話は聞いていたが、本当に進なんだな」
切羽詰まったような綾花の態度に感じるものがあったのだろう。
思い詰めた表情をして言う綾花に、進の父親は真実を見たような気がして綾花の肩に手を置いた。
「ああ」
綾花はそう言って笑ってみせた。
見慣れた進のその笑顔に、何かが揺れ、ざわめき始める。
その笑顔に、進の父親はあらためて彼女に進が憑依していることを思い知らされてしまう。
見上げた空はどこまでも青く広がっており、感じたこともない高揚感をもたらしていた。