第四十一章 根本的に追憶の向こう側③
「陽向くん……」
陽向が消え去った場所を見つめて、綾花は寂しそうに顔を俯かせる。
そんな綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
「綾花が、いつもの綾花に戻れて良かった」
「えっ?」
拓也のぽつりとつぶやいた言葉に、顔を上げた綾花は不思議そうに小首を傾げる。
「……正直、不安だったんだ。綾花が上岡として振る舞っている間、俺は陽向くんの魔術から、どうやって綾花を護っていったらいいんだろうってずっと考えていたから」
「たっくん……」
いつものほんわかとした綾花とのやり取りに、拓也は嬉しそうにひそかに口元を緩める。
いつもと変わらない他愛ない会話が、拓也には妙に心地よく感じられた。
「お帰り、綾花」
「うん。ただいま、たっくん」
拓也の目の前で、綾花がそわそわとアホ毛を揺らして花咲くようににっこりと笑う。
いつもの綾花の笑顔の波紋がじわじわ広がり、拓也の胸の奥がほのかに暖かくなる。
「なあ、綾花。俺に希望をくれないか?」
「希望?」
拓也が咄嗟に口にした疑問に、綾花はきょとんとする。
「辛くても悲しくても怖くても、俺がしがみつきたくなる希望がほしいんだ!」
「ーーっ」
綾花がその言葉の意味を理解する前に、拓也はそっと、綾花の頬に口付けをした。
「離れたくない。離したくない。これからも、綾花にそばにいてほしい!」
「……うん。私もね、たっくんのそばにいたい」
いつもとは違う弱音のように吐かれた拓也の想いに誘われるように、綾花は幸せそうにはにかんだ。
「おい、拓!」
「おのれ~!偉大なる我を差し置いて、綾花ちゃんに口づけをしてのけるとは不届き千万な輩だ!」
「たとえ、拓が瀬生綾花さんと付き合っていて、友樹が麻白と付き合っていても、俺は麻白が好きだからな!」
苛立たしそうに叫んだ元樹と昂と大輝をよそに、拓也はそのまま、綾花を愛しそうに抱きしめたのだった。
「陽向!」
「陽向、大丈夫?」
「父さん、母さん」
陽向の両親の声に反応して、点滴を施されていた陽向はベッドから起き上がった。
真っ白で、でも無機質ではない、残酷なほどに穏やかな空気が流れる病室には、陽向と陽向の両親、そして玄の父親しかいない。
「叔父さん。あの後、僕、倒れてーー」
「陽向くん、すまない。君に負担をかけてしまったようだ」
陽向の疑問に応える玄の父親の瞳には、複雑な感情が渦巻いている。
陽向は病室に戻ってきた後、そのまま時間切れとなったのだ。
玄の父親は目を伏せると、静かにこう告げる。
「陽向くん。今日は、麻白のために無理をさせてしまってすまない」
「無理をしたんじゃないよ。本来の僕の身体は、ちゃんと病室で眠っているから」
陽向にそう不敵に笑いかけられ、玄の父親は困ったように目を細めた。
だが、肝心の陽向は答えを求めるようにつぶやいた。
「叔父さん。麻白を連れ戻すことは、麻白のためになるんだよね」
「ああ」
「本当に、麻白のためなんだよね」
「そうだ」
陽向の打てば響くような返答に、玄の父親は確信に満ちた顔で笑みを深める。
「……そうなんだ。やっぱり、僕達がおこなっていることは間違っていないんだね」
陽向は迷いを振り払うように、玄の父親を見上げた。
「叔父さんに頼まれなくても、麻白は僕の数少ない友達の一人なんだから絶対に連れ戻すよ」
陽向は前を見据えると、昔を懐かしむように明るい笑顔で語る。
「そして、昔みたいに、みんなで一緒に遊ぶんだ」
「陽向くん、ありがとう」
どこまでも楽しそうな陽向を見て、玄の父親は穏やかに微笑んだ。
「陽向くん。私はーー私達はただ、麻白に帰ってきてほしい。帰ってきてほしいだけなんだ……」
「叔父さん……」
拳を握りしめ、苦悩の表情を晒す玄の父親は、明らかに戸惑っていた。
元樹達が綾花を守りたいと願っているように、玄の父親達もまた、麻白に戻ってきてほしいと焦がれている。
すれ違う想いは、元樹達と玄の父親達の間に確かな亀裂を生じさせていた。
「社長」
遠慮がちな声をかけられて、玄の父親は、陽向から病室に入ってきた美里へと視線を向ける。
「そろそろ、病院の面会時間が終わります。先生方が戻ってくる頃合いかと」
「……分かった。玄と大輝くんを連れて来てほしい」
「かしこまりました」
玄の父親の指示に、美里は丁重に一礼する。
そして、玄の父親は美里を伴って、陽向の病室を後にしたのだった。
玄達が美里に付き添われて立ち去った後、綾花達は帰路へとついていた。
特急列車の窓から射し込む夕日は、普段より眩しく思えた。
かたことと揺れる特急列車の車内で窓の外を通り過ぎる住宅地やショッピングモールなどの景色を眺めながら、拓也は拳を強く握りしめて唸った。
ちょうど帰宅ラッシュとぶつかり、車内はそれなりに混みあっている。
そのためか、自由席内では座ることができず、綾花達は席が空くまで自由席の入口付近に立っていた。
綾花は、麻白の姿から元に戻っている。
帰りの特急列車の中で身を縮め、拓也の隣で何とか手すりに掴まろうと背伸びしている綾花から視線をそらすと、拓也は薄くため息をついた。
「今回も、大変な一日だったな」
「ああ」
拓也の言葉を受けて、感情を抑えた声で、元樹は淡々と続ける。
「黒峯蓮馬さんの目的は、綾を麻白にして連れ戻すことだ。恐らく、これからも何かしらの動きがあるだろうな」
「……そうだな。だけどーー」
苦々しい表情で、拓也は隣に立っている綾花の方を見遣る。
実際、今日の騒動でも、陽向くんと黒峯蓮馬さん達に裏をかかれてしまった。
その後、作戦を練って何とか、綾花を元に戻すことには成功したが、これからも黒峯蓮馬さんは、綾花を麻白にしようと目論んでくるだろう。
本来なら、綾花と黒峯蓮馬さん達を会わせないようにした方がいいのかもしれない。
だけどーー。
拓也の思考を読み取ったように、元樹は静かに続けた。
「だけど、俺達はそれでも、綾にーー麻白に、黒峯蓮馬さん達を会わせたいだろう」
「……あ、ああ」
元樹の即座の切り返しに、拓也は言いたかった言葉を先に告げられて、ぐっと悔しそうに言葉を詰まらせる。
「……たっくん、元樹くん、舞波くん、ごめんね」
いつものように拓也達が話し合っていると、手すりを握りしめていた綾花が拓也達に声をかけてきた。
「何がだ?」
隣に立つ拓也が怪訝そうに首を傾げると、綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「……私のーーあたしのせいで、みんなを大変なことに巻き込んじゃってごめんね」
「ああ、何だ。そのことか」
一点の曇りもなくぽつぽつとつぶやく綾花に、合点がいったようにまるで頓着せずに拓也は言った。
「気にするな、綾花。前に言っただろう。綾花が、綾花と上岡と雅山と麻白の四人分生きると決めたのなら、俺達は綾花の負担を少しでもなくしてみせる」
「ああ。黒峯蓮馬さん達が、麻白に生き返ってほしいと願っているように、俺達も、綾がーー綾の心に宿る麻白が生き返ってよかったって思えるようにーー幸せになってほしいんだよな」
「うむ。麻白ちゃんは我の婚約者だ。何の問題もなかろう」
「……ありがとう、みんな」
拓也と元樹と昂がそれぞれの言葉でそう答えると、綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだ。
その隣には、昂の母親が戸惑いながらも、穏やかな表情で綾花達を見守っていたのだった。




