第四十章 根本的に追憶の向こう側②
「父さん」
玄の父親の嘆き悲しむ姿に、玄は躊躇うように俯いた。
しかし、綾花達によって巻き起こった騒動を前にしても、病院内は静寂に包まれていた。
綾花達の会話を聞いても、近くにいた患者や医師達、そして見舞いに来た人達は心配そうに視線を向けてくるだけで、その場からそそくさと離れていく。
先程、放たれた昂と陽向による魔術の衝撃、それで生じた亀裂にも全くの無反応だった。
本来なら、病院内にいる人々は悲鳴を上げ、逃げまどい、警察に助けを呼ぶはずだ。
だが、まるで扇動されているように、病院内にいる人々はいつもと変わらぬ行動をおこなっている。
そこには、綾花達にとって、完全に理解を超えた現象が広がっていた。
「我は納得いかぬ!」
目の前の異様な光景の中、昂は一人、地団駄を踏んでわめき散らしていた。
何故なら、先程まで陽向と熱い魔術バトルを繰り広げていたというのに、いつの間にか自分を置き去りにしたまま、別の会話が始まってしまったからだ。
「…‥…‥おのれ、黒峯陽向!我のことを散々、けなした上に、我との戦いを放棄するとは許さぬでおくべきか!」
「…‥…‥おまえ、少しは空気を読めよな」
両拳をぎりぎりと握りしめ、不愉快そうに顔を歪めながら言う昂を横目に、元樹は呆れたように嘆息する。
「とにかく、我の偉大な魔術書は、もはや誰にも渡さぬ!!そして、綾花ちゃんを絶対に護ってみせるのだ!!」
背負っているリュックサックを背にして、昂は絶対防壁を展開すると言わんばかりに両手を広げて目を見開いた。
「なら、昂くん。魔術書を全て返してもらおうか」
その時、背後からかけられた声とともに、リュックサックそのものが消失する。
「ひいっ!我の魔術書が突如、全て消えてしまったのだ! 」
不可解な空気に侵される中、昂は絶望のあまり、総毛立った。
頭を抱えて、がっくりとうなだれる。
絶叫する昂をよそに、元樹は続く玄の父親の行動を予知して、脊髄反射で最適行動を取った。
「これで、陽向くんの目的は達成されるはずだ」
「まあ、そう持ちかけてくるだろうな」
一笑に付すべき言葉。
強がりにすぎない台詞。
そのとおりに笑みを浮かべた玄の父親は、次の瞬間、表情を凍らせる。
元樹が魔術道具を使って、一瞬で玄の父親のもとまで移動してきたからだ。
そして、玄の父親の体勢を崩すために足払いをした。
「……っ!」
静と動。
本命とフェイント。
元樹は移動に魔術道具を用いて、玄の父親の意表を突くと、緩急をつけながら時間差攻撃に徹する。
「なっ!」
間一髪で難を逃れた玄の父親の虚を突くように、元樹は素早く、昂のリュックサックを奪い返す。
「おおっ…‥…‥」
その光景を見た瞬間、昂が溢れそうな涙を必死に堪え、元樹を見つめる。
「はあっ……。もう、奪われるなよな」
「もちろんだ」
目の前に置かれたリュックサックに抱きつくと、昂はぱあっと顔を輝かせた。
「布施元樹くん。君はやはり、厄介だな」
「陽向くんが欲している、舞波の魔術書を狙ってくることは分かっていたからな」
嘲笑うような玄の父親の言葉に、元樹はまっすぐに戦局を見据えた。
玄は意を決したように玄の父親の方を振り向くと、神妙な面持ちで語り始める。
「父さんに頼みたいことがある」
「頼みたいこと?」
玄の父親の言葉に、玄は顔を俯かせると辛そうな顔をして言った。
「麻白達が、自由に生きることを許してほしい」
「玄、すまない。私はどうしても、麻白に戻ってきてほしいんだ」
「父さん、お願いだ!」
「それはできない」
玄の度重なる説得をよそに、玄の父親は大げさに肩をすくめてみせる。
「父さん!」
「おじさん!」
「さあ、この話は終わりだ。陽向くん、そろそろ時間だ。病室に戻ろう」
玄と大輝の叫びをよそに、玄の父親は表情の端々に自信に満ちた笑みをほとばしらせて告げる。
だが、肝心の陽向は答えを求めるようにつぶやいた。
「叔父さん。これって、麻白のためだよね」
「ああ」
「本当に、麻白のためなんだよね」
「そうだ」
陽向の打てば響くような返答に、玄の父親は確信に満ちた顔で笑みを深める。
「……そうなんだ。やっぱり、僕達がおこなっていることは間違っていないんだね」
陽向は迷いを振り払うように、玄の父親を見上げた。
「叔父さんに頼まれなくても、麻白は僕の数少ない友達の一人なんだから絶対に連れ戻すよ」
陽向は前を見据えると、昔を懐かしむように明るい笑顔で語る。
「そして、昔みたいに、みんなで一緒に遊ぶんだ」
「陽向くん、ありがとう」
どこまでも楽しそうな陽向を見て、玄の父親は穏やかに微笑んだ。
「陽向!」
「おい、陽向!」
「玄、大輝。これが麻白のためなんだ!」
玄と大輝の叫びは届かない。
陽向は耳を塞ぎ、肩を震わせて、まるで瞳に映る全てのものを否定するように深く俯いていた。
「陽向くん!」
綾花の悲痛な叫びさえも無視して、陽向は腕時計に表示されている時間を見つめる。
そこには、玄の父親が催促したとおり、ちょうど、魔術の知識の効果が切れる時間の少し手前を示していた。
「そろそろ、戻らないといけない時間だね」
「時間?」
拓也が怪訝そうに見つめている先で、陽向は構えを解いて肩をすくめる。
「麻白、また、会いに来るね。僕達は、麻白が麻白として生きることを拒んでも諦めないよ」
「陽向くん、頼む。綾をーー麻白を元に戻してもらえないか?」
あっさりと踵を返した陽向に、元樹が慌てて声をかけた。
「心配しなくても、もう自力で元に戻っているよ。まあ、だけど、これからも麻白が麻白として生きたいと思うように、働きかけは今後もしていくつもりだから」
そのまま、魔術を使おうと手を掲げたところで、陽向はふと思い出したように振り返った。
「ねえ、昂くん。勝負はお預けだけど、君の魔術書はいずれ、僕がもらうからね。もっとも今、もらえると嬉しいな」
「我の魔術書を、誰にも渡すはずがなかろう!」
リュックサックを背負った昂が拳を突き上げながら地団駄を踏んでわめき散らしている間に、陽向は玄の父親とともにその場から姿を消した。




