第三十八章 根本的にいつまでも先に進めないのは
「……なるほどな」
元樹は一拍置いて動揺を抑えると、陽向と玄の父親が以前、企業説明会で口にした言葉を改めて、脳内で咀嚼した。
「陽向くんの魔術なら、病室までの道のりに罠を嵌めることもできるはずだ。だけど、それをしないということは、綾と同じように、陽向くんにも時間制限があるんだな」
確信を持った笑顔。
その表情を見た瞬間、陽向は不満そうに唇を尖らせる。
「何だか、元樹くんに全てを見透かされているような気がする」
自身が出向いた理由をあっさりと言い当てられて、陽向は必死としか言えない眼差しを元樹に向ける。
そんな中、綾花は陽向の顔を見るなり、切羽詰まった表情で言い募った。
「お願い、陽向くん!あたしを元に戻して!」
「うん、いいよ」
綾花のその反応に、表情を切り替えた陽向は満足そうに頷くと淡々と言う。
「えっ?」
「ただし、麻白が戻ってきたらね」
「……っ」
戻る、その単語が出た瞬間、綾花の表情があからさまに強張った。
玄は一呼吸置くと、綾花と陽向のやり取りを油断なく見つめる。
「陽向、麻白のことで話したいことがある」
「玄」
玄が切り出した言葉に、陽向は身構えるように顔を強張らせる。
「俺達は、この間の企業説明会で、麻白に関する全てのことを知った。知った上で、ここに来ている」
「玄達は、麻白に戻ってきてほしくないの?」
玄の訴えに、陽向は視線を逸らすとふて腐れたように唇を尖らせた。
胸に染みる静寂の中、玄はそっと陽向に語りかける。
「俺達も、麻白に戻ってきてほしい。そう願っている。だけど、同時に麻白を悲しませたくない」
陽向は顔を伏せたまま、何も言わなかった。
それでも、想いがそのまま形になるように、とめどなく言葉が、玄の心に溢れてくる。
「麻白は、自分自身でもある瀬生綾花さん、上岡進くんの心を消してしまうことを快く思っていない。麻白は、今の状態のままで生きていきたいんだと思う」
玄の決意の言葉に、顔を上げた陽向は心底困惑したように叫んだ。
「僕は、麻白に戻ってきてほしいよ!」
「陽向。俺達だって、本心は陽向のように麻白に戻ってきてほしいと願っているんだぞ。だけどーー」
苦々しい表情で、大輝は隣に立っている綾花の方を見遣る。
『玄、大輝くん、頼む。麻白に、私達のもとに戻ってきてくれるように頼んでほしい』
湖潤高校の企業説明会が終わった後、玄の父親は視線を床に落としながら玄達に懇願した。
綾花が麻白として生きてくれるのなら、これからはいつでも麻白に会うことができる。
麻白がいないその現実に……耐えなくてもいいのかもしれない。
だけどーー。
大輝の思考を読み取ったように、元樹は静かに続けた。
「だけど、麻白の悲しむ姿を見るのは嫌だったからだろう」
「ーーっ」
前に進み出た元樹の即座の切り返しに、大輝は言いたかった言葉を先に告げられて、ぐっと悔しそうに言葉を詰まらせる。
「玄と大輝は、僕の気持ちを分かってくれると思ったのに」
「陽向」
「ーーっ」
弱音のように吐かれた言葉に、玄と大輝は沈痛な面持ちで陽向を見つめた。
痛いような沈黙。
やがて、感情の消えた瞳とともに、陽向はあくまでも自分に言い聞かせるように告げる。
「麻白が麻白として生きることを拒んでも、僕達は諦めないよ」
「ーーなっ」
「ーーっ」
そう告げて綾花達のもとまでやってきた陽向に、拓也と元樹は綾花を守るようにして陽向の前に立ち塞がった。
「もちろん、玄と大輝が拒んできたとしてもね」
「ーーっ」
「おい、陽向!」
陽向に拒絶の言葉を連ねられて、玄と大輝は明確に怯んだ。
そんな玄達の動揺を見抜いたように、陽向は懇願するように綾花を見る。
「僕達は、麻白が麻白として生きたいと思うように、働きかけをしていくだけだから」
「陽向くんーーいや、陽向、お願いを聞いてくれないか!これからも、陽向にーー父さん達に会いに行くから。絶対に、会いに行くから。だからーー」
「麻白は、もう『麻白』としてしか生きられないから」
途中で口振りを変えた綾花が口にしたほんの小さな希望は、呆気ないくらい簡単に砕け散った。
綾花が驚愕の表情を浮かべているのを目にして、拓也は少し躊躇うようにため息を吐くと、複雑な想いをにじませて言った。
「陽向くん。麻白の心が宿っているとはいえ、綾花は綾花であり、上岡なんだ」
「陽向くん、頼む。綾達の存在を認めてくれないか?」
「認める?」
拓也と元樹の訴えに、陽向は挑戦的な笑みを浮かべた。
その反応に、拓也は身構えそうになって、自分で自分の手を掴むことで抑え込む。
「それはできないよ。僕は、麻白以外の存在を認めないから」
元樹の説得をよそに、陽向は大げさに肩をすくめてみせる。
「陽向!」
「陽向くん!」
「さあ、始めようか。麻白をーーそして、残りの魔術書を賭けた勝負を」
綾花と元樹の叫びをよそに、陽向は決意を込めた声でそう告げたーーその時だった。
「黒峯陽向、喰らうべきだ!!」
その一撃は、その場にいたほぼ全員が予想していなかった。
綾花達が止める暇もなく、昂は迷いなく、陽向に向かって魔術を放つ。
企業説明会で玄の父親に放った魔術と同じように、陽向にだけ攻撃が及ぶように射程を絞っている。
そして、強力な魔術を放てるようにと、威力を一点に集めていた。
誰が見ても完璧な不意討ちを前にして、陽向には動揺の色は見受けられなかった。
むしろ、初めから昂が攻撃をする瞬間を見切っていたように、陽向は後方に移動して魔術をかわす。
「昂くんの魔術はすごいね」
「黒峯陽向。この間の借り、そして我の魔術書を取り戻す時が来たのだ!」
「うん。昂くん、期待しているよ!」
一拍だけ間を置いて、射貫くように鋭い視線を向けた昂に対して、月下に咲く大輪の花のように、陽向は不敵に微笑んでみせたのだった。
「あたしは玄と大輝、そして父さんと母さんのところに帰りたい。……帰りたいよ」
昂と陽向の魔術の戦いを前にして、見守っていた綾花は追い詰められたように訴える。
だが、すぐに自身の考えを改めた。
「これは、本当に麻白の望みなのか?」
奇妙に停滞した心の中で、綾花は思い悩むように自問自答した。
そうつぶやいた瞬間、いつものように麻白の想いが、綾花の脳内にぽつりと流れ込んでくる。
『あたし、玄と大輝にーー、父さんと母さんに会いたい』
「ああ、会いたい」
麻白の想いに誘われるように、綾花は嬉しそうに笑ってみせる。
『だけど、あたし、これからもみんなのそばにいたいよ』
「……これからもみんなのそばにいたい」
麻白の想いに誘われるように、綾花は悲しそうに顔を歪めて力なく項垂れる。
麻白の望みは、みんなのそばにいることだ。
その上で、玄達に会いたいのだろう。
綾花達が麻白のことを想っているように、麻白もまた、綾花達のことを想っていた。
「そうだな」
吹っ切れたような言葉とともに、綾花はまっすぐに陽向を見つめる。
「俺はーーいや、綾花と麻白は魔術に負けない」
綾花は麻白の想いの真実を見たような気がして、穏やかな表情を浮かべた。
「これからもみんなで一緒にいるために、俺に力を貸してくれないか。ーー頼む、綾花!」
綾花は意を決したように声高に叫ぶ。
心の中で魔術に苛まれている自分自身にーー。
その瞬間、綾花の表情は先程までの進の表情とはうって変わって、いつもの柔らかな綾花のそれへと戻っていた。
「陽向くん。私は、これからも瀬生綾花だよ」
唐突な声。
拓也達が望んで、誰もが想像だにしていなかったことが現実に起きた。
「綾花!」
「綾!」
「おおっ、綾花ちゃん!」
「みんな、ただいま」
拓也と元樹と昂がそれぞれの言葉でそう答えると、綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだ。
その隣には、玄と大輝が戸惑いながらも、穏やかな表情で綾花達を見守っている。
「どうして……。もう魔術の影響で、麻白としての自覚を持っているはずなのに……」
ただ一人、陽向だけが顔を俯かせて悲痛な声を漏らしたのだった。




