第三十六章 根本的に帰路への黙示録
「瀬生綾花さんを、完全に麻白にすることができる魔術書?」
玄は半信半疑な表情で、綾花達に訊いた。
元樹は、多くの昂達が警備員達から逃げ回っている合間に、綾花達を連れ添って、近くのファーストフードで話をしていた。
ファーストフードで話をするのもどうかと考えたが、幸い、店内は昂達に注目が集中しており、綾花達の話に耳を傾ける者はいなかった。
「本当なのか?」
「ああ」
拓也は、綾花にかけられた魔術のことを打ち明けた後、玄達に向かって真摯な瞳で伝えた。
「魔王の情報では、そういった魔術みたいだ」
拓也にそう告げられても、玄達はあまりの滑稽無稽さに正気を疑いたくなった。
頭を悩ませ、大輝はテーブルに肘をついて頼んでいたフロートドリンクに口をつける。
「魔王の情報。怪しい情報のような気がするな」
「確かにな」
大輝の指摘に、元樹は困ったように苦笑する。
「だけど、事実なんだ。実際に、綾に宿る麻白の心は強くなってきている」
「麻白の心が強くなってきているって言われてもな」
元樹の説明に、大輝は納得いかないように眉をひそめる。
咄嗟に、綾花が焦ったように言う。
「大輝、友樹が言っていることは本当なんだよ。あたしの心が強くなってきているの」
「……俺達としては、本当に麻白の心が強くなってきているのなら、嬉しいことなんだけどな」
「ーーっ」
大輝の不服そうな言葉に、綾花はほんの一瞬、戸惑うように息を呑んだ。
不意に、目の前に座る大輝との距離を感じて、綾花は傷ついた表情を浮かべて俯く。
押し黙ってしまった綾花を見かねて、玄は表情を緩めて軽く肩をすくめてみせた。
「……なら、今の麻白は、上岡進くんなのか?」
「……うんーーいや、ああ」
玄の質問に、口振りを変えた綾花は自分に言い聞かせるように頷く。
「今の俺は、上岡進だ。進として振る舞えば、陽向の魔術を受けないみたいだからな」
「ーーっ」
「なっーー」
突然、話し方が変わった麻白の姿をした綾花の豹変ぶりを前にして、玄と大輝はさすがに狼狽える。
綾花は顔を上げると、辛そうな顔をして続けた。
「玄、大輝、驚かせてごめん。でも、俺とーーあたしが綾花として生きているのは確かな事実なんだよ」
改めて麻白としてそう告げる綾花の瞳は、どこまでも澄んでおり、真剣な色を宿していた。
そのことが、玄を安堵させる。
麻白は生きている。
麻白は今、確かにこうして、俺達の目の前で生きている。
不可解な生還劇ではあったが、それは決して変わることのない揺るぎない事実だった。
「……そうか」
綾花の言葉に、内心の喜びを隠しつつ、玄は微かに笑みを浮かべた。
「おい、そこ、麻白に甘すぎだろう。あっさり、納得するなよ」
「大輝が冷たすぎ」
大輝に指摘されて、綾花は振り返ると不満そうに頬を膨らませてみせる。
「麻白、俺は冷たくないぞ。ただ、麻白を心配しているだけだ」
綾花のふて腐れたような表情を受けて、大輝は不服そうに目を細めてから両拳をぎゅっと握りしめた。
「俺達だって、本来なら、おじさんや陽向のように麻白に戻ってきてほしいと願っているんだぞ。だけどーー」
苦々しい表情で、大輝は目の前に座っている綾花の方を見遣る。
『玄、大輝くん、頼む。麻白に、私達のもとに戻ってきてくれるように頼んでほしい』
湖潤高校の企業説明会が終わった後、玄の父親は視線を床に落としながら玄達に懇願した。
綾花が麻白として生きてくれるのなら、これからはいつでも麻白に会うことができる。
麻白がいないその現実に……耐えなくてもいいのかもしれない。
だけどーー。
大輝の思考を読み取ったように、元樹は静かに続けた。
「だけど、麻白が悲しむ姿を見るのは嫌だったからだろう」
「ーーっ」
元樹の即座の切り返しに、大輝は言いたかった言葉を先に告げられて、ぐっと悔しそうに言葉を詰まらせる。
「ああ、俺も同じだ。だから、綾はーー麻白は誰にも渡さない」
「ま、麻白が友樹と付き合っていたとしても、俺は諦めるつもりなんてないからな!」
「絶対に負けないからな」
苛立たしそうに叫んだ大輝に、元樹ははっきりとそう告げる。
明白な宣戦布告ーー。
「ーーっ」
睨み合う二人の視線は、大輝の側から外された。
そのタイミングで、玄は意を決したように綾花の方を振り向くと、神妙な面持ちで話し始めた。
「俺達は、何をすればいい?」
「陽向くんを説得してほしい」
玄の問いに、元樹は間一髪入れずに即答する。
「麻白の話だと、陽向くんは家族や親戚以外の人とは面会謝絶だから、直接、会うのは厳しいんだ。魔王の魔術を使えば、会いに行くこともできるかもしれないが、何かしらの罠が仕掛けられている可能性も否めないからな」
「魔王の魔術、陽向の魔術か。全て魔術絡みで起こっている出来事だよな」
大輝がさらに不可解そうに疑問を口にするが、元樹は気にすることもなく言葉を続ける。
「恐らく、俺達が訴えても、陽向くんは綾にかけた魔術を解いてはくれないだろう。だけど、玄と大輝の言葉なら、話を聞いてくれるかもしれない」
元樹の訴えに、玄はため息とともにこう切り出してきた。
「それでも、陽向が拒否した場合はどうするんだ?」
「その場合は陽向くんが持っている、その魔術書自体を手に入れるつもりだ」
何のひねりもてらいもない。
ごく当たり前の事実を口にしただけの言葉。
目を丸くし、驚きの表情を浮かべた玄と大輝を見て、元樹は意味ありげに綾花に視線を向ける。
綾花をもとに戻す方法を問いただすことから、陽向が持っている魔術書を奪う、という極大まで広がった問題に、拓也は絶句してしまう。
「頭が痛くなってくる……」
あまりにも突拍子がない作戦に、拓也が思わず頭を抱えた、その時ーー。
「お待たせ致しました」
店員が注文した覚えのない品を運んできた。
中断された話とテーブルに並べられる料理。
「えっ?あの、あたし達、注文していません」
手を上げた綾花が止めても、店員はさして気にせず配膳を続ける。
料理が並べられたのを確認し、一礼した後、店員はにっこりと笑って言った。
「お客様、申し訳ございません。魔術書をお渡しすることはできません。もちろん、お客様の魔術を解いたりするつもりもございません」
「な、何を言っているんだよ?」
噛みしめるようにくすくすと笑う店員を前にして、怪訝そうに大輝が訊ねる。
「どうなっているんだ?」
「これって……」
「あっ……」
目の前の異様な光景に、玄が戦慄して、拓也と綾花は何かを察したように目を見開いた。
そのタイミングで、元樹は軽く言った。
「なるほどな。洗脳している店員を使って、俺達に話しかけているのか」
「お客様には、すぐにバレるのですね」
まるで苛立つように意識して表情を険しくした元樹の姿に、店員は意味深な笑みを浮かべる。
「陽向くん……」
綾花達の事情を知らない店員の間で交わされる取引。
明らかに異質な光景を前にして、綾花は躊躇うように俯いた。
不可解な空気に侵される中、元樹が慄然と言う。
「いつも誰かを洗脳した状態で、俺達に話しかけてくるな。店員が同じ客に対して、ずっと話しかけているのはまずいんじゃないのか?」
「そうですね。ご指摘、ありがとうございます。それでは、病院内でお客様のお越しをお待ちしております」
元樹がてらいもなくそう告げると、店員は再び、一礼をした後、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちる。
「あれ……?私、今まで何を……」
「なっ!」
「おい、本当にどうなっているんだよ?」
意識が朦朧としている店員を見て、玄と大輝はどうしようもない気持ちになって言葉を吐き出した。
茉莉と亜夢、そして湖潤高校の生徒達と同じように、店員には操られていた時の記憶はない。
「陽向くんに魔術を解いてもらうことは、かなり難しそうだな」
魔術道具を握りしめた元樹は、導き出した一つの結論に目を細めたのだった。




