第三十四章 根本的に彼の決意は前触れもなく、去っていく ☆
『ピンポーン』
「はい」
翌朝、進の家に着くと同時に、拓也がインターホンを押すと、インターホンから進の母親と思われる女性の声が聞こえてきた。
拓也が簡単に要件を伝えると玄関のドアが開かれ、中から進の母親が拓也達を出迎えた。
「おはようございます」
「朝早くにすみません」
拓也がそう切り出して頭を下げると、元樹もそれに倣って一礼する。
拓也は顔を上げると、神妙な面持ちでこう言葉を続けた。
「綾花、起きていますか?」
「井上、布施、おはよう」
拓也の呼びかけが聞こえたのか、麻白の姿をした綾花が意気揚々に玄関に駆け寄ってきた。
「綾花、おはよう」
「綾、大丈夫そうだな」
アホ毛を揺らして柔らかな笑みを浮かべたーー進として振る舞っている綾花を目にして、拓也と元樹は思わず苦笑する。
「ああ。俺として振る舞った状態なら、陽向の魔術の影響を受けないみたいだ。布施、気づいてくれてありがとうな」
「あ、ああ」
ペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて楽しそうに話しかけてくる綾花を見て、元樹は少し照れくさそうに頬を撫でる。
一息置くと、拓也はほっと安堵した表情で言った。
「ははっ、綾花がいつもの綾花のままで良かった」
「うん?」
不思議そうに小首を傾げる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
「……正直、不安だったんだ。昨日、陽向くんの魔術の影響で、綾花の様子が変だっただろう。何だか綾花が遠くに行ってしまうんじゃないかって、俺はずっと心配だったから」
「……井上」
いつもの進として振る舞っている状態の綾花とのやり取りに、拓也は嬉しそうにひそかに口元を緩める。
いつもと変わらない他愛ない会話が、拓也には妙に心地よく感じられた。
拓也はため息を吐きながらも、吹っ切れたような表情を浮かべて言う。
「綾花、何か困ったことがあったら、いつでも駆けつけるからな」
「……ありがとうな」
そう答えた綾花の笑顔は、ペンギンのぬいぐるみを抱きしめているためか、いつもより幼く見えた。
警戒するように辺りを見渡すと、元樹は怪訝そうに綾花に尋ねる。
「綾、舞波はまだ、来ていないのか?」
「ああ。魔術による妨害の準備に手間取っているって、交換ノートには書いてあったけど」
「不吉だな」
ペンギンのぬいぐるみを抱いたまま、率直に告げられた、思いもよらない綾花の言葉に、拓也は緊張で顔を引き締めた。
拓也の脳裏に、あらゆる、不測の事態が駆け巡る。
舞波のことだ。
通常の魔術の妨害だけでは飽き足らず、警察に再び、捕まるようなろくでもない方法を考え出しているに違いない。
悶々と苦悩していると、そんな不安さえ拓也の頭をもたげてくる。
舞波はいたらいたらで困るのだが、姿を現わさないとさすがに嫌な予感しかしない。
「すまぬ、綾花ちゃん~!」
また良からぬことを考えているのではないか、と思案に暮れる拓也の耳に勘の障る声が玄関のドアの向こうから聞こえてきた。
突如、聞こえてきたその声に苦虫を噛み潰したような顔をして、拓也と元樹は声がした方向を振り向く。
「お待たせなのだ!」
案の定、満面の笑顔で玄関のドアを開け放つ昂の姿があった。
躊躇なく思いきり綾花に抱きつこうとしていた昂に、拓也と元樹は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
抱きつくのを阻止されて、昂は一瞬、顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに話をひたすら捲し立てまくった。
「少々、準備に手間取ってしまってな」
淡々と事実を告げる昂に、拓也は警戒心をあらわにして訊いた。
「どんな対策を考え出したんだ?」
「貴様に答える必要はない」
訝しげな拓也の問いかけにも、昂は何でもないことのようにさらりと答えてみせる。
拓也はさらに怪訝そうに眉を寄せると、立て続けに言葉を連ねてみせる。
「なら、おまえが機嫌がいいのは、その大きなリュックサックに入っている荷物のせいか?」
「玄と大輝、そして陽向くんが入院している病院に行くにしては、いくら何でも荷物が多すぎるんじゃないのか?まるで、全ての魔術書を持ってきたみたいだな」
再び質問を浴びせてきた拓也と元樹に対して、何を言われるのかある程度は予測できたのか、昂は素知らぬ顔と声で応じた。
「まるで、ではない。以前、スタジアムという場所に出向いた時に、黒峯蓮馬の魔の手によって、我の魔術書のほとんどが奪われてしまったのでな。これからは遠くに行く際には、肌見放さず持っておこうと、このリュックサックに全ての魔術書を詰め込んできたというわけだ」
「なるほどな。つまり、全ての魔術書を持ってきたから、機嫌がいいわけだ」
そのもっともな昂の言い分に、拓也はむっ、と唸るとなんとも言い難い渋い顔をした。
元樹は玄関を背景に視線をそらすと、不満そうに肩をすくめて言う。
「全ての魔術書があれば、黒峯蓮馬さん達に対抗できる。そう判断して、わざわざ持ってきたんだな」
「うむ」
苦虫を噛み潰したような元樹の声に、不遜な態度で昂は不適に笑った。
「ーーむっ?」
しかし、そこでようやく、昂は自ら自白していたことに気づく。
混乱しきっていた思考がどうにか収まり、昂は素っ頓狂な声を上げた。
「……お、おのれ~!井上拓也!そして、布施元樹!貴様ら、我に自白させるのが目的だったのだな!」
「おまえが勝手に話しただけだろう!」
「ああ」
昂が罵るように声を張り上げると、拓也と元樹は不愉快そうにそう告げる。
「そもそも、そんなに目立つリュックサックを抱えていたら、その荷物自体が怪しいと思われるだろう」
「陽向くんは、魔術書が置いてある舞波の部屋の中には立ち入ることができない。だけど、部屋から出したら、陽向くんは魔術書を奪うことができるんじゃないのか?わざわざ、その絶対的なアドバンテージを放棄する必要はないだろう」
「むっ……」
拓也と元樹の指摘に、昂は不服そうに非難の眼差しを向けた。
「……だが、我はもう二度と魔術書を奪われたくない。奪われたくないのだ。我の偉大な魔術書は、もはや誰にも渡さぬ!!」
背負っているリュックサックを背にして、昂は絶対防壁を展開すると言わんばかりに両手を広げて目を見開いた。
「なら、せめて『対象の相手を小さくする』魔術を使って、魔術書自体を小さくしたらどうだ?この魔術は、物に対しても有効みたいだしな」
「うむ、しかし、小さくしてしまえば、すぐに魔術書を確認できぬではないか……」
そのもっともな元樹の意見にも、昂は気まずそうにむっ、と唸る。
「我は魔術書を自由自在に読み明かし、なおかつ魔術書を守りたいのだ。その上で、黒峯蓮馬達と黒峯陽向を返り討ちにしてくれよう。そして、綾花ちゃんを護ってみせるのだ!!」
「……おい」
無謀無策、向こう見ずなことを次々と挙げていく率直極まりない昂の言葉に、拓也は抗議の視線を送った。
「あのな、昂」
「綾花ちゃんに頼まれても、こればかりは譲れないのだーー!!」
「おい、昂!玄関で暴れるなよ!」
ところ構わず当たり散らす昂に、綾花が困り顔でたしなめる。
そんな中、予想以上の昂の魔術書への執着心を目の当たりにして、元樹が呆れたように眉根を寄せた。
「はあ~、仕方ないな。拓也、綾、舞波のことで相談したいことがあるんだ」
「元樹、どうするんだ?」
「うん?」
予想外の元樹の言葉に、拓也と綾花は少し意表を突かれる。
元樹はつかつかと近寄ってきて、綾花達の隣に立つと、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で言った。
「綾、頼む。今からーー」
「ーーなっ!」
「……っ」
元樹から告げられた、その意味深で明らかに突飛な妥協案に、拓也は目を見開き、綾花は怪訝そうに首を傾げる。
「じゃあ、とりあえずやってみるな」
綾花は戸惑いながらも、元樹の提案に了承する。
そして、事情を聞いた進の母親とともに、綾花の母親がいるリビングへと駆けていった。
しばらく経った後、綾花の母親と進の母親とともに、衣装を新調した綾花が玄関に戻ってくる。
「あ、あのね、昂」
麻白の姿をした綾花は、恥ずかしそうに顔を赤らめてもごもごとそうつぶやいた。
新調した衣装ーーそれは以前、麻白の歌のお披露目会のために、玄の父親から送られてきたドレスだった。
桜色のドレスには、透けるように織りの細かいレースがふんだんにあしらわれている。
そして、赤みがかかった髪には、白い花飾りをつけていた。
「あやーー否、麻白ちゃん、可愛いのだ……!」
意外な場所で、麻白の姿の綾花の華やかなドレス姿を満喫できたことに、昂は思わず、歓喜の声を上げた。
「……あ、あたし、魔術書が小さくなったところが見たいな。昂なら、魔術書が小さくなっても、あたし達を守ってくれると信じているから」
「おおっ……」
その言葉を聞いた瞬間、昂が溢れそうな涙を必死に堪え、綾花の顔を見つめる。
「もちろんだ。我が、麻白ちゃんの望みに応えないわけがないではないか!」
「昂、ありがとう」
その言葉を聞いて、綾花はぱあっと顔を輝かせた。いつもの綾花、そして麻白のように、ほんわかな笑みを浮かべて、嬉しそうにはにかんでみせる。
だが、進としては恥ずかしいのか、若干、顔を赤らめていた。
「あっさりと承諾したな」
「ああ、想像以上に効果があったな」
昂が顎に手を当てまんざらではないという表情を浮かべているのを見て、拓也と元樹は二者二様で呆れ果てたようにため息をつくのだった。




